第4話 ヨーゼフ・ハイン、波乱の再会。後編

 ルドルフは思い出している。―――シュヴァルツレーヴェ邸を訪う度、僕が菓子をあげていたのはヨーゼフだけではなかった。明るい金髪、優しい空色の目のほっそりした少年が、いつもヨーゼフと一緒にいた。黒天鵞絨の上着の、襟元に空色のリボンを飾った、優しいけれど淋しげな目元の少年が。

 オイゲンは、僕を見るとはにかんだように笑っていた……。


 メルヒオールは思い出している。―――シュヴァルツレーヴェの邸に引き取ったヨーゼフには、友達が出来なかった。近隣の邸の貴族の子どもたちは、出自の定かでないヨーゼフを軽んじていた。そんなある日、ヨーゼフはひどい喧嘩をし、怪我をして帰って来た。それからたびたび、ヨーゼフは怪我をして帰って来るようになった。しかしいくら私が問い詰めても、喧嘩の理由をヨーゼフは話さなかった。

 ―――だがある時、ヨーゼフが邸の門前で男の子を宥めていた。泣きじゃくる少年の言葉、怪我をして泣きそうなヨーゼフの切れ切れの言葉は分かりにくかったが、ヨーゼフは少年の声と顔立ちがおかしくなどないと言っていた。オイゲンの声と顔立ちが好きだと。私はヨーゼフの怪我の理由を察した。二人を呼び、菓子をやった。

 ヨーゼフはオイゲンを庇ってやっていた……。


「………」

 メルヒオールは黙している。オイゲンの来し方が平坦なものではなかったことは、容易に想像がついた。はにかみ屋の淋しげな、しかし心優しい少年を、傲岸と冷酷で身を鎧った、険のある面差しの青年に変貌させた月日が、平坦である筈は。

 メルヒオールがくっきりと形の良い眉をひそめた。―――ヴァイスシルト家の当主殿――オイゲンの父君だが――の評判は、あまり良いものではなかった。私も彼には良い印象を持たなかったのだが……。尊大さと、隠し切れぬ粗暴の気配が彼にはあった。

「宰相閣下」

 ヨーゼフの凛とした声音が、メルヒオールの物憂い回顧を断ち切った。闇色の双眸はまだ潤んでいるようだが、表情は晴れやかだった。オイゲンはというと、ヨーゼフの傍らにぴたりと張り付いている。少年の日のオイゲンとヨーゼフを思い、メルヒオールは苦笑した。

「なんだね、ヨーゼフ・ハイン」

「既にお気付きのことかと存じますが、騎士オイゲンはわたしの幼友達なのです」

「……そのようだな。疑いようもなく」

 メルヒオールの素っ気ない言葉には、軽い皮肉が滲んでいる。だがヨーゼフはけろりとしていて、

「そして騎士オイゲンは、蜘蛛を根絶すべく戦略を練り、調査を進めているようです。そうでしょう?オイゲン」

 オイゲンは頷いている。切れ長の碧眼の鋭さは消え、教師の質問に答える生徒の素直さがそれに変わっている。精悍な顔に驚嘆を浮かべ、ルドルフはオイゲンを見ている。聖マルティヌス騎士団の問題児に対する考えを、宮廷顧問官殿は改めている最中のようだ。

「そこで思ったのですけれど、宰相閣下。わたしとオイゲンの今の立場は、あまりはかばかしいものではありませんね」

「それを理解してくれたなら実にありがたい、ヨーゼフ・ハイン」

 ブランツは大仰な咳払いをし、ルドルフは素直に吹き出した。大好きなヨーゼフがいじめられたと思ったのだろうか。オイゲンは怒ったような、当惑したような表情で、上役たちを見ている。ヨーゼフはそんなオイゲンの肩を軽く叩き、

「お誉めに預かり恐悦至極なのですがね、宰相閣下。わたしと騎士オイゲンの名誉挽回のため、二人に蜘蛛の調査をさせてはいただけませんか」

「………」

 メルヒオールの黒曜の双眸が、鋭く光った。ヨーゼフは臆することなく宰相を見返し、

「わたしが申し上げるのもおこがましいのですけれど、宰相閣下はわたしの蜘蛛への知識、推察を高く評価してくださいました。そして騎士団長殿も、蜘蛛に関するオイゲンの資料を評価していられるようです。わたしとオイゲンが蜘蛛についての情報を共有し、調査を進めたならば、何かが見えてくるか知れません。―――否、わたしは何かを見つけ出す心算で調査を進めます。突き止めた情報、事象はその都度、宰相閣下、宮廷顧問官閣下、騎士団長殿に報告させていただきます。わたしには手柄を独り占めする心算はありません。ただアルトアイゼン王国から、蜘蛛の災いを除きたいだけです。ですから宰相閣下、お許し願えませんか?聖マルティヌス騎士団員オイゲンと宮廷魔術師ヨーゼフ・ハインが共に、蜘蛛の調査を進めることを、―――どうか」

 ヨーゼフのこの申し出に、ブランツ騎士団長とオイゲンが快諾の意を示したのはほぼ同時だった。騎士団長殿はよほど、蜘蛛の跋扈に胃を痛めていたと見ゆる。

聖マルティヌス騎士団の希望の星である自尊心の強いオイゲンは、このような状況でとるべき態度をとった。筆者には表記することの不可能な歓喜の悲鳴をあげ、ヨーゼフを抱きすくめたのである。

 この異様な熱気と狂乱の中、頷かざるを得なくなったメルヒオールとルドルフは頷いたが、

「しかしヨーゼフ・ハイン。君とオイゲンの任務には、大きな危険が伴う。どんなに小さな違和感であっても、直ぐ様私たちに報告するように。それが大いなる脅威に変貌する前に。それからシュテンゲル魔術学院長の推察を、くれぐれも忘れないようにし給え。この件は相当、闇が深い。……それに私は、君とオイゲンを失いたくはない」

「………」

「宰相閣下の言う通りだ」

 ルドルフのサファイアブルーの目が、黙したなりのヨーゼフとオイゲンを見据えた。オイゲンも熱烈な抱擁を中断し、宮廷顧問官の言葉に聞き入っている。

「ヨーゼフ、オイゲン。焦ってはいけない。君たちが問題を解決する機会は、これから先いくらも訪れるだろう。だがその機会は、蜘蛛の襲撃という形をとる。だから機会は容易に脅威となり得る。焦りは禁物だ」

 オイゲンは頷き、ヨーゼフに囁いた。少なくとも本人は囁いた心算でいた。

「ヨーゼフ。私は宮廷顧問官閣下を、故なく私を毛嫌いする、くそ真面目な、堅パンの焼き冷ましのような男だと思っていた。しかし私は考えを改めなくてはならない。彼は存外、ものの分かった男だ」

「……貴方は囁き声の出し方を改めたほうが良いです」

 ヨーゼフは冷ややかに言い、オイゲンの脇腹に容赦ない肘打ちを打ち込んだ。その逞しい長身を二つ折りにしながら、オイゲンは声を出さずに呻くということが困難ではあるが必ずしも不可能ではないということを発見した。

 叩き付けるような音をたて、執務室のドアが開いたのはその時だ。ドアを開けたのは、昼間ヨーゼフがレイピアを奪取した騎士団員だった。しかしヨーゼフには団員に肘打ちと膝蹴りを食らわせた覚えこそあれ、その制服をずたずたに引き裂き、腕に刺し傷を負わせた覚えはない。

 メルヒオールとヨーゼフの眼差しが、鋭く交差した。血と泥に塗れた髪を乱し、団員は叫んだ。

「騎士団長殿、蜘蛛です!!四体現れました、中庭です!そして奴らはラインハルト王太子殿下、ゾフィー・マティルデ殿下を狙っています!!我々騎士団員は応戦していますが、状況の打開は極めて困難です!!騎士団長殿、オイゲン殿、宮廷魔術師ヨーゼフ・ハイン殿、どうかご助力を!!」

「………!」

 ヨーゼフの顔色が瞬時に変わった。俊敏な仕草で、オイゲンと共に戸口に向かう。そうしている間にも二人は、

「オイゲン。そのレイピアですが、味方が放った魔術をまとわせることは出来ますか?」

「上級位(じょうきゅうい)魔術師クラスの魔術ならば。そして私の膂力、体力をもってすれば、特級位魔術師クラスの魔術を御することが出来る」

「たいへん結構です。ならばわたしは貴方のレイピアに、炎術魔法(えんじゅつまほう)を放ちます。シュテンゲル魔術学院長は、炎術魔法で蜘蛛を仕留めたと言っていましたから。―――それから、聖マルティヌス騎士団員殿」

「はっ!」

 ヨーゼフとオイゲンの沈着かつ的確なやり取りに、団員は肘打ちと膝蹴りの怨嗟を忘れたらしい。ヨーゼフは落ち着いた様子で、

「わたしは貴方たちに、治癒魔法(ちゆまほう)と防御魔法(ぼうぎょまほう)を使います。先ずは体勢を立て直しましょう。ですから具体的な戦況を教えてください。中庭に団員たちは何人いるんです?重傷者は何人ですか?治癒魔法の使い手は何人いるんです?蜘蛛は傷を負いましたか?―――ラインハルト王太子殿下とゾフィー・マティルデ殿下に、お怪我はないのですか?」

「はい、重傷者は……」

 団員から諸々の情報を聞き出し、ラインハルトとゾフィー・マティルデの無事を確認したヨーゼフは、小さく息をついた。そのまま執務室を出ようと―――。

「ヨーゼフ!」

 訝しげな顔を、ヨーゼフは室内に向けた。メルヒオールが立ち上がり、ヨーゼフを見据えている。黒曜の目に激情が凝っていた。ヨーゼフは努めて冷ややかに、努めて感情を交えず、

「貴方が出てはなりません。宰相閣下が血塗れの剣を掲げ、城塞を駆け巡る戦さは負け戦さです」

 ルドルフがメルヒオールの傍らに立ち、その肩に手を置いた。メルヒオールはようよう息を整え、

「……今アルトアイゼン城にいる宮廷魔術師で、蜘蛛との戦いを生き延びられる者は、君を除いて何人いる。ヨーゼフ・ハイン」

「特級位魔術師四人、上級位魔術師――特級位魔術師昇格試験受験資格を有している者――十二人、この十六人です」

「分かった。今すぐ召集をかけ、彼らを中庭に遣ろう。……君に万一のことがあった場合、指揮は特級位魔術師ヴェルナー・ゼルテに執らせる」

「そうしてください。特級位魔術師は蜘蛛に攻撃魔法(こうげきまほう)を、上級位魔術師は騎士団員たちに治癒魔法と防御魔法、身体能力強化魔法(しんたいのうりょくきょうかまほう)を使うようにと、ヴェルナーに指示を出してください。墓碑銘は要りません、メルヒオール・ヨーゼフ・フォン・シュヴァルツレーヴェ宰相閣下」

 ヨーゼフは言い、執務室を出た。灰の如き顔色を呈した、メルヒオールを残したまま。


 騎士団長ブランツと団員に付き随い、足早に廊下を歩きながら、オイゲンはヨーゼフに話しかけている。

「ヨーゼフ。宮廷顧問官閣下の言葉は正しかった。―――焦りは禁物だ。脅威はこれから先、いくらも訪れる、と」

「合っていますが少し違いますね。脅威ではなく機会ですよ、オイゲン。レイピアの支度をお願いします」

 不敵に笑うヨーゼフに、オイゲンは――この無愛想な男にしては実に珍しいことなのだが――お道化(どけ)た目配せで答えた。

「レイピアの支度ならば心配は要らない。私は必ず蜘蛛を退け、貴方を守る。私は貴方の仲間であり、貴方の騎士だ。言っただろう、私は貴方に会い、共に在りたいがため、聖マルティヌス騎士団員になったと」

「………」

 闇色の双眸がオイゲンを見上げた。ヨーゼフの眼差しに気付き、オイゲンは微笑した。穏やかでありながら、凛然とした笑みだ。

 ―――背丈は子どもの頃からありましたけれど、しかし随分と逞しくなりましたねえ。わたしは守られるだけというのは好きじゃないんですけれど。守り、守られる。オイゲンとならば、それも悪くないか知れません。

「貴方は何か言ったのか?ヨーゼフ」

「いいえ何も、オイゲン」

 ヨーゼフの甘い感傷はだが、中庭で展開される光景によって無惨に打ち砕かれることとなった。


 灰色の曇天と舞い散る雪の下、枯死した枝に氷柱が生えたかのような腕が、破壊と殺戮の乱舞を舞っていた。

 倒れ伏した騎士団員、傍らに投げ出されたレイピアには、既にうっすらと雪が積もっている。ヨーゼフは素早く中庭を一瞥した。屈強な騎士団員三人がラインハルトとゾフィー・マティルデを取り囲み、レイピアの切っ先を異形に向けている。ゾフィー・マティルデは毅然とした面持ちで、ラインハルトを抱きしめている。ラインハルトの顔は白く、泣き出しそうに歪んでいた。だが泣いてはいなかった。この危機的状況における弱さ、涙の露呈が敗北に繋がることを、聡明な姉弟は解しているのだ。

 しかし二人の目がヨーゼフを認めると、明らかな安堵がそこに浮かんだ。ヨーゼフもまた少しく安堵したが、状況は安堵とは程遠いと思い直した。コートのポケットに手を入れ、オパールの象嵌されたダークブラウンの魔杖(まじょう)を取り出す。オイゲンも素早くレイピアを抜き放ち、切っ先を異形の頭部に向けた。

 鉄錆の臭いがヨーゼフの鼻をうつ。赤い飛沫が眼前を飛ぶ。団員たちの苦悶の叫びがあがる。異形のものは素早く這い、そして屠る。―――鮮血で描かれた文字、薄汚れた襤褸、ぬらぬらと気味悪く光る黒い胴体。この世界を赤茶けた不毛の地へと変貌させようという、そのものの禍々しく狂った意図を、ヨーゼフは感じた。

 それが蜘蛛だった。

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