第3話 遠い春③
「それってストーカーってことか? じゃあとりあえずここから逃げ――」
俺がそう提案しようとした瞬間だった。
「おい見つけたぞクソ女! 途中で逃げるとかふざけてんのか!? あぁ!?」
響き渡る怒号。その声の主は、この娘と同じ方向から走ってやってきた。
見たところ三十代後半くらいの男性で、なんだか無理に若作りをしたチャラい髪型だった。
おまけに春先の寒い夜だというのになぜか半袖Tシャツで、走ってきたこともあって身体からは湯気が立っている。
女子高校生追いかけているのはこの男で間違いない。その証拠に、彼女は完全に怯えきって小刻みに震えていた。
「おいお前、その女のツレか? ちょっと悪いが俺はその女に用があんだわ。こっちに渡してくんねえか?」
男は俺へ問いかける。その言葉には隠しきれない怒りの気持ちが滲み出ていた。
この状況を鑑みて、この娘とこの男、どちらかが悪いことをしているのは間違いない。
しかしどちらが悪いかはわからない。ぱっと見たら乱暴な男とか弱い女の子という構図だが、見かけだけで判断してはいけない。意外と、この娘のほうが悪党かもしれない。
そんな状況ゆえに、俺には今どう行動すべきかの判断基準がなかった。
じゃあどうするか。そんなのは決まっている。こういうときは自分の都合で決めてやればいい。
Utahaの声を持っているこの娘を助けてやったほうが、後々自分に良いことがありそうな気がした。
だから俺はそれだけの動機で、目の前の怒っている男に向かって言い放つ。
「――失せろよ。この娘が泣いてるの、見てわかんないのかよ」
「あ? てめえ今何て言った?」
「失せろと言った。早くここから立ち去れよ」
「そういうわけにはいかねえって言ってんだろ! この女、俺のことを小馬鹿にしやがったんだ。落とし前くらいはつけてもらわねえとなあ!」
「小馬鹿にされたくらいで女子高校生を怒鳴りつけるとか、まともとは思えないけどな」
「なんだとこのチビっ……!」
俺に対する罵倒の言葉が『チビ』しか出てこないらしい。確かに背が低いのでチビなのは間違いない。
ただ、言われ慣れているので俺には全く響かない。
というかこの男、語彙力が足りなくないか?
そんな単純そうな思考であれば、この先の行動も読めてくる。
この娘に落とし前をつけさせたい。そのためには邪魔をしている俺を排除しなければならない。
だから彼は俺を暴力でなんとかしてくるだろう。
そう考えがまとまった刹那、男は脊髄反射のような速さで俺の襟元を掴んだ。
あいにく腕っぷしには自信がない。この男と殴り合いになったら負けてしまう。
専守防衛で耐えきることができる肉体も持っていないので、別の方法で対抗するしかない。
「なんだよ、威勢がいいのは口だけかよ。女子高生を助けてヒーローにでもなったつもりか?」
「ヒーローねえ……あいにくそういうのはあんまり趣味じゃねえな」
「減らず口を。いまからここでボコボコにぶん殴ってもいいんだぜ? まあ、今ならその女をこっちに渡してくれりゃ、穏便に済ませてもいいとは思っているけどなあ!」
男は俺を威圧してくる。だが俺はわかっている。こういうふうに声と態度を大きくして威張る輩は、往々にして中身が伴っていない。
だから少しのことで化けの皮が剥がれる。皮を上手に剥がすには、こうしてやれば良い。
「……口どめ料だ。これを持って俺の前から失せろ」
俺が男へ突き出したのは渋沢栄一が描かれた長方形の紙。それが十枚ほど。
そしてただそれを出すだけではなく、渋沢栄一の紙を握っている右手をわざとらしく見せつけた。
するとどうだ、男の顔からすっと血の気が引いていく。あれほど大きな声で怒鳴り散らしていたくせに、塩をかけられたナメクジのようにその態度は小さく萎んでしまった。
それもそのはず。俺の右手の甲にはちょっとヤバそうに見えるタトゥーが入っているから。
もちろんだが俺はカタギだ。しかし、たまたまかっこいいなと思って入れたタトゥーが、この近所の半グレ集団の連中が入れているものによく似ているらしいのだ。
男はそれを知っているのだろう。急に態度が変わったのはそのせいだ。
だが俺は男にスキなど見せはしない。むしろ、カタギではない人を装ってさらに追い打ちをかける。
「ん? なんだよ、いらないのか? こんなにあるのに。……まったく、これを受け取ってくれないなら、仲間に頼んでもっと力ずくで口止めしないといけなくなるから面倒なんだよな」
「ひっ……ひぃっ……!」
俺はまるでいつもそうしているかのような口調で男に告げる。もちろん、ここまでのことはすべて嘘。ハッタリだ。
しかし男には効果的だったらしい。どうやら俺のことが本当にカタギには見えなくなってきたようだった。
男は渋沢栄一が描かれた紙を受け取ると、尻尾を巻いて逃げていった。
「おい、立てるか?」
俺は男の姿が見えなくなるのを確認してから、座り込んでしまっているその娘に手を差し伸べる。
「は……はい……」
彼女俺の手を取って立ち上がる。
ふとあたりを見渡すと、人だかりができていてざわついていた。
今更ながら、こんな人の往来の多いところで揉め事を起こしてしまったことに俺は気がつく。
「とりあえずここは人が多いから、ちょっと移動しよう。話がある」
「えっ……あの……でも……」
「いいからついてこい。ここにいても仕方がないだろ。そんなに大勢の人間からジロジロ見られたいか?」
彼女も彼女でやっと周囲の人たちが自分のことを見ていることに気がついたようだ。もちろん、こんな注目のされかたは気持ちのいいものではない。
「わ、わかりました……」
俺は彼女の手を取ったまま、人だかりをかき分けて進む。どこか別の場所に行って落ち着いてから、この娘に聞きたいことを聞こうと考えた。
しかし、彼女はうちの高校の制服を着ている。
このままファミレスかどこかに駆け込んだところで、深夜に制服姿の女の子がいるということで補導されてしまう可能性が高い。
それなら別の方法を取るしかない。
俺はすすきの交差点から少し南下した路上で、走ってきたタクシーを止めた。
「さあ、乗って」
「どこに行くんですか……?」
「とりあえず安全なとこ。あの男が俺のハッタリに気がついてここに戻ってくる可能性があるから、早く」
タクシーの後方座席左側のドアが開く。俺は彼女へ早く乗るよう急かした。
「安全なとこって……?」
「そりゃもう安全なとこだよ。ファミレスとかカラオケよりもね」
俺はそう言って、彼女を奥に押し込めながらタクシーに乗り込む。
運転手さんに行き先を告げ、車は南下を始めた。
行き先はここよりさらに南にある、幌平橋近くのマンション――俺の住んでいる部屋だ。
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