「きつい仕事」

 食事後、返却台で政治部二級の老人党員が言ったのは、昼よりも随分も遅かったね、だった。この老人とは会議で豪快なくしゃみをするのを目にするくらいで、返却台で会ったことはなかった。謝ることはないよ。最初はまずいもんね、と言ってくれたのだが、この老人に見られているという薄気味悪さを覚えた。労新党の男女比は、一対一ではない。ということは、若い女性党員の監視を男性党員に任せていることだってあり得る。ここの社会は随分おかしいのかもしれない。

 食器を返却してすぐに、政治部二級党員フロア風呂場集合、と呼びかけられた。よく噛まないなと思いつつ、風呂場に走っていった。風呂場では全員がデッキブラシを手に、床と大浴槽の清掃をする。ここも古いからか、サビやカビがどうしても気になってしまう。十分の清掃が終わり、バルブが回る。放水口から湯気を轟音を放ちつつ浴槽に熱湯が放たれた。一番風呂は、やはり政治部一級のそのまた上層部に献上される。党の代表がどんな人間かは、年はどれぐらいかということも党員ですら知らない。党の頭脳部であるだけに、徹底した秘密主義で守られている。その顔を見ることができるのは革命後の共和国成立までは一級党員のごく一部である。私たちの番は、この最高指導者の風呂が終わって一時間ほどだろう。

 解散を告げられ、各自の自由時間と戻る。夕食後にすることはないので、ただテレビ放送を観るだけだ。広報チャンネルの討論番組がすべてのチャンネルで一番面白そうであった。内容は、ラジオで聴いた王銀の討論をそのまま反転させたようなもので、切り取り方やカメラ位置が労新党に有利になっている。王銀の事務員を名乗るものは、いかにも労新党に都合の良さそうなようにしか批判しない。当然、労新党は相手を舌戦で破る。劇的な試合のようにも見えるが、明らかなヤラセ感がある、安っぽちい番組という印象だ。とはいえ、他の番組は総じて…という具合なので、これで我慢する他ない。一方的に攻撃しまくるショーは、そのままずっと続いた。

 ”男子二級党員!至急風呂場集合!”扉の奥より響き渡った。扉を勢い良く開ける音が周辺より聞こえて来る。私もテレビを忘れて部屋を飛び出した。風呂場前に向かうと、堅い強面の人間が、何をしている。走れ急げ、と周りを急かし、背を押す。二級党員が集合し終わると、強面の代表らしき者から説明が合った。男子浴槽に黒い物が浮いておった。貴様らの掃除への心はどうなっているんだ!と、他の部屋で過ごす党員のことも考えていないように怒鳴っていた。長々とした説教の末、掃除のやり直しを命じられた。浴槽に男子二級党員全員が詰められると、地獄は始まった。強面の一人は冷水をホースでかけ、もう一方は熱湯をかけている。デッキブラシでひたすらに掃除するが、密度が高すぎて隣の党員のブラシがコツコツとあたってしまう。とても非効率じゃないか!憤っていると、腰に強い衝撃と熱さを感じた。後ろから強面による攻撃と熱湯責めが来たのだ。その衝撃でよろめけばまた、よろめけばもう一度と、延々と攻撃を受けた。掃除に戻るまでに、もう腰が数センチか歪んだのではと思うほどにやられた。もう受けたくないので、ひたすらに掃除をした。着ていた服はびしょ濡れになり、かなり重たくなってしまった。

 ようやく浴槽の外に出るのを許されると、浴槽前で服を脱ぐように命じられた。どうやら懲罰はまだらしい。次に横の人間と手をつなぐように命じられ、その通りにする。横の党員の腹部には、Cの形をした傷跡が残っていた。強面共は思い思いに工具を出した。私の身に何が起ころうとしているのか、もう察するしかない。沸き上がったばかりの湯に工具を突っ込み、温める。一分かした辺りで取り出し、端の党員をそれで思いっきり叩いた。思わず声が出てしまい、もう一度受けた。なんとか声を殺し、次の党員を叩く。不幸にも、叩かれた党員は反射からか絶叫してしまった。こうなってしまえば、もう一度最初の人間からである。今度はそれまで浴槽で工具を温めていた強面が相手だ。先ほどと桁違いの音を立て、加わった力の差を思い知らされる。バン、バン、と耳で聞くのすら恐ろしい音が浴槽で鳴り響いた_________ついに最初には回ってこなかった私の番となった。声を出せば、新米の私は間違いなくシメられるだろう。大きく振りかぶった腕が見え、思わず目を閉じてしまう。このとき、叫んだかどうかを自分で理解できなかった。目を開けると、傷跡のついた男にその番が巡っていた。男は野生動物のような絶叫を二度あげた。刹那、私の脳内に絶望という感情が走った。

 ______終わったのは、何時間後であろう。それよりも、腹部や胸部がジンジンとするのをどうにかしたい。濡れてしまった服を着て、階段の踊り場で立っていた。私には、泣ける場所が必要だった。もう涙が眼の表面で溜まっていた。涙で霞む視界には”4”という数字が見えた。会議場が同じ階だったので階段を使う機会はほとんどなく、意識はしていなかったのだが、ここは六階建ての大きなビルなのだ。だが、外装を見たことがないし、ここには窓がない。本当に六階建てなのかも不明だし、地下にプレハブを何個か詰め込んだだけの可能性もある。一階にはドアがあるのだろうか。ここから、出られるのだろうか。階段を降りようとした時、”おーい”と呼ぶ同志ピアザの声が聞こえた。彼は私に、一時間視聴が出来ていないので、早めにニュースを観るよう言ってきた。私はそれを思い出した。朝では達成できておらず、その後もニュース番組はなかったのだ。私はそれを理解できたのだが、泣いてしまう感情が晴れなかったし、せっかく本心を話し合える仲の人間が居たので、監視のなさそうな場所に来てくれ、と彼に伝えた。すこし驚いたような顔だったが、私にその場所を教えてくれた。場所は昼ぐらいに訪れたトイレの一番奥の扉だった。中を開けると、壁から配線がむき出しになっており、そのうち一つは便器に完全に浸かっていた。他のトイレにはあったセンサー式の流水弁が、ここには存在しなかった。代わりに粗末な蛇口がついており、流しきったら蛇口を止めるという具合である。同志ピアザが言うには、電工業者にも怪しまれないように電気を使う器具に盗聴器を潜り込ませているらしい。やはり染み付いた臭いが辛いが、話せるだけ有難い。隣の個室に響かない程度の小声と、十分の時間制限を条件に話し合うことにした。私の主張から始め、ここから脱出できないか、と述べた。同志ピアザは冷酷にも、そんなことは出来ない、と言った。扉はないのか、と聞いても、私ほどの人間がそれの有無など知らない、というのだ。おかしい。同志ピアザは起きた状態でここにやってきた筈だ。彼に、どこから入ったかとか覚えていないだろうか、と聞くと、それも覚えていないらしい。だが、なんとなくの特徴を知っているらしく、近い内に部屋に呼び出すのでそのときに教えると約束してくれた。私はこれで安堵した。完全に不安とかが取り除けた訳じゃないが、聞いておいて良かったとは思う。

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