第4話 遠い春④

「ただいま」

 誰もいない1LDKの一室に、俺の声が吸い込まれていった。

 築浅の賃貸マンション。一人で住むには少し持て余してしまう広さ。

 生活感こそあるけれど、あまり散らかってはいない。それが俺の住んでいる部屋の特徴だ。

「とりあえずソファにでも座りなよ。なにか飲む?」

「い、いえ……お構いなく……」

 俺はその娘を部屋に通してリラックスするように諭す。しかし、状況が状況なだけに彼女は俺の言葉に甘えようとはしなかった。

 ずっと部屋の入口で、なにか申し訳無さそうに立ち尽くしている。

「別に君に何かしようとか、そういう考えはないから安心しろ。ちょっと話がしたいだけだから」

「……男の人は、スキを見せるとそうやって漬け込んでくるので」

「へえ、自分より身長の低い男を見てもそう思うんだ」

「身長とかそういう問題じゃなくて、あなたはなんかヤバそうな感じがするから……」

「まあ、確かにそう見えるかもな。普通の人には見えないと思う」

「……だから、私にはお構いなく」

 彼女は頑なに座ろうとはしなかった。

 ただ、この部屋から逃げ出さないあたり、自分の置かれた状況を彼女はよく理解している。

 無闇に部屋を出たところで、特に行くあてが無いのだろう。

 このままではお互い歩み寄ることなく平行線だ。朝までそこに立たれたら、たまったもんではない。

 どうしたものかと頭を抱えていると、急に「ぐぅ」という内臓が絞られるような音が部屋に響く。

 一瞬自分の腹の音かと思ってしまったが、どうやら違うらしい。

「お前、腹減ってるのか」

「ぜ、全然減ってな――」

 彼女が俺の心配を煙たがった瞬間、もう一度同じ音が鳴った。やっぱり腹が減っているらしい。

 そういえば俺もラーメンを食べに行こうとしていた途中だった。ドタバタに巻き込まれて、すっかり空腹なことを俺自身も忘れてしまっていた。

 ちょうどいい、ここらで一緒に飯でも食べることにしよう。心を通わせるには食卓を囲むのが効果的だ。

 この時間から店に行くのは面倒なので、デリバリーで済ませることにした。

 俺はスマホアプリを開いて、メニュー一覧を彼女へ見せる。

「何か食うか? 腹、減ってるだろ」

「……いらない。お金ないし」

「遠慮すんなよ。これくらい俺が奢るっての」

「そしたら、何か返さなきゃいけないし」

 彼女は隙を見せまいと、俺の提案には乗ってこない。

 でもこのまま話が進まないと、俺も飯にありつけなくなってしまう。だから少しだけ強い言葉を使う。

「そんなに厳密に貸し借りしなきゃいけないなんてルールは無い。俺には腹減らした女の子をずっと突っ立たせておく趣味はないんだ。いいから早く選べ」

 すると彼女は観念したのか、俺のスマホに表示されたデリバリーのメニューを覗き込んだ。

 指で画面をスクロールして、メニューの下のほうにあったスープカレーをタップする。

 チキンレッグとチーズという、なかなかのボリュームがある一皿だった。本当に腹が減っているのだろう。

「……辛くないやつで」

「はいよ。じゃあ届くまでそこに座ってな」

 俺は彼女をやっとのことでソファに座らせる。

 座ったその瞬間、張り詰めていた気持ちが急に緩んでしまったのか、彼女は再び涙を流し始めた。

 上手に女の子を慰めるなんていうスキルなど持っていない俺は、買い置きのペットボトルの水を彼女の目の前のローテーブル上に置いた。

 のどが渇いているかは知らないが結構な量の涙を流しているので、水分補給くらいしたほうがいい。

 しばらくすると泣き声がおさまってきた。落ち着いてきたらしい。

 彼女はローテーブルの上にあるティッシュを何枚か引き出して鼻をかむ。

 時間がかかったが、やっとまともに会話ができそうな状況になった。

「落ち着いたか?」

「うん……ありがとう」

「礼はいい。それより、お前には色々訊きたいことがあるわけなんだが」

 そう言うと、彼女は一瞬身構える。

「……こ、答えられる範囲なら」

「そうか。そうしてもらえると助かる」

 ローテーブルを挟んで彼女の対面にあるスツールに俺は腰掛ける。

 そして訊きたいことリストの中で一番優先度が高い質問を、彼女へ投げかけた。

「お前、歌い手のUtahaだよな?」

「……えっ?」

 変に上ずった声が彼女の声帯から出てきた。

 もっと他のことを訊かれると思っていたのだろう。追いかけてきた男は何者なのかとか、なんで制服姿なのかとか、そういう質問を予想していたはずだ。

 確かにそれも気になるところではあるが、俺にとってそんなことは優先度が低い。

 目の前にいるこの女子高校生がUtahaであるかどうかという、ただそれだけのことが知りたかった。

 しばらく沈黙が流れる。しかし、この質問に対して回答に窮するということは、ほぼ肯定であると同義だ。

「あんまり黙ってるとお前はUtahaってことになるけどいいのか?」

「ちょ、ちょっと待って! た、確かに私はUtaha、歌い手もやってる。けど……」

「けど? どうして知っているのかって顔だな」

「そ、そりゃそうでしょ! だって登録者数も再生数も全然だから、こんなところで知っている人に出会うなんて思わないじゃん! もしかして特定厨!? それともストーカー!?」

「まあまあ落ち着け、俺はそのどっちでもない。なんというか……うーん」

 俺はUtahaに対する自分の存在を何と表現したらいいのか適切な言葉が出てこなかった。

 まずい、このままではストーカーという肩書きをつけられてしまう。

 そう思った時、俺にはひとつアイデアが浮かんだ。

 おもむろに立ち上がり、自分の作業デスクの引き出しからとある紙切れを取り出し、Utahaへと渡す。

 こういうとき、名刺というものは便利だ。

 その名刺には、俺の肩書きが書いてある。

「俺はボーカロイドで曲を作ってる、いわゆる『ボカロP』ってやつだよ」

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