第7話 ヨーゼフ・ハイン、冬の夜語り。前編

 メルヒオールの瀟洒かつ合理的な設えの執務室には、主の他に五人がいた。聖マルティヌス騎士団員オイゲン、アルトアイゼン宮廷顧問官ルドルフ、王太子ラインハルト、王女ゾフィー・マティルデ、そして宮廷魔術師ヨーゼフ・ハインである。

 皮肉屋で毒舌家、取り澄ましているくせに気性の激しい「問題児」ではあるが、ヨーゼフは細々した雑用をこなすことを苦にしない男だ。執務室のドアに鍵をかけ、テラコッタのリーフ模様があしらわれたベルベットのカーテンを引く。猫脚のテーブルの上のランプに灯をともす。

 こうして冬の闇と不穏を退けたヨーゼフは、ソファーに腰を下ろした。隣にはラインハルトが、向かいのソファーにはルドルフ、ゾフィー・マティルデ、オイゲンがいる。それが合図であったかのように、

「……先程は思うところがあり、陛下にはあのように申し上げたのだが」

 マホガニーのデスクの向かいに座したメルヒオールのバリトンが、室内に響く。オイゲンが頷いた。メルヒオールの「思うところ」には、アドルフ・ベルントルトの奸智と冷酷への警戒のみならず、エルネスティーネ・マリーアの残忍と狂気への嫌悪も入っているのだろうと、ヨーゼフは考えている。

「この度の戦いを経、私たちは蜘蛛についてより多くの情報を得ることが出来た。君に負うところが多いな、ヨーゼフ・ハイン。何より君が無事であることが喜ばしい、―――とても」

 メルヒオールは皮肉らしくなく言い、のみならずその言葉には親身の情がこもっていた。ヨーゼフもそれを察したのだろう、素直に頭を下げた。メルヒオールはソファーに座す一同を見つめ、

「シュテンゲル魔術学院長クランツビューラー博士が言っていたように、炎術魔法も蜘蛛に験がなくはない。しかし蜘蛛は治癒魔法によって消滅させることが叶う。蜘蛛はこの世のものらしくないという、クランツビューラー博士の推測は正しかった。蜘蛛は不死者、死霊の類いであり、生き身の、この世の存在ではない。そして蜘蛛が狙っていたのは―――」

「わたくしとラインハルトです」

 ゾフィー・マティルデは言い、メルヒオールを毅然と見つめ返した。ラインハルトが微かに身を強張らせる。ヨーゼフはその肩を抱き寄せ、真紅のマントで包んだ。メルヒオールの声が重苦しい陰鬱さを帯びる。

「……左様にございます、ゾフィー・マティルデ殿下。蜘蛛が出現するのは、王都あるいはアルトアイゼン国王の絶対的優位性を脅かしかねない存在のところだという、クランツビューラー博士の推測も的を得ていたこととなります。すなわち、王都魔術学院の脅威となり得るシュテンゲル魔術学院。……そしてゆくゆくは国王陛下の権力を脅かしかねない、ラインハルト王太子殿下。その庇護者にあらせられるゾフィー・マティルデ殿下」

「………」

 ラインハルトはヨーゼフの胸元に顔を埋め、マントを握る手に力を込めた。ヨーゼフはラインハルトの背をあやすように叩きながら、

「慧眼のクランツビューラー博士の推測が事実になったとはいえ、もう少し言葉を選ばれた方が良いと思うんですがね、宰相閣下。……しかし貴方がこうまで率直に仰有ってくださった以上は、わたくしも率直に申し上げましょう」

「言い給え、ヨーゼフ・ハイン」

「わたくしには、蜘蛛の正体が分かったように思われるのです」

「………!」

 居合わせた者たちの面上に驚愕が走る。だがヨーゼフは淡々とメルヒオールを見、

「……先程わたしは蜘蛛に組み伏せられ、襤褸の血文字を仰向けで見上げる形となりました。普段とは異なる角度、命の危機に起因する奇妙な平静さのためでしょうか。血文字は上下が逆に記されていると気付いたのです。もし血文字に鏡を当てたならば、その鏡面に映し出される文字が真実の形であると。そして―――」

 ヨーゼフは息を吸い、

「血文字で記された言葉が『Zorn』――すなわち憤怒ですね――であることに気付いたのです。もっとも文字は五千年以上昔、禁断の邪術を使うとされ、異端と見なされていた魔術師集団『憤怒の一角獣』の教典に用いられていたものでした。解読が遅れたことが良いとは申しませんが、些かの言い訳にはなりましょうか。そして蜘蛛にとって治癒魔法が致命的であることも鑑みたならば、奴の正体はもうお分かりでしょう。宰相閣下」

「……地獄の獄卒」

 メルヒオールの黒曜の瞳には、凄惨の色合いが宿っていた。

「奴らはそれぞれ、傲慢、憤怒、妬心、怠惰、貪欲、不敬虔、多淫といった罪を負う。我々聖マルティヌス騎士団員が敵と目(もく)すべきものだ」

 オイゲンが誰に言うともなく呟き、その指先がシグネットリングに触れた。メルヒオールは頷き、

「蜘蛛の正体は地獄に墜ちた罪人の魂だったのだな、ヨーゼフ・ハイン。己が罪ゆえに異形となり、地獄の罪人を呵責しつつ自らも罰を与えられる存在が、地獄の獄卒だ。傲慢、憤怒、妬心といった負の激情、性質を負う魂であるがゆえ、不死者の一種ではあるが―――」

「奴らに自らの意志でこの世に現れることは出来ない筈です。彼らの居場所は地獄なのですから」

「……するとヨーゼフ。誰か蜘蛛をこの世に呼び出している者がいるというわけか。アルトアイゼン国王と王都の絶対性を脅かす存在の許に蜘蛛が現れるならば、恐らくは国王陛下に近しい何者かが」

 ルドルフが口を開いた。精悍な顔立ちが心持ち青ざめている。ヨーゼフは淡々と―――激情を抑え込んだがゆえの淡々とした口ぶりで、

「その可能性は高いでしょう、宮廷顧問官閣下。しかし今の段階では慎重に判じ、慎重に動かなくてはなりません。宰相閣下の言葉を借りるならば、闇は深いのですから。ともあれ王太子殿下、ゾフィー・マティルデ殿下にとって、アルトアイゼン城が安全な場であると申すことは出来ません」

「ならば君はどうすべきだと考えているのか、ヨーゼフ・ハイン」

 メルヒオールの眼差しに力がこもる。ヨーゼフはラインハルトの背を右腕で抱きながら、

「ラインハルト王太子殿下を拙宅に匿わせていただきたいと存じます。その上で、わたくしとオイゲンが王太子殿下を守らせていただくという形を取りたいのです。ゾフィー・マティルデ殿下には宰相閣下の邸に滞在していただき、宰相閣下、ヴェルナーをはじめとする部下の特級位魔術師がお守りするという形を考えております。宮廷人には知られぬように。両殿下に異論がおありならば、無理強いは出来ませんが―――」

「嫌じゃないぞ!ヨーゼフのおうちにお泊まりするぞ!ヨーゼフと、顔はちょっと怖いけどすごく強い、金髪の騎士のお兄さんと一緒にっ!」

 ラインハルトがヨーゼフの胸元から顔を上げた。泣き濡れた空色の瞳は無邪気な輝きを帯びてヨーゼフを見、オイゲンを見る。オイゲンは彼なりの笑みを浮かべ――ぎこちなく、固くはあるが――ラインハルトに答えた。

「ラインハルト!ヨーゼフ・ハインや騎士オイゲンを困らせては―――」

 ゾフィー・マティルデの端麗な面差しには、ラインハルトをたしなめようという色合いが浮かんでいた。しかしヨーゼフとオイゲンがラインハルトに向ける微笑を目の当たりにし、口をつぐむ。その空色の瞳には心なしか、安堵の気配が浮かんでいるようだ。

「君の考えだが、ヨーゼフ・ハイン」

 メルヒオールの黒曜の眼差しの鋭さもまた、少しく和らいでいる。

「一部は賛成するが、全てに賛同するというわけではない。ヨーゼフ・ハイン、君が私の懐刀ということは宮廷人のみならず、王都の人間たちにとって周知の事実だ。だからして、万が一ゾフィー・マティルデ殿下かラインハルト王太子殿下の居場所が明らかになったなら、もう一方の居場所が明らかになる可能性は極めて高い。ラインハルト王太子殿下が君の許にいらっしゃるならば―――」

「ゾフィー・マティルデ殿下はシュヴァルツレーヴェ伯の許にいらっしゃる。そう見当を付ける者は少なくない筈だと仰有るのですね、宰相閣下。では閣下のお考えをお聞かせ願えますか」

 ヨーゼフは言葉こそやや皮肉めいているが、秀麗な美貌には感嘆の表情が浮かんでいる。メルヒオールの言葉を、ヨーゼフは素直に待っている。メルヒオールはヨーゼフに頷き、

「ゾフィー・マティルデ殿下にはヴォルフェンビュッテル邸(てい)に滞在していただくこと、ヴォルフェンビュッテル伯爵殿にお守りいただくことを私は提案する。伯爵殿の邸(やしき)には無論、ヴェルナー・ゼルテらを赴かせる。それにヴォルフェンビュッテル家は名高き武門の家柄だ。伯爵殿の邸の堅固さは、他に類を見まい。いかがかな、ヴォルフェンビュッテル伯爵殿」

「承知致しました、宰相殿」

 力強い身ごなしで、ルドルフがソファーから立ち上がった。サファイアブルーの瞳がメルヒオールを見、ゾフィー・マティルデを見つめる。

「このルドルフ・マンフレート・フォン・ヴォルフェンビュッテル。命に替えましてもゾフィー・マティルデ殿下をお守り申し上げましょう」

「それはわたくしの本意ではありません、ヴォルフェンビュッテル伯爵」

 ゾフィー・マティルデの凛然の気が、一同を圧した。

「わたくしはわたくしの為に流される血を、望みは致しません」

 ルドルフは黙した。サファイアブルーの双眸には驚嘆が走っていたが、直ぐ様ゾフィー・マティルデに恭しい辞儀をし、

「承知致しましてございます、ゾフィー・マティルデ殿下。ルドルフ・マンフレート・フォン・ヴォルフェンビュッテルは殿下をお守り申し上げること、我が身とヴォルフェンビュッテルが城を守ることに力を尽くしましょう」

 生真面目で精悍なルドルフの面貌を見、ヨーゼフは安堵していた。―――宮廷顧問官閣下ならばゾフィー・マティルデ殿下を守り抜き、誠実であり続けることが出来るでしょう。わたしには能(あた)わざることを、閣下は。


 アルトアイゼン王国の都―――通称王都は、荘厳華麗なるゲドゥルト大聖堂の位置するヴァールハイトプラッツを境に、東西に分かれている。新市街と呼ばれる東側には、市庁舎、ファータ・モルガーナ美術館、スキエンティア王立図書館、王都魔術学院などといった、行政、学問を司る施設、最新の建築様式で造られた新興住宅街が建ち並ぶ。そして旧市街と呼ばれる西側の区域は、時代の情趣を今に伝える閑静な住宅街、小ぢんまりした商店街が並んでいるのだ。ヨーゼフの住まいは、その住宅街の一角にある。先刻メルヒオールと打ち合わせた通り、ヨーゼフとオイゲンはラインハルトをアルトアイゼン城から連れ出し、ヨーゼフの住まいへ連れて行く途中なのである。青く冷たい黄昏の中、家々の灯が線香花火のように煌めく中を、三人は足早に歩いている。

 人目に付いてはいけないので、ラインハルトの身なりは小綺麗だが質素なものだ。黒いズボン、ダークブラウンのブーツを着け、白シャツに茶色い天鵞絨の上着を着、フード付きのチョコレート色のマントを羽織っている。そのフードを目深にかぶり、装飾品といえばマントの襟元からちらりと覗く、ラインハルトの気に入りの赤いリボンだけだ。

 蜘蛛の襲撃、姉ゾフィー・マティルデとの別離、アルトアイゼン城からの避難と、不穏な出来事が次々とラインハルトを見舞っている。その不条理に、ヨーゼフは憤りを覚えている。ラインハルトを守り抜きたいと、思う。しかし当のラインハルトは、

「足が痛くなったぞヨーゼフ!もう一歩も歩けないぞ!」

「さっき通ったお菓子屋さんの、ショウ・ウィンドウの真っ白いケーキ!あれを買ってくれないと、痛いのは治らないぞ!」

 ……少なくとも現時点では怯えた風に見えないのが、不幸中の幸いか知れない。些か中っ腹のヨーゼフは、

「あと少しでわたしの家です。ホットチョコレートを淹れますから、もうちょっとだけ我慢してください。そもそも、なんでウェディングケーキなんか欲しくなっちゃったんです!」

「ケーキを食べて、それでヨーゼフをお嫁さんにするんだっ!歩けないから抱っこかおんぶだぞ、ヨーゼフ!」

 ラインハルトはかなり滅茶苦茶なことを言っている。ヨーゼフとても困らないわけがない。しかしゾフィー・マティルデと別離を強いられたがためのラインハルトの寂寥、心細さを思うと、ウェディングケーキを買い、抱っこをしてやりたい気もする。結婚は無理であるにせよ。

 そんなヨーゼフとラインハルトの胸中を察したのか、

「おあ、何するっ!オイゲンっ!」

「ラインハルト王太子殿下、騎士オイゲン・ゲオルクがヨーゼフ・ハイン邸まで案内仕りましょう」

 オイゲンがラインハルトを軽々と抱え上げ、逞しい肩に乗せてやった。ラインハルトはオイゲンの肩車がお気に召したらしく、

「ヨーゼフのおうちは、どんなおうちなんだ?お庭はあるのか?お池は?お魚は?」

 機嫌を治し、他愛のないことを尋ね始めた。オイゲンと並んで歩く形のヨーゼフも律儀かつ楽しげに、

「この先の住宅街の一軒家ですよ。黄色い煉瓦造りで少し古いですけれど、部屋数は結構あるんです。だから魔術書は勿論、絵本やボードゲームなんかも置いておけます。前庭も池もありますよ。池には金魚しかいませんけれど、カラス貝でぐるりを縁取りしてあるのでちょっと面白いんです。春になったなら、そうですね、前庭の花壇も綺麗ですよ。ミモザにスノードロップ、アネモネは可憐で、心が明るくなるんです」

「ほぉあああああーっ!カラス貝の縁取りのお池なんだ!金魚もいるっ!春にお花がいっぱいっ!ボードゲームっ!それでっ、ヨーゼフ!私が泊まるお部屋はっ?ヨーゼフのお部屋の隣かっ?」

「客用の寝室ですよ。わたしの部屋の隣じゃありませんけれど、ラインハルト殿下がお眠りになられるまで一緒にいますよ。殿下は絵本がお好きですか?綺麗な絵本もちょっと怖い絵本も、沢山ありますよ。寝る前にはホットミルクを飲みましょう、蜂蜜を入れてね」

「うん!ホットミルクを飲んで絵本を読むぞっ!」

 ラインハルトがうきうきした様子で言う。切れ長の碧眼を優しく細めたオイゲンの肩を、ヨーゼフが軽く叩いた。

「オイゲン、この路地を左に曲がってください。右手にあるのがわたしの家です。前庭が目印です、―――池と花壇のある」

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