第6話 スラム

俺とザックはスラムに足を踏み入れた。


わかってはいたけど、日本で生まれ育った俺には、スラムの現実は想像以上だった。


まさに、認識が甘かったと痛感する。


至るところに溢れたゴミ、鼻をつく酷い匂いが漂ってくる。牢獄とはまた違った不快な匂いだ。


バラック小屋からは、余所者である俺に対する冷たい視線がこれでもかと突き刺さる。


こんなところで俺は本当に生きていけるんだろうか?


今すぐここで、迷子の子供みたいに「帰りたい!」って大声で泣き喚きたい気分だ。


落ち込みがピークに達している俺とは対照的に、我が家に帰れるザックはまるでスキップしそうな勢いで進んでいく。  


ああ、なんだこの差は…。


「はぁ…」とため息を吐きながら、俺はザックに話しかけた。「ザックの家はまだなのか?」


「もうすぐだ!」と、振り返って元気よく答えるザック。「そういえば、おっさんはどっからきたんだ?」


「遠いとこだ…」と、適当に答えながら、俺は心の中で叫んだ。


いやいや、違う世界から来たんですけど!帰れるもんなら今すぐ帰りたいです!


ザックは歩きながら突然、「じゃあ、住むとこないならうちに来いよ?」と軽く言ってくる。


「そのほうが稽古も受けやすいしさ、家が決まったら出てけばいいじゃん。」


ザックさん、あなた神様じゃないですよね?と、俺は心の中で手を合わせて祈った。


こんな状況で差し伸べられた救いの手に、少し涙が出そうになる。


でも、目の前の現実はどう考えても過酷だし、慣れるまでが大変そうだ。


うーん…でも、ザックの家にお世話になるのも悪くないかも。とにかく、今は生き延びるためにあらゆる手段を考えなければならない。


「じゃあ、お言葉に甘えて、しばらくお世話になるか…」と、俺は少し照れくさそうに答えた。


ザックは、「よし!決まりだな!」と笑い、俺はその元気さに少しだけ救われた気分になった。


これからのスラムでの生活、どうなることやら…。


変わり映えのしないスラムの道を歩いていると、前からザックと同じくらいの年の少年が駆けてきた。


「ザック!無事に出れたね!アリサから聞いたときはビックリしたよ!」金髪で、どことなく大人びた感じの少年。


将来、間違いなくイケメンになるだろうな…なんて俺は思いながら、しばし見守る。


ザックは顔を綻ばせながら、「助かったよ。シュウが来てくれなかったら、出るのにめっちゃ苦労したぜ!」と感謝の言葉を返している。


二人はすぐに、他に誰が捕まっただの、どこで仕事を貰えるだの、スラムではなかなかの有意義な話を始めた。


俺はしばらく黙って会話に耳を傾けていたが、突然、シュウという少年が俺の方をジロッと凝視し始めた。


まるで今になって俺の存在に気づいたかのように、シュウが目を丸くしてこう言った。


「だれ?この裸のおっさん」


佐々木亮、ついに『おっさん』から『裸のおっさん』にジョブチェンジしました…。

どうも、よろしくお願いします。


俺は心の中で盛大にツッコミを入れつつ、現実を受け入れざるを得ない状況に、ただただ苦笑いするしかなかった。


ザックが「ちょっと待てよ、シュウ。こいつはただのおっさんじゃないんだ!」と慌てて弁解しようとするけど、どう弁解しても「裸のおっさん」からの脱却は難しそうだ。


だって、今の俺、本当にパンツ一枚だし…。


シュウはそんな俺を見て、まだ不思議そうな顔をしている。


どうやら、スラムに来たばかりで裸同然の男ってのは、かなり珍しい光景らしい。


「まあ、とりあえずよろしくな、シュウ。」俺は気まずさを隠すために、軽く手を挙げて挨拶してみた。


シュウは、まだ半信半疑の表情で、「ああ…よろしく、裸のおっさん…」と応えた。


こうして、俺は新たな異世界スラムでの肩書きを手に入れたのだった。


さて、この「裸のおっさん」として、どうやって生き延びていくか…?


やっぱり、まずは仕事よりも服だな!


さすがにこのままじゃ、いくら異世界でも怪しすぎる。


「ザック、なんか着るものないのか?」


子供に縋るなんて情けない…と思いつつも、今は頼れるものには全部頼ると、開き直った。


これも生き延びるためだ、うん。


ザックは少し考えたあと、「家に帰ればなんかある」と言った。


俺は「もしかして、お父ちゃんの服でもくれるのかな?」なんて安易に考えていた自分を、ちょっと殴ってやりたい気分だ。


雑然と並ぶぎゅうぎゅう詰めのバラック小屋の間を、ザックに続いて歩くこと数分。少し見晴らしの良い場所に出た。


2、3キロ先だろうか、石造りの街並みが見える。そのもっと奥には城と尖塔のようなのが建っている。


あれがセイリュート市ってやつか?入ったらまた牢獄行きになりそうだし、うん、気をつけよう。


「着いたぜ!」とザックが嬉しそうに言う。


さっきまでの密集地帯とは違い、この辺りはかなりまばらだ。バラックもポツリポツリと立っているだけ。


「ご両親に挨拶したほうがいいのか?」と、俺はつい日本人的感覚で何も考えずに聞いてしまった。


その隣でシュウが「あちゃー…」みたいな声を出しながら頭を抱えているのに気づく。


すると、さっきまで嬉しそうな顔をしていたザックが、急に能面みたいな無表情になった。


「父ちゃんや母ちゃんはいねぇ…王国に来る途中に殺された…父ちゃんは母ちゃんと俺を逃がすために…母ちゃんは野盗に連れてかれて…俺は逃げることしか…」と、ぶつぶつと呪文のように話し始めた。


やばい!と冷や汗をかきながら、俺は視線でシュウに助けを求める。


シュウはその視線を受け取ると、ザックの両肩を掴んで力強く揺さぶった。ザックの表情が元に戻る。


その後、シュウからの「何やらかしてんだよ!」という恨みがましい視線が痛い…。


俺は申し訳ない気持ちで、視線をそらすしかなかった。


中に入ると、狭い空間の柱にボロ布で作られたハンモックが吊るされているのが目に入った。地面は土のままで、床というよりは「地面」そのものだ。四角いテーブルと椅子が置かれているが、どちらも廃材で作ったような粗末なものだ。


これがザックの家か…。ザックとシュウの二人で住んでいるらしい。シュウも両親がいないようだと聞いて、俺は心の中で少し胸が痛んだ。


そんな感傷に浸る間もなく、ザックがおもむろに部屋の隅にある箱をゴソゴソと漁り始めた。


そして「見つけた!」とでも言わんばかりに、何かを掴んで俺に押し付けてきた。


「服。」


その一言と共に手渡されたのは…これは麻袋って言います。思わずツッコミそうになったが、今はその余裕すらない。


俺は黙ってそれを受け取った。


するとシュウが、「貸してみて」と手を差し出してくる。ナイフを手に取り、手際よく麻袋を服のような形に変えていくその姿に、俺は目を見張った。


「とりあえず、これで新しいのを買うまで我慢しなよ。」とシュウは言いながら、俺に麻袋…もとい、麻製の即席服を手渡してくれた。


シュウの手際の良さと、その母親のような気配りに、俺は思わず感心してしまう。


お母さんだわ、この子…。俺は心の中でそう思わずにはいられなかった。


服を受け取りながら、周りを見渡すと、壁に立てかけられた木の板や、ザックが使っているであろう小さな木の剣が無造作に置かれている。


生活の全てがこの狭い空間に詰まっていることがわかる。


「ありがとな、シュウ。」俺はシュウに感謝の言葉を伝えながら、その母性あふれる対応にますます感心した。


服を着て、ようやく少し心の余裕が出てきた。これで、裸のおっさんから脱却できた…と、少し安堵する。


ふとザックを見ると、彼はハンモックの中にすっぽりと収まっている。やっぱり疲れが溜まっていたんだろう。一晩寝ていないんだから無理もない。


俺も空腹だが、疲労がそれ以上に襲いかかってきていた。


「名前なんて言うの?」


シュウが尋ねてくる。名前で呼んでくれるのか?と少し驚きながらも、俺は苦笑して答えた。


「そういえば、自己紹介してなかったな。俺は『リョウ』だ。この国のことは全然わからないから、いろいろ教えてもらえると助かる。」


「じゃあ、『リョウ』って呼ぶよ。」


シュウは朗らかに笑い、その笑顔に少しホッとした。


なんだかんだで、この子はしっかりしてるな…。シュウには簡単な計算でも教えてやるか…


「いろいろ話したいこともあるんだけど、少し休ませてもらってもいいか?」


申し訳なさそうに頼むと、シュウは「あっ、ごめん」と言いながら、手際よく四角い椅子とテーブルを高さが合うように並べ、その上に所々穴が空いた植物を編んだ敷物を引いてくれた。


「誰かが泊まりに来たときも、いつもこうやって休むんだ。みんな心配してたから、俺は帰ってきたって知らせに行ってくるよ。リョウも休んでなよ。ザックはもう寝てるみたいだし。」


その言葉を聞きながら、俺は感謝の気持ちを込めてシュウに礼を言った。


しかし、疲れが限界に達していたのだろう。敷物の上に体を横たえた瞬間、瞼が重くなり、一瞬で深い眠りに落ちていった。


体中の筋肉が、ようやく休息を得られたとでも言うように、緊張を解いていくのを感じながら、意識がどんどん遠のいていく。


ここがどこであろうと、今はただ、眠りが全てを包み込んでいくのを感じるだけだった…。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る