第3話 ヨーゼフ・ハイン、波乱の再会。前編
アルトアイゼン王国宰相メルヒオール・ヨーゼフ・フォン・シュヴァルツレーヴェの執務室に、ノック音が響いた。洗練された調度類の並ぶその部屋に、冬の薄闇と共に不穏さが忍び入った風情だ。
「入り給え」
メルヒオールの冷ややかに美しい声がノックに答えた。
メルヒオールは持ち前の取り澄ました様子を崩してはいない。しかしやっていることは存外子どもっぽく、マホガニーのデスクに向かい、反故紙に丸や三角四角を書きなぐっているのだ。その懐刀ヨーゼフはというと、ソファーに腰を下ろし、サファイアの爪やすりで爪を磨き、蜜蝋を塗るのに余念がない。日に焼けた頬を微かに緊張させたのは、ヨーゼフの向かいに座る、宮廷顧問官ルドルフ・マンフレート・フォン・ヴォルフェンビュッテルだけだ。律儀なこの男は昼の立ち回り、ために騎士団長と宰相閣下の間に醸し出された微妙な緊張感が気になったらしく、メルヒオールの執務室にやって来ているのである。さすがにヨーゼフは恐縮し、
『宮廷顧問官閣下がお出ましになられることもないでしょう。昼の立ち回りに閣下を巻き込んでしまったことの謝罪も、わたしは申し上げておりません』
『僕は暇な身だからねえ、これで良いのさ』
とルドルフは笑っていたが、この男が生真面目さ、内気さと人の良さゆえに国王アドルフ・ベルントルトに軽んじられ、髀肉の嘆をかこっているのは周知の事実となっている。アドルフ・ベルントルトへの憤りと不満が入り混じった闇色の眼差しを、ヨーゼフはルドルフの横顔に向けた。
ヨーゼフはルドルフが嫌いではない。……貧民窟からメルヒオールに拾われ、広壮なシュヴァルツレーヴェ邸(てい)で過ごした少年時代。その時分からメルヒオールの友人であったルドルフは、たびたび邸(やしき)を訪っていた。その都度ルドルフはヨーゼフに菓子をくれたり、ちょっとした玩具や絵本をくれたり、他愛のない話をしてくれたりしたものだ。ヨーゼフと、―――そのたった一人の友達に、ルドルフは。ルドルフの好意は窮屈ではなく、心地良かった。
癖のある栗色の髪を些か持て余し気味のルドルフは、くっきりした眉、すらりと通った鼻梁、引き結ばれた薄い唇からなる精悍な顔立ちの男で、サファイアブルーの瞳が魅力的だ。白シャツにブルーのクラヴァットをきっちりと結び、銀糸の刺繍がされたアイスグレーのウェストコートに、両袖に金線の入ったネイビーブルーのコートを羽織っている。メルヒオールやヨーゼフほど瀟洒ではないが、清潔感のある上品な身なりの男だ。メルヒオールの外見年齢とさほど差はないように見えるルドルフの、年は三十代半ば過ぎだろう。
ドアの外からは、逡巡と苛立ちが入り混じった気配がしている。逡巡は小心者のブランツ騎士団長、苛立ちは問題児オイゲン某の気配だろうと、メルヒオールは冷めた頭で考えている。そのペン先は落書きを止め、ヨーゼフの爪やすりも動きを止めた。ルドルフの眉が不機嫌さを描く。
「入り給え。騎士団長ハインリヒ・レオポルド・フォン・ブランツ、―――騎士オイゲン・ゲオルク・ヴァイスシルト」
ドアが開いた。亜麻色の髪に澄んだ青い目の、小柄な――騎士というより学者といった方がしっくり来る――騎士団長を急かすようにして入って来たのは、並外れた長身の青年だった。ルドルフより十センチは背が高く、そして傲岸不遜の度合いはヨーゼフが立ち回りを演じた騎士団員たちを遥かに上回っていた。この青年が件の問題児であることに、疑いの余地はない。ルドルフの眉間の皺がいっそう深くなった。真面目で律儀なルドルフは、己の才に慢心する傲岸な輩とは反りが合わないのだ。
ルドルフの反感はさておき、オイゲンの容貌はそうひどいものではなかった。年はヨーゼフと同じくらいだろう。金髪をきちんと整え、広い額をあらわにしている。金色の細い眉、見事な鷲鼻、切れ長の碧眼、女性的な優美さをたたえる唇が、面長の輪郭に収まっている。鍛え抜かれた体躯、端正な面差しのなかなかの男前なのだが、惜しむらくは目と目の間が少しく狭い。見る者に油断のならない獰猛な狼を連想させる。のみならず鋭角的な険のあるその顔立ちに、ふっくらした下唇がなんとなく不釣り合いな―――そんな青年だ。オイゲンにもその自覚はあるのだろう、下唇を噛み締め、挑むようにメルヒオールを見下ろした。白シャツに黒いクラヴァット、カーキ色のウェストコート、銀糸の縁取りと銀の飾りボタンの付いた黒いコート、黒のケープマントに黒いズボン、磨き抜かれた黒いブーツという聖マルティヌス騎士団の制服を一分の隙もなく着こなし、レイピアを帯びている。
しかしメルヒオールの黒曜の目は、オイゲンを冷たく見返した。オイゲンの切れ長の碧眼を、当惑が網の目のように走る。噛み締めていた下唇を解放すると、
「聖マルティヌス騎士団員、オイゲン・ゲオルク・ヴァイスシルトが参りました。それで、ご用件はなんなのです。宰相閣下」
神経質な早口で言う。こちらも長身の逞しい体躯に不釣り合いな、声高い声だ。
ルドルフはオイゲンを鋭く見やり、部下に満足な口のきき方を教えていないブランツ騎士団長を見やった。ブランツはハンカチを取り出し、ひっきりなしにこめかみと額を拭っている。
メルヒオールは相変わらず淡々と――あるいは冷淡に――、
「騎士オイゲン。君の勤務態度について、少し話がある」
「宰相閣下。貴方も私にその話をなさるのですか」
オイゲンはうんざりした様子を隠そうとせず、
「宰相閣下といい、騎士団長殿といい。貴方がたが私に何を望んでいられるのか、私にはさっぱり分かりません。今も私は、蜘蛛の出現場所と状況を表に、犠牲者の情報を索引カードにまとめ上げ、蜘蛛の行動の特徴、傾向を分析していたのです。蜘蛛に関する私の報告資料には、騎士団長殿も一目置いていらっしゃいます。そして騎士団長殿と同様に、貴方も蜘蛛の根絶をお望みなのではありませんか?宰相閣下、宮廷顧問官閣下。どこかの有象無象の話を真に受け、貴方がたが私の職務を中断なさることは、賢明な判断とは思われません」
「……っ!」
ルドルフが何かを言いかけた、まさにその時だった。ヨーゼフが優美な黒猫のように立ち上がり、銀の糸のゆらめきの声をオイゲンの背にかけたのだ。
「そんなに分からないことを言うのならオイゲン、明日は貴方の好きなぬいぐるみ遊びをしませんよ」
「………!」
背後に岩石を落とされたとしても、オイゲンはこれほど驚きをあらわにしなかっただろう。ケープマントを翻し、声の主ヨーゼフを見やった。切れ長の碧眼が見開かれる。
「……まさか、……貴方は。……貴方は……!」
居合わせた者たちが呆然とする中、ヨーゼフはにっこりと微笑んだ。
「ええ、オイゲン。貴方が思っている通りです」
「ではヨーゼフ!ヨーゼフ・ハイン!貴方か、―――貴方なのか!!」
オイゲンは言い、大股でヨーゼフの許に歩み寄った。ヨーゼフは闇色の目を細めたまま、
「そうですよ、オイゲン・ゲオルク。今は特級位魔術師にして宮廷魔術師ヨーゼフ・ハインで通っていますけれど。やっぱり貴方は頭が良いですね、オイゲン」
「忘れる筈などあるものか!ヨーゼフ、私はずっと貴方に会いたかった!私は貴方に会うことが出来た!私はとても嬉しい!!」
一同が呆気にとられる中、オイゲンはヨーゼフの両肩に掌を置いた。一同が更に驚いたことには、ヨーゼフはその手を退けようとせず、
「私も嬉しいですよ、オイゲン。こうして幼友達に会うことが出来たんですから。でもオイゲン、幼な顔ってあまり変わらないものですねえ。面長の顔立ちも、少し淋しげだけれど、優しい目元も」
穏やかにオイゲンを見上げている。オイゲンはヨーゼフのその様子に、いっそう喜びを募らせたようで、
「私は嬉しい。本当に嬉しい。貴方は再会した私に優しく言葉をかけてくれて、話をしてくれる。私は聖マルティヌス騎士団に入団して良かったと思っている。貴方に会うために、私は騎士団員になったのだから。そうすれば私は、宮廷魔術師筆頭の貴方に必ず会えるだろうと、そう思っていたから」
「……聖マルティヌス騎士団……宮廷魔術師……」
ヨーゼフの秀麗な美貌から、微笑が消えた。闇色の双眸を驚愕が奔る。
「オイゲン!貴方はまさか、あの約束を……。あんな昔の……!」
「そう、約束だ。ヨーゼフ、私は貴方との約束を果たしたいがため、聖マルティヌス騎士団員になった。だから貴方のおかげで、私はここまで来ることが出来た」
「オイゲン、貴方は……。あの約束を……」
オイゲンは力強く頷き、
「ヨーゼフ。十二年前のあの日、隣国ブロイエホルツへの留学、騎士修行が嫌だと泣く私に、貴方は言った。―――わたしは必ず、アルトアイゼン宮廷魔術師筆頭になります。アルトアイゼン宮廷で貴方を待っています。ですからオイゲン、貴方は聖マルティヌス騎士団長になってください。そうすれば、大人になってもわたしたちは一緒に、仲良しでいられるでしょう。魔術師筆頭と騎士団長として。貴方はそう言った。だからブロイエホルツ留学を終えた私は入団試験を受け、聖マルティヌス騎士団に入団した」
「………」
ヨーゼフは黙している。形の良い紅唇が震えているのを、メルヒオールは見た。ヨーゼフの沈黙をどう解したのか、
「……ヨーゼフ、きっと貴方は私を叱るのだろう」
「何故です?」
ヨーゼフの闇色の瞳には、屈託と寂寥を帯びたオイゲンの面差しが映じている。オイゲンは苦しげに、
「……私のやったことは、上手くいったことばかりではないからだ。私は懸命にやってきた心算でいるが、あまり上手くゆかなかった。私は周囲の人間たちの感情を理解し、彼らの望む通りにしようと思った。私は彼らと仲良くしたかった。だが上手くゆかない。どうしたら良いのか、私には分からない。……幼い日の貴方は好きだと言ってくれたが、私の声は今も声高く、唇の形も悪い。先輩や同僚たちが私を揶揄する一因だろうと思う。私は自分の声や顔立ちが奇妙で、周囲に対する振る舞いも奇妙だと分かっている。嫌われても仕方がないと思う。でも、だからこそ、私は人の倍努力をしなければならないと思い、そうしてきた心算でいた。だが私は上手く出来ない」
「………」
メルヒオール、ブランツは黙している。黙しながらオイゲンを見つめている。ルドルフもオイゲンを見つめているが、その精悍な面差しは泣きそうに歪んでいた。
「分かっている。私の声と顔立ちは奇妙だ。私の言動も奇妙だ。だから私は上手くゆかない。だが私はやってきた。ヨーゼフ、貴方に会いたいがためにやってきた。ヨーゼフ、貴方は私の……!」
言いさし、堪え切れなくなったのだろう。オイゲンは黙した。震える右手を、長くはあるが無骨なその指先を、ヨーゼフはそっと肩から解いた。ヨーゼフのほっそりした雪白の両手が、オイゲンの右手を挟み込む。
「叱りなんかしませんよ。オイゲン、わたしは貴方がわたしとの約束を守ろうと懸命でいてくれたこと、何より貴方に会えたことが嬉しいんです。また貴方と一緒にいて、一緒に笑うこと、喧嘩をすること、仲直りをして笑うことが出来ますね」
オイゲンが頷いた。澄明な雫が白い頬をつたう。
「でもその前に、オイゲン」
オイゲンは頷いている。ヨーゼフは小さく息を吸い、
「貴方の声、顔立ちは奇妙じゃないと言ってください」
「……!」
潤んだ切れ長の目を、オイゲンは瞬いた。だがヨーゼフは構わず、穏やかに、
「ねえ。そうでしょう。オイゲン」
「……私の声、顔立ちは奇妙ではない」
「そうです、オイゲン。わたしはいつも言っていたでしょう」
ヨーゼフの闇色の双眸が、潤んだように和らぐ。オイゲンは頷き、
「私の声、顔立ちは奇妙ではない」
「わたしは貴方の声が好きだって、顔立ちも好きだって。貴方の声と顔立ちを馬鹿にする方が、本当に馬鹿なんだって」
「私の声、顔立ちは奇妙ではない!」
オイゲンの語気が強まる。ヨーゼフはオイゲンの手を離そうとせず、
「馬鹿にされたらいつでもわたしに言いなさいって」
「奇妙ではない!奇妙ではない……!」
声をあげ、泣き出したオイゲンの背を、ヨーゼフは抱いた。震える逞しい背を、あやすように叩く。
「頑張ったんですね、オイゲン。痛かったんですね、貴方は頑張ったんですから。だから今度は、貴方の痛いのを治しましょう。―――わたしと一緒に」
「……治す、貴方と一緒に。私は貴方と一緒に治したい……!」
ヨーゼフは頷いた。ほっそりした指先が、オイゲンの背を軽く叩いている。
執務室には、オイゲンのしゃくりあげる声だけが響いていた。ブランツの青い目は、涙の膜で覆われている。頬をつたう涙を、ルドルフは拭おうとしない。黒曜の眼差しを、メルヒオールは格子天井に向けた。
そしてメルヒオールとルドルフは思っている。―――何故、気付かなかったのか。何故忘れていたのか、と。
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