第2話 遠い春②

 放課後になり、一度自宅に帰って制服から私服へ着替える。

 高校の制服というのは便利なものであるとは思う。しかしながら、夜のライブハウスに潜るとなると、この格好では不便が多い。

 十八歳未満立入禁止となっているライブハウスが存在するのはもちろんのこと。許可されていたとしても、夜の街を制服でほっつき歩こうものなら補導案件だ。そうなると学校や家庭での面倒事が増える。制服なんて学校の外では着ない方が良い。

 立ち寄ったライブハウスは狸小路五丁目にある小さなハコ。キャパは百人と謳ってはいるが、百人入ったら俺みたいな背の小さい客は人間の圧力に負けて天に召されてしまうだろうから、多分二、三割は数字を盛っている。

 入口がわかりにくいことで有名な場所だが、何度か訪れた事があるので淀みなく入場できる。

 重い防火扉を開けて、地下へ続く階段を降りる。一番下までたどり着けば、そこにはチケットをもぎるスタッフが待ち構えていた。

 その場でチケットを買って、ドリンク引き換え用のコインを受け取る。

 知り合いがいればチケットを取り置いてもらって前売り料金で入れたりするのだけれども、ぼっちなのでここはおとなしく正面突破。

 俺は受付のすぐ隣りにある、防火扉よりも更に重い防音ドアを開けた。その中は暗がりと音楽に溢れた空間、正真正銘のライブハウスだ。

 コインとドリンクを引き換えて、後方の壁に背中を持たれながらちびちびとそれを飲む。

 客入りはまばら。十人はいるだろうが、二十人いるかと言われたら首を傾げてしまう程度。

 友達とか、大学のサークル仲間とか、そういう繋がりで呼ばれた客だろうというのはすぐに想像がついた。

 内海先生はポジティブにああ言ったが、実際のところ有象無象の中からまだ誰にも見つかっていないダイヤの原石みたいなボーカリストを見つけるのは至難の業だ。こういうライブを何本も見に行ったり、SNSや動画サイトをひたすら漁ったり、それはそれは途方もない労力を要する。

 だからこそあのUtahaを見けられたときは心が震えた。幻だと思っていたダイヤの原石、いや、ダイヤの鉱脈と言って良いレベルの『底辺歌い手』が存在したのだ。

 俺に力があるのであれば、一刻でも早く彼女を手に入れたい。そんな独占欲が湧いてしまうくらい、Utahaの歌には魅力があった。

 だが、彼女クラスの人間がそうやすやすと見つかるはずがない。このライブにだって、きっとそんなのは現れない。

 ただ、すぐに帰ってしまうとチケット代がもったいない気がしてきて、とりあえず最後のバンドまで聴くことにした。


 ライブが終わり、時刻は二十一時半を回ったところ。

 お目当ての人材は、結局現れはしなかった。

 得たものといえば、ずっと立っていたことによる疲労感と、爆音を浴びたことによる少々の耳鳴り。

 さすがにドリンク一杯しか飲んでいないので腹が減って仕方がない。俺は行きつけのラーメン屋にでも寄ってから帰ろうと、狸小路から南へ向けて歩き始めた。

 まだ寒い北海道の春先。ポールタウンというすすきの周辺の地下道を歩くほうが暖かいし歩きやすい。

 でもなぜかこのときの俺は、わざわざ地上を歩くことを選んだ。

 それは、ライブハウスを出たときに見かけた満月が、偶然目に入ってしまったから。

 こんなにデカくて綺麗な月を見ないのは損だなと思って、俺は寒い屋外を歩くことにしたのだ。

 すすきの交差点、国道三十六号線にかかる長い横断歩道を渡りきったと同時に、俺は横から走ってきた何者かと衝突した。

 ――ドスンッ。

 ぶつかってきた何者かは、衝突する直前で全く速度を緩めてこなかった。それほど走ることに一生懸命になっていたということだろう。

 勢いは凄かったが、不思議とその何者かの感触というのは柔らかかった。

 だからその衝撃の割に、俺はあまり吹っ飛ばなかった。とは言っても、冷たい路面にしっかりと尻餅はついてしまったが。

 ぶつかってきた何者かは、仰向けになった俺のマウントポジションをとったまま動かなかった。

「……ってえなあ、気をつけ……」

 目を開けてぶつかってきた相手を見た瞬間、文句を言おうとした口が固まってしまった。

 ぶつかってきた何者かは、女子高校生だった。しかも、彼女が身にまとっていたのは、うちの高校の制服。

 いろいろな思考が俺の頭の中を駆け巡る。なんでこんな時間に女子高校生がすすきののド真ん中にいるのか。どうしてこの娘は全速力で走ってきたのか。なぜこの娘は俺に対してマウントポジションをとったまま動かないのか。

 考えれば考えるだけ結論から遠ざかる。どうすればいいか戸惑っているうちに、その少女は声を振り絞って何かを伝えようとした。

「――お願いっ……! 助けてっ……!」

 その大きな瞳から涙が流れ落ちる。泣き顔ではあるが、むしろその涙が透明感を引き立てているのではないかと思うくらい、彼女は美しい顔をしていた。

 もちろん美しいだけではない。女子高校生という年相応の幼い部分があり、庇護欲を駆り立てる可愛さも併せ持っている。

 満月の月明かり、そしてニッカウヰスキーの大きな看板の明かり。彼女を照らす照明としてはブライトではなくムーディーな感じではあるが、大人っぽさと子供っぽさという、彼女が持つ武器の両方を引き立てるならこれしかないという絶妙な光量。

 この娘をモデルにした写真集が出るのであれば、表紙は間違いなく今の俺の目に写っているこの画だろう。

 だが、俺の意識が向いたのはそんな彼女のルックスではなかった。

 助けを乞うために絞り出した声。その一言しか彼女の声を聴いていないわけだが、驚いてしまうには十分な情報量があった。

 なぜならその声は、Utahaにそっくりだったから。

 そもそもの声が似ているとか、ものまねをしたとか、そういうレベルではない。

 ここにオシロスコープがあってそれで声の波形をとったら、Utahaのものと寸分違わずカッチリ重なる、完全一致の声。

 だからこそ混乱した。今ここで何が起こっているのかと。

「……お、おい、助けてってお前、どうしたんだよ?」

 とにかく俺は目の前の彼女に問いかける。

「あのっ……、お、おいっ……かけられ……」

 動揺して泣きじゃくっていたので、彼女の回答はよく聞き取れなかった。

 とりあえずこの娘を落ち着かせなければならない。

 俺はマウントを取られている状態から身体をお越して体勢を整え、たち膝をついた。

 女の子座り状態で立ち上がることさえできそうにない彼女と視線を合わせ、その大きな瞳を覗き込む。

 ……うわ、めちゃくちゃかわいい。

 クラスでは間違いなく人気者なのだろう。友達もたくさんいて、多分サッカー部かなんかの背が高くて男前な彼氏もいる。それくらいのレベルの女の子だということくらい、保健室登校の俺でも簡単に想像できた。

「いいから落ち着け。まずは深呼吸をしろ」

 俺はその娘をとにかくパニック状態から元に戻そうと指示をする。

 すると、彼女は素直に深呼吸を始めた。

 不規則だった呼吸が元のペースに戻ってきて、彼女はようやく口を開き始める。

「……追われてる。男の人」

 まるで幼児のような二語文でシンプルに彼女はそう答えた。

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