第5話 ヨーゼフ・ハインと魔弓の射手 前編
四体の蜘蛛の禍々しい乱舞にはだが、ヨーゼフとオイゲンを怯ませる効果はなかった。
ダークブラウンの魔杖を、ヨーゼフは虚空に掲げた。先端に嵌め込まれたオパールは、黒の地に真紅や薔薇色、冷ややかに高貴な紫紺色、青、緑、豪奢な金の色彩を散りばめている。そのいずれもが鮮烈に燃え盛り、冬のかそけき夕陽を圧する風情だ。銀の煌めきと鋼の鋭さを宿したヨーゼフの美声が、夕闇迫るアルトアイゼン城の中庭に響いた。
「覚めよ、魔杖ビルガー!汝が主(あるじ)ヨーゼフ・ハインが命ず。汝が主とその同胞(はらから)を癒やし、守れ。主が敵を破却(はきゃく)せよ。汝が誉れは叡智と力、そして忠誠なり!」
魔杖ビルガーが、黄金の光輝(こうき)を帯びる。と思いきや、金の竜と見紛うばかりのその光は、凄まじい勢いで虚空の薄闇、白い雪片(せっぺん)を引き裂き、曇天の彼方に消えた。―――きらびやかな金の光芒を、倒れ、傷付いた騎士団員たち、抱き合うラインハルトとゾフィー・マティルデたちに降り注ぎながら。
誰のものとも知れぬ感嘆の声が、中庭のそこかしこから上がる。銀の竪琴さながらの声を、ヨーゼフはいっそう張り上げた。
「聖マルティヌス騎士団員のお歴々、よくぞここまで持ちこたえてくださいました!ここからでも形勢は立て直せます!貴方がたには治癒魔法、防御魔法、身体能力強化魔法をかけました。傷と体力は回復していますし、蜘蛛の攻撃の威力も減じる筈です!」
疲弊し切り、絶望しかかっていた騎士団員たちが、驚嘆と安堵のどよめきをあげる。ヨーゼフの沈着さと勇気、統率力に、オイゲンは感嘆の念を禁じ得なかった。薄闇の中、白銀の百合の如きヨーゼフの横顔、その凛とした美しさが、オイゲンを魅了する。
「オイゲン!」
ヨーゼフの声だ。オイゲンは頷き、レイピアの剣(ブレイ)身(ド)をビルガーに向けた。魔杖のオパールが、炎熱(えんねつ)と赤光(しゃっこう)を帯びる。見る間に大きさを増す赤い光弾(こうだん)を、ヨーゼフはレイピアに放った。火焔の大蛇が剣身に絡みつく。オイゲンの長身が揺らぎ、白い眉間には傷のような皺が寄ったが、それも束の間のこと。オイゲンは吼え、レイピアを構え直した。紅蓮の炎をまとうその切っ先は、迷うことなく蜘蛛の頭部に向けられている。
ヨーゼフが頷きを返した。オイゲンが炎術魔法を御したことを認め、ビルガーを振る。魔杖は火焔の刃(やいば)を持つ剣(つるぎ)となった。ヨーゼフ、オイゲン。二人は背中合わせに立ち、各々の武器を毅然と構えた。騎士団員たちの気力が、明らかに回復した。ラインハルトが力強い声をあげる。空色の目はヨーゼフを見、それから騎士団員たちを見つめた。
「ヨーゼフっ!ヨーゼフなら絶対、蜘蛛を倒すことが出来るぞ!ヨーゼフが来たからもう大丈夫、大丈夫なんだっ!」
「誉め過ぎですよ、王太子殿下。まあ、大丈夫にしますけれどね」
ヨーゼフが白い歯を見せる。ゾフィー・マティルデもまたヨーゼフを見つめたが、直ぐと目を反らした。恋する乙女の空色の双眸は、ヨーゼフと共に立つ騎士を、その想いを見抜いたのだ。のみならず、ヨーゼフの――本人はまだ気付いていないのだが――想いも、また。しかしヨーゼフはおかしなところが鈍感に出来ているらしく、
「オイゲン。ゾフィー・マティルデ殿下は何を怒っていられるのでしょう。ストールかリボンが血飛沫で汚れてしまったのでしょうか、―――わたしたちが遅れたせいで」
「後で殿下に聞けば良いのではないか」
「ああ。それもそうですねえ」
なかなか呑気なことを言っている。
そのやり取りに苛立ったかのように跳躍し、腕を突き出した蜘蛛の真っ向を、ヨーゼフは真紅のマントで打ち据えた。怯んだ蜘蛛の右腕を、ヨーゼフの火焔の刃が切り払う。返す刃が漆黒の胴体に斬撃を加える。炎に包まれた枯れ枝を思わせる蜘蛛の腕は庭土に落ち、虚しく燃え尽きていった。腕を失い、あお向けでもがき苦しむ蜘蛛の胴体に、赤く燃え盛るレイピアの剣身が深々と突き立った。力強い身ごなしで跳躍し、止めを刺したのはオイゲンだ。
互いに頷き合い、蜘蛛に向かおうとした団員たちに、だがヨーゼフは、
「貴方がたが王太子殿下、ゾフィー・マティルデ殿下を守るべく、懸命に戦ってくださったことには感謝をしています。しかし貴方がたは、ブランツ騎士団長殿に提出したわたしの報告書を読むべきでした。蜘蛛は物理攻撃、魔法攻撃の威力を半減させると、報告書に書いてあるのです」
「……!」
騎士団員の間に緊張が走る。しかしそれは動揺ではなかった。ヨーゼフは団員たちを見やり、
「案ずることはありません。蜘蛛には攻撃が通じないわけではないんです」
仲間を屠られ、怒りに駆られたのだろう。襲いかかって来た蜘蛛に、ヨーゼフはビルガーの赤い切っ先を向けた。紅蓮の光弾、灼熱が蜘蛛に放たれる。一発目の光弾で蜘蛛は瀕死となり、二撃目を食らって動かなくなった。ヨーゼフは淡々と、
「この通り、ただ二倍の力でぶっ飛ばせば良いんです。治癒魔法、身体能力強化魔法の心配は要りません。間もなく特級位魔術師四人、上級位魔術師十二人がここに来ます。まあ、特級位魔術師ヨーゼフ・ハインは既にいますがね」
今や騎士団員たちの士気が上がったことは明白だった。騎士団長ブランツは手早く指示を出し、五人一組に分散させた団員たちに、残った二体の蜘蛛を攻撃させる。ヨーゼフは頷き、
「聖マルティヌス騎士団のお歴々、蜘蛛の動きは素早いですけれど、複雑な動きは不得手なんです。動きの予測は比較的容易に出来ます!」
闇色の双眸がオイゲンを見やる。切れ長の碧眼がヨーゼフを見返した。炎をまとうレイピアを、オイゲンは庭土に突き刺した。傍らに投げ出されていた庭用のベンチを両腕で掴む。黒い制服ごしであってさえも、オイゲンの両肩が隆々と盛り上がっていることは見て取れた。団員たちの猛攻から逃れようとする蜘蛛の行く手を目掛け、オイゲンは青銅のベンチを投げ付けた。狙いは正確だった。
ベンチの直撃を食らった蜘蛛は、アカンサスの葉を模した曲線的な青銅の細工に干からびた手足を絡ませ、ベンチと共に庭を転がり、回廊の支柱にぶち当たって静止した。ヨーゼフは物憂げに、
「あの細工や何かから推して、結構な値打ち物だと思いますよ。ベンチも、支柱も」
「では投げ付けてはいけなかったのか、ヨーゼフ」
「弁償の義務は生じますねえ。しかし弁償金はわたしも支払いますし、宰相閣下も――恐らくは、かなりの確率で、かなりの金額を――払ってくださるでしょう。ともあれオイゲン、貴方の懐具合の損傷の方が少ないですよ。貴方が蜘蛛に与えた損傷より、遥かにね」
「やはり貴方は面白い、ヨーゼフ。だから私は貴方といるのがとても好きだ」
オイゲンは切れ長の目を輝かせ、ヨーゼフを見つめている。ヨーゼフは赤くなった頬を無意味に引っかきながら、
「……わたしもまあ、嫌じゃあないんですがね。しかしこういう話は、ベンチに腰を下ろせる状況でしましょう。ベンチを投げ付ける状況ではなく」
「貴方の話は分かった」
オイゲンが律儀に言ったその時、団員たちは既に蜘蛛に殺到し、刺突や斬撃を加えていた。宮廷魔術師の一団が中庭に駆け付けたのもその時だった。特級位魔術師たちは蜘蛛に炎術魔法を放ち、上級位魔術師たちは騎士団員に防御魔法、身体能力強化魔法をかけた。中庭の形勢は、今や完全に逆転していた。ヨーゼフはその様に満足したが、ヴェルナー・ゼルテ――ヨーゼフより年若の、茶褐色の髪にアーモンド型の青い目をした――の姿がないことを訝りもした。
「オイゲン殿!ヨーゼフ殿!」
団員の声には異様な響きがあった。深手を負った蜘蛛が一匹、凄まじい勢いで二人に向かっていた。特級位魔術師の炎術魔法をまともに食らったのだろう、漆黒のその背からは炎が上がっている。戦況を逆転させ、己に致命傷を負わせる契機を作ったオイゲンとヨーゼフに、蜘蛛が憤怒と殺意を抱いていることは明らかだった。オイゲンはレイピアを庭土から抜き取り、蜘蛛に刺突を加えようとした。しかし、
「蜘蛛を引き付けていてください、オイゲン!」
「!……」
ヨーゼフの叫びに、オイゲンは驚愕した。だが刺突を加えることはせず、燃え盛る切っ先を蜘蛛に向けた。紅蓮の刃で蜘蛛の憤怒をかき立てるかのように。蜘蛛の動きが素早さをいや増した。オイゲンのこめかみを冷たい汗がつたう。ヨーゼフは叫んだ。
「出来る限り、ぎりぎりまで、蜘蛛を引き付けてください!貴方ならば必ず出来ます!オイゲン、貴方がわたしの期待に応えなかったことはありません!」
「………」
オイゲンの碧眼が、迫り来る蜘蛛を睨み据えた。憤怒と殺意に駆られた蜘蛛の動きを予測することは不可能に近い。だがオイゲンは切っ先を蜘蛛に向けている。ヨーゼフの叫びを、オイゲンは信じているのだ。そしてヨーゼフもまた信じている、―――オイゲンの強さを、勇気を。
オイゲンの手前で、蜘蛛は跳躍した。憎むべき敵二人を、上空から屠ろうとして。蜘蛛の背を焼き尽くす炎は、血色(ちいろ)の化鳥(けちょう)の不吉な翼と見えた。
オイゲンがケープマントを蜘蛛に放った。蜘蛛の動きが僅かに揺らぐ。禍々しい爪と腕の軌道から、オイゲンは胸元を反らした。
「おかげで助かりましたよ、オイゲン!」
ヨーゼフは言い、力強い仕草でビルガーを振った。紅蓮の炎は鞭のようにしなり、蜘蛛の両腕を切断した。瀕死となった蜘蛛を前に、ヨーゼフはビルガーの炎を消した。オイゲンが訝った。
「ヨーゼフ、貴方は何故止めを刺さない。騎士団員たちや魔術師たちが優勢になっているとはいえ、油断をしてはならない」
「それはその通りなんですが」
ヨーゼフは淡々と言い、中庭を見やった。特級位魔術師たちが炎術魔法で動きを封じた蜘蛛に、聖マルティヌス騎士団員たちが止めを刺している。上級位魔術師たちは折を見計らっては両者に治癒魔法を使い、防御魔法、身体能力強化魔法をかけている。ラインハルトとゾフィー・マティルデの周りは騎士と魔術師たちに固められ、その身には退魔(たいま)の結界(けっかい)が施されている。宮廷魔術師と騎士団員たちの間には流れ――あるいは戦術――が確実に生まれつつあり、彼らはそれを体得しつつある。闇色の目を、ヨーゼフは満足げに細めた。ラインハルトの愛らしくも端正な顔は、最早泣きそうに歪んではいない。
「思うところがありましてねえ。あまり趣味の良いやり方じゃあないんですが、この蜘蛛に試してみたいんですよ」
「試す?」
オイゲンが金色の眉をひそめた。ヨーゼフは答えなかった。ただヨーゼフは考えていた。己が感じたもの、そのものの正体、それに抗(あらが)う術(すべ)を。
―――蜘蛛のまとう気配はそう、極めて邪悪で忌まわしい、穢らわしいものです。蜘蛛はこの世を、赤茶けた不毛の地にしようとしている。シュテンゲル魔術学院長の言う通り、蜘蛛はこの世のものらしくはない。否、これほどの邪悪、穢れを負ったものが、この世のものである筈がない。
―――邪悪、穢れ。ならばそれを祓い、消し去る魔術は何か。治癒魔法です。毒や呪詛(じゅそ)を消し、無効化(むこうか)する魔法。そして治癒魔法で蜘蛛を仕留めることが叶ったなら、その正体の見当もつきます。蜘蛛は不死者(アンデッド)、死霊の類(たぐい)――治癒魔法が害毒となる魔物――なのだと。
ヨーゼフはビルガーを振った。聖なる魔法の純白の光輝が刃となる。オイゲンは驚愕をあらわにした。
「それは治癒魔法ではないのか、ヨーゼフ!」
「そうです。だから試したいんですよ。蜘蛛の正体が不死者、死霊の類ではないか否かを。オイゲン、貴方も不死者退治の経験、不死者の穢れに相対した経験があるでしょう。蜘蛛の気配はそれらを想起させませんか」
「………!」
オイゲンが息を呑んだ。―――しかし、ヨーゼフの賭けの代償はあまりに大きい。
「ヨーゼフ。万が一、蜘蛛の傷が治癒したらどうするのだ。貴方の推測が外れていたならば」
「その時は炎の刃で仕留めましょう、二人でね。そして別の可能性を模索します。機会はいくらも訪れるんですよ、オイゲン」
「……分かった。ヨーゼフ、私は貴方を信じる。先程貴方は私を信じ、蜘蛛を任せた。貴方の命を私に預けてくれた」
「貴方にしては物分かりが良いじゃありませんか、泣き虫オイゲン」
ヨーゼフはにやりと笑い、白光(びゃっこう)の刃で蜘蛛を両断した。
蜘蛛は消えた。
真っ二つにされた漆黒の胴体も、枯れ枝の手足も禍々しい爪も。襤褸を巻き付けた悍ましい頭部も。
「ヨーゼフ!貴方は正しかった!」
オイゲンが安堵と誇りに満ちた笑みを浮かべようとし―――。
「ヨーゼフ!蜘蛛がっ!」
ラインハルトの叫びが夕闇を裂いた。ものの気配が迫り来る方角をヨーゼフは見、―――闇色の目を見開いた。ビルガーの純白の切っ先を向けようとした。
ヨーゼフに向かっていたのは、最後の蜘蛛だった。ヨーゼフの炎術魔法で瀕死となり、意識を失っていた蜘蛛。雪と薄闇の中で目覚めた蜘蛛は、辛うじて絶えずにいた命、そして憤怒と憎悪を燃やし、ヨーゼフに迫っていた。
「……くそ!」
ビルガーの白刃(はくじん)が、蜘蛛の焼けただれた左半身をかすめた。しかし蜘蛛は跳躍し、残っていた右腕でヨーゼフを庭に引きずり倒した。蜘蛛にのし掛かられたヨーゼフは、その頭部、薄汚れた襤褸の血文字を、地面から見上げる形になった。
「………!!」
ヨーゼフは蜘蛛の正体を解した。―――伝えなくてはならない。生きなくてはならない!オイゲンが、ラインハルトが、メルヒオールが!!
「ヨーゼフ!!」
オイゲンの真紅のレイピア、蜘蛛の氷柱の爪、ビルガーの純白の光輝、魔術師たちの炎術魔法、薄闇と雪がヨーゼフの視界に入り乱れ―――。
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