夢月夜に想う

@Cafe_teria

夢想

 それは、信じがたいほど甘い恋でした。一夏の記憶は、今も私の心に縛り付いて離れようとしてくれません。一日たりともあの時の感情が忘れられないんです。希った夢も、地に落ちた望みも、冷たい底に沈んだ幸福も、全てが入り混じった黒く濁った劣情でさえ。何もかも頭に染み付いて、選択を誤った私へ語りかけてくるのです。

 私は元来、何でも言うことを聞いて大人しくしているような性質でした。波風を立て無いように誰彼構わず機嫌を取って、怒りもせずただニコニコと微笑んでいる。そういう性質の子なので自発的に動く事はほぼなかったわけです。きっと世間的には面白くない子だったに違いありません。

 高校三年生のあの日、私の人生は彩りで溢れました。無色で何にも色付けられていない質素な世界は、瞬く間に夢の世界へと姿を変えました。音楽が導く出会いはこんなにも美しい物なのかと感激したんです。名前の付けられない複雑な感情の上に成り立っている物、それが私の人生を彩った物の正体でした。仮に名前を付けるのだとしたら、紛れもなく恋という名になるでしょう。

 恋に惑わされて、私は何度も間違いを犯しました。取り返しの付かない失態をして、そこで初めて気付くほど私は愚かだったんです。私はあまりにも大きな罪を背負いました。あっという間に過ぎ去ってしまった時間に音を乗せて、幼い私達に向けて鎮魂歌を奏でるのが贖罪になると、今は感じていたいのです。それがただの言い訳だというのは分かっているのです。分かっていて、音を奏でることを止められません。そうでもしないと、今にも狂って消えてしまいたくなります。

 時々、私はあの日の海と共に幼い私達が弾くピアノの音色が聞こえてきます。最後の夏に聴いた音が、焼き付いて離れないんです。私の時間は、あれから一秒も進まなくなってしまいました。


 本格的な梅雨の足音が聞こえてきた頃、教室にドビュッシーが作曲した月の光が鳴り響いていた。生徒達は真面目な顔をして、曲の鑑賞文を書いている。シャープペンシルの音が、月の光と重なって絶妙な音楽を奏でていた。窓の外は六月の中頃にも拘わらず、雲一つ無い青空が広がっていた。

 ふわぁと間の抜けた欠伸が出た。目が少しうるっとして景色が滲む。どうにかこうにか起きているが、睡眠欲が勝つまであとどれくらい持つだろうか。手元の鑑賞文プリントは真っ白で、このまま提出すれば先生が何を言ってくるかわからない。だとしても、今は自分の生理的欲求を満たすほうが大事だ。

 窓の外から視線を先生に移す。生徒を観察していた五十後半のおじいちゃん先生と目が合い、寝るなとでも言いたげな視線をこちらによこした。基本どの授業でも居眠りをしているので、教師の間で寝てばかりいる駄生徒として認識されているからこその目線だろう。

 受験に向かって努力しなければいけないこの時期に眠っている私がおかしいのは分かっている。だとしても、どうしても他人事に思えてしまう。まるで、古い白黒の映画を自宅のソファでポップコーンを食べながら、何も考えずに眺めているように。そこに演者としての私がいたとしても、赤の他人のように振る舞える。

 今までの人生だってそうだった。大海原を波に乗ってたった一人で旅している。海に浮かぶ海月のように、意志を持たずに過ごしてきたも同然だ。自分のやれる範囲内のことをやれるだけ。必要とされること以上の変化を求めずに生きてきた。たった十七の子供が何を言っているんだと言い返されれば、それきりになってしまうけれど。

 時計は午後二時を指していた。授業終了まで残り二十五分ほど。半分は起きていたのだから、十分頑張ったほうだ。子守唄にぴったりなクラシック曲も流れている。なにせ題名が月の光なのだから、月に見守られた気分で熟睡できることだろう。

 おじいちゃん先生はすでに眠りこけていた。恐らくこのクラシックのゆったりとした曲調に負けてしまったのだろう。

 私に寝るなと視線で忠告しておきながら、自分は寝ているじゃないか。きっと睨んで教師に抗議してみたが、効果的なダメージは期待できなかった。月の光はループ再生になっているのか、同じメロディが再度流れ始めた。生徒が不思議そうな顔で教師の方を見つめている。

 先生が起こされたら厄介だ。起きる前にさっさと寝る事にしよう。硬い机に伏せて、音に耳を済ませた。視界がゆっくりと暗くなっていく。

 目を覚ました時には、教室にいる人は少なかった。帰りのホームルームから時間が経っていることは明らかだ。

 誰か起こしてくれても良いじゃないか。心の中で悪態をついたが、クラスで友達と呼べる存在がいないのだから、私に声をかける阿呆はいないのが当然のように思えた。

 ほとんど何も入っていないのに、重く感じる鞄を肩にかける。自習をしている人の邪魔にならないようにこっそりと教室のドアを開けて廊下に出た。廊下は蒸し暑い空気でいっぱいだった。あちこちから部活動に励む人の声が反響している。

 廊下を少し歩いて、長ったらしい階段で一階まで降りる。下駄箱で靴を履いて、校門へ向かって歩き出した。

「あ、ごめん! そこのボール取って!」

 遠くの方から運動着を着た人がこちらに走ってきて、足元にボールがぶつかった。ボールを拾って投げて渡す。笑みを浮かべてありがとうと言った後、来た方向へ戻っていった。

 忙しい人だな。

 湿った空気の中駅まで歩いて電車に乗り、三十分後最寄りの駅に着く。何の変哲もない日常。予定調和は嫌いではないが、面白みに欠けている。家に帰ったとしてもスマホを触る事以外にやることがないので、久しぶりに近くの公園に足を運んでみることにした。

 公園に着いてベンチに座り、各々遊んでいる子ども達を眺めてみる。ブランコを漕いでいる子、滑り台を逆走しようと試みる子、砂場でお城を作っている子。夕暮れに染まった公園は、小学生くらいの子どもで溢れかえっていた。沢山のランドセルが無造作に置かれている。学校帰りに友達と騒ぎながら公園まで来たんだろうか。色々な性格を持つ子達が、それぞれの意志に従って生きている。私とは正反対な何かがそこにはある。

「お姉ちゃん、遊ぼう!」

 鬼ごっこをしていた一人の子が、無邪気に話しかけてきた。たまには地域の子と遊んで仲を深めるのも良いことかもしれない。

「いいよ、お姉ちゃんと遊ぼうか。何して遊ぶの?」

「鬼ごっこ! お姉ちゃん鬼ね!」

 元気に走っていったその子は、先程まで遊んでいた集団に戻って私が鬼になったことを伝えたらしい。全員チラチラと私の方を見た後、一目散に逃げて行った。

 鞄をベンチにおいて、走り去っていった子達を確認する。小学校低学年ほどの年齢で、一生懸命に走る姿が微笑ましかった。走りにくいローファーを履き直して、狙いを定める。五人くらいだからすぐに捕まえられるだろう。

 結果として私は、五分後に自分の過ちに気づいた。子どもの体力を侮っていた。追いついて全員を捕まえたとしても、もう一回とせびられる。その可愛さゆえに許してしまうと地獄のループが始まる。かくして、私は帰りを促す放送がなるまでのおよそ一時間半走り続けることとなった。

「お姉ちゃんありがとう。またね!」

 大きく手を振って家に帰っていく子ども達に小さく手を振り返す。背中が完全に見えなくなるとベンチに腰を下ろした。

「疲れた……」

 どっと疲れが襲いかかってきた。長時間走ったせいで汗が滴って気持ち悪い。夕方になってやっと気温が落ちてきたのか、生暖かい風が頬を撫でた。垂れた汗がひんやりと体を冷やす。息が整いはじめると、私の身体は休息を求めてきた。周りを見渡したが誰もいない。少し目を閉じて休むくらいなら迷惑はかかるまい。どうせ家で寝てもここで寝ても同じようなものなんだから。

 アラームよりうるさい虫の声で目覚めたとき、辺りは暗闇に包まれていた。公園の電灯が灯りを放って虫達をおびき寄せている。

「さすがに寝すぎた」

 独り言は闇に溶け出ていった。疲れ切った体に鞭打って、重い鞄を背負う。薄気味悪い夜道だった。白と黒の星々が夜空に交差し、濁った光を地上に落としている。夜は一切の輝きを失った、無彩色しか存在しない彩りのない景色。

 美味しそうな晩御飯の匂いが漏れ出る家の前を通った。誕生日パーティでもしているのだろうか、子どものはしゃぐ声が聞こえてくる。私には縁のない事だと割り切っているつもりでも、羨ましく思ってしまう。

 家に帰ると、晩御飯はダイニングテーブルの上にラップされて置いてあった。ご飯はすっかり固まってしまっている。親はすでに晩御飯を食べ終わったようで、リビングでくつろいでいた。こちらを少しも見ないところを考えるに、今日は虫の居所が悪そうだ。

 触らぬ神に祟り無しだ。やることやってさっさと寝よう。暑さでご飯が腐ってないかだけ心配だな。

 温くて固い晩御飯を口に運ぶ。頭の中に浮かぶのは、帰宅途中に見た楽しそうな家庭のことだった。


 授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。私は昨日の事を教訓に、六時間目は寝ることを諦めていた。ホームルームは滞りなく進み、時間割という枠組みから解放される。部活に行く人や帰る人で扉はごった返していた。

 そんなに急がなくてもいいのに。

 鞄の中に物を詰め込む。昨日と同じ様に公園に寄っても良いけれど、また鬼ごっこをせがまれたら体力が無くなりそうだ。暇だし、どうせなら旧校舎を探索してみるか。

 旧校舎は掃除があまり行き届いておらず廃墟と化しているから誰もいない。鬱蒼と茂った森の中のように、妙な気味の悪さが充満している。一階、二階と上がるにつれて、埃や蜘蛛の巣が増えてきた。ツンと鼻の奥に突き刺さる空気に嫌気が差してくる。

 奥へ奥へと歩みを進めると、私の足音しか存在しなかった空間に、微かにメロディが混ざり始めた。心地の良い音楽だった。音の出る方へ、導かれるままに進んでいく。歩く度に快い音が空っぽな私全体に行き渡る。音楽が、旋律が、音調が心を捉えて離さない。幸せな味のする演奏だ。

 一体どこの誰がこんなにも優しい音楽を奏でているのだろう。

 音の出どころから引力が働いて、吸い寄せられる。この音楽を弾く誰かに、私は不思議と会いたいと願っていた。何かが始まるような予感があったのだ。緞帳が上がっていく。

 廊下の角を曲がると、音の出どころは必然だった。突き当たりにある、音楽室と書かれた看板が吊り下がった古い教室。意識しなければ誰も訪れない辺境の地は、知らぬ間に桃源郷へと姿を変えていた。

 音を封印している重石をこじ開けていく。錆びついた金属が嫌な不協和音を立てた。

 扉が開ききった途端、音楽が私を包み込んだ。音の重圧に倒れそうになる。柔らかな日に照らし出された若葉が、生き生きとした活力を取り戻していくように体にエネルギーが満ちていく。私の必要としていた彩りはここに存在した。

 長い間置きっぱなしにされていたせいで所々塗装が剥げているグラウンドピアノに向き合うようにして、一人の女生徒が曲を奏でていた。特筆すべき美しさは持ち合わせていないはずなのに、不思議と私は彼女から目を離すことができなかった。ただ真っ直ぐに楽譜を眺め、瞳を輝かせながら弾いている。音を正真正銘の意味で楽しんでいる。これこそ音楽なのだと知らされる。彩りが彼女の中心から溢れ出て、古びた教室が活気で埋め尽くされていた。私は、女生徒から目を離せなかった。

 曲を一通り弾き終わった彼女は、全身で余韻に浸った。しんとした教室にわずかな音が漂っていた。静かに顔を上げた彼女は、扉を開け放しにして止まっている私を見て目を大きく見開いた。

「どうしてここが分かったの?」

 見た目よりもずっと低い落ち着いた声だった。深く天空に沈む雲のような声。首を傾げた拍子に長い髪が肩を滑り落ちた。

「貴方の音があまりにも綺麗だったから」

「ありがとう」

 微笑んで、彼女は一言問いかけた。

「もう少し近くで聞かない?」

 私には提案を断る選択肢なんて頭に塵一つもなかった。あるはずもなかった。頷いて、彼女が指差したグランドピアノの傍に置いてあったパイプ椅子に腰掛ける。

「どうしてパイプ椅子があるの?」

「なぜだか分からないけど、置いていたら落ち着くの。きっと誰かに聞いてもらいたかったのかもね」

 それが君なのかも、と小さく付け足された言葉には照れが滲んでいて、彼女は私からそっと目線を外した。

「さっき、何という曲を弾いていたの?」

「んーと、これ?」

 彼女の白い指が滑らかに鍵盤を押して、私が聞いた美しい音楽が蘇った。それ、と答えると、これはドビュッシーの夢想だと彼女は告げた。ドビュッシーと答えられても、私は安眠音楽を奏でる作曲家としか記憶していなかった。

「君の好きな曲を弾くよ。何かリクエストは?」

「じゃあ、月の光」

「ドビュッシーの?」

「そう」

 頷いてみせると、彼女は少々面食らったようだった。流行りの曲を言われると思っていたんだろう。事実、私も普段なら当たり障りのない楽曲を口にしそうなものだが、この日の私は冒険してみたかったらしい。彼女は驚きを直ぐに取り払うと、色褪せた鍵盤に手を置いて演奏を始めた。

 彼女が演奏を始めると、私は音の柔らかさに眼を見張った。授業中に聞いた安っぽいCDで響くものとは何もかも違う。彼女の手から紡ぎ出される月の旋律は、流れとなって音楽室中を満たした。優しい音楽は遠い異国の地へと運び出してくれる。どうしようもなく、このまま身を委ねてしまいたい気分に襲われた。演奏が終わるまで、ほんの一瞬だった。美しい物語が終わり、耳に馴染む音が頭の中で反響し続ける。

「どうだった? お気に召したかな」

 しばらく余韻に浸っていたせいで、長い間黙り込んでいたと彼女に話しかけられて初めて気がついた。

「特別な感想は何も言えないけど、とても素敵だったよ」

 彼女の音楽の素晴らしさを言葉に出来ない苦しさを覚えた。ただ、彼女は私の平凡な感想だけで充分のようだった。

「下校時間ギリギリまで弾いているつもりなんだけど、良かったら聞いていてくれない?」

「もちろん。ずっと聞いていたいくらい」

 彼女は私の言葉を聞くと、花が咲いたように笑った。鍵盤に手を置いて、新しい物語を彼女が奏で始めたとき、私は目を閉じて物語の中へと惹き込まれていった。何という曲か全く見当もつかなかったけれど、彼女の演奏を聞いているだけで心が満たされていった。

 彼女が十数曲弾いた頃だった。物語を途切れさせる忌々しい音が鳴り響いた。

「下校時間だ。君もそろそろ帰らなきゃね」

 ピアノの蓋を彼女は降ろし始め、物語は終わりであると分かった。

「どの曲も素敵だった。毎日ここで弾いてるの?」

「弾いてる。明日もここで、待ってるから」

 彼女は私が来ることを期待しているようだった。明日も彼女の演奏が聞けるかもしれないと思っただけで心臓が飛び跳ねた私に、彼女の誘いを断れるわけがない。

「あ、忘れるところだった。君の名前は?」

 帰ろうと荷物を持って廊下に出たとき、手を掴まれ問いかけられた。目の前に迫った表情にどきりと心が音を立てる。

「夜空。山倉夜空。貴方の名前は?」

「松浦渚。渚で良いよ。夜空って高三でしょ?」

「うん、そう。渚も?」

「ご明察。お互い受験生なのに、悪い子だね」

 悪い顔で笑った渚は何かを隠したそうだった。

 廊下の窓から空を見たとき、辺りはすっかり真っ暗になっていた。階段を降りて下駄箱から出れば、見回りの先生が早く帰れと急かしてくる。ほぼ怒号に近い呼び声を後ろに受けながら校門を出る。色鮮やかな夜が広がっていた。家に帰る足取りが軽い。帰り道が幸福で溢れ出している。明るい夜道を歩いた。金平糖のように色とりどりの星々が夜空に瞬く。宝石箱でも見ているようだ。星が純粋な光を取り戻し、地上に落とす。

 今夜は輝きを取り戻した。世界に蔓延っていた薄気味悪い濁りは取り除かれ、誰もが夢見た世界が目を覚ました。

 昨日、子供のはしゃぐ声が聞こえた家の前を通った。今日も幸せそうな歓声が漏れ出ている。羨望は、満足している間には現れない感情らしかった。

 家に帰ると、晩御飯はダイニングテーブルの上にラップされて置いてあった。お茶碗に入れられた白米も固まってしまっている。せめてご飯はつがないで欲しかったという文句を心の中に閉じ込める。

 親はいつも通り食べ終わっていたようで、リビングでお笑い番組を見ていた。ただいまという声に気付いてこちらを見たので、機嫌は良さそうだが、いつ機嫌がおかしくなるかわからない。やることを終えてさっさと寝よう。

 暑さで腐っていない事を祈りながら晩御飯を口に運ぶ。頭に浮かぶのは、渚の弾いたあのうっとりとする月の光だった。


 昨日と何も変わりのないチャイムが鳴った。私は鞄を引っ掴むと直ぐに教室を出た。鬱々とした埃の森を抜けて、音が湧き出す泉へと向かう。喧しい雑音の中から早く抜け出したかった。

 音楽室の扉を開くと、渚は相変わらず美しい旋律を奏でていた。 

「お待たせ。相変わらず、素敵な演奏」

「どうも」

 一つの物語が語り終えられるまで、私は大人しくグランドピアノの前に立って音を楽しんでいた。余韻が引いた頃を見計らって話しかけると、渚は快く私を受け入れた。

「将来はピアニストになってそう」

「うん、そうだね」

 渚の表情に一瞬陰りが浮かんだ。しかし直ぐ様誤魔化すような嘘らしい笑顔を見せた。戸惑って揺れる瞳を、私は見逃せなかった。

 ふと、真っ黒なピアノの上に無造作に置かれた本が目に入った。表紙に櫻桃と記された題名と、大小様々な蝶が飛んでいる。右下に、太宰治と印字されてあった。

「太宰治、好きなの?」

「特に。親に押し付けられたから、読んでいただけだよ」

「そっか」

 渚は放り出されていた櫻桃を手にとって表紙をまじまじと見たあと、思い出したように言った。

「そう言えば、今日太宰治の誕生日だ」

「そうなんだ」

「生誕百四十年目なんだって」

「キリ悪いな。てか詳しいじゃん」

「親が好きでね」

 居心地悪そうに笑った後、渚は本を置いて鍵盤に手を戻した。

「リクエストは?」

「昨日と同じ」

「好きだね」

 渚は月の光の物語を弾き始めた。古びた教室中に花が咲き誇る。私はパイプ椅子に腰掛けて、耳を澄ます。横を通り過ぎるなだらかな流れが風となって私の短い髪を撫でた。廊下の窓から茜色の空に浮かんだ雲が目に入った。紅く染まった雲が揺蕩っている。空を穏やかに流れる雲はまるで海の中に揺られる海月のように見えた。

「夜空?」

「あれ、私黙り込んでた?」

 渚に肩を揺さぶられて、ずっと話しかけられていたことに気付いた。考え事をしだすと周りが見えなくなる。私の悪い癖だ。

「ごめん、ちょっと考え事してて」

「そう」

「綺麗だったよ」

「ありがとう」

 渚の背後から夕焼け色の光が指していた。開け放しにされた窓からそよ風が室内に侵入した。生温い温度が側を通り抜けていく。

「渚っていつからここで弾いてるの?」

「六日前から」

「思っていたよりも短かった」

「このピアノが弾けるって事に気付くのが遅くてね」

 白鍵と黒鍵の間を細い指で愛おしそうになぞる。ピアノがそれに答えて高いシの音を鳴らした。

「夜空、海に行きたいね」

「藪から棒にどうしたの?」

「何となくだよ」

 渚はピアノへ向き直ると、私の知らない曲を奏で始めた。波の寄せては返す音を正確に物語に落とし込んだような曲だった。穏やかな曲調から荒波のような曲調まで、全てが気まぐれな海のようだった。

「題名は?」

「『海。管弦楽のための3つの交響的素描』」

「これもドビュッシーでしょ」

「どうして分かったの?」

 渚はピアノを弾く手を止めて訪ねてきた。唐突に終りを迎えた音が、行き場を見失って空中を彷徨った。

「だって渚、ドビュッシー好きでしょ。昨日も今日も、ほとんどドビュッシーの曲だよ」

「無意識だな。たしかに、ドビュッシーは作曲家の中で一番好きだけど」

「私も好きだよ、ドビュッシー」

「一緒だね。夜空ってクラシック詳しいの?」

「全然。ドビュッシーも、渚が好きだから好きなんだよ」

「なにそれ」

 ぷっと渚が吹き出して、私もそれにつられて笑った。幸せの花が教室中に咲き乱れて、二人だけの美しい世界を彩った。夕暮れが暗い闇に包まれ星達の舞台が始まるまで、渚は長い長い海の物語を語って聞かせた。私は物語の中にある一粒の水滴となって、海という巨大な群衆の中で異国を旅し続けた。

 梅雨も終わりへと向かい始め、夏の気配が見え隠れしだした七夕の頃、渚はあの太宰治の誕生日から飽きもせず毎日海を弾き続けていた。

「今日も『海。管弦楽のための3つの交響的素描』?」

「うん。飽きた?」

 眉根を下げて私の様子を窺うように聞いてくる。まるで飼い主を怒らせた犬みたいだ。

「別に。海以外にも弾いてくれるし、私は渚が弾くものだったら何でも良いよ」

「良かった」

 安堵した息を吐き私の手元を覗き込んで、それよりもこんな埃っぽい所でよく食べられるねと呆れられた。

「慣れたらあんまり匂いも気にならなくなっちゃった」

「不衛生じゃない?」

 渚は言い終わるや否や、私の手元にあった食べかけのメロンパンを取り上げた。

「あっ。私の昼御飯」

 手を咄嗟に伸ばしたが、渚はメロンパンを取られないよう手を高く上げた。

「今日はお昼までだからご飯一緒に食べよって言ってきたの渚なのに」

「ここで食べるつもりはなかったよ」

 渚が鍵盤に肘をついて、ピアノが低い呻き声を上げる。不協和音が響く。ここであの重石でも開けられてみれば、楽園は地獄と化すだろう。

「というか、ずっと海弾いてるけど、行きたいの?」

 この頃疑問に思っていた事を口に出せば、渚はキョトンと首を傾げて答えた。

「最初に言わなかったっけ? 夜空、海行きたいねって」

「言ってたね。行く? 晴れてるし」

「空模様は関係ないと思うけどな。でも良いよ。行きたいって言ったの私だから」

 グランドピアノに埃がつかないように布をかけて、重い蓋を二人で閉じる。メロンパンは無事渚から返却され、私の鞄に入れた。鞄を肩に背負って扉を開けた。

「海への行き方は?」

「ずっと前に調べてある。君を誘ったあの日にね」

 これから悪い事をするんだぞとでも言いたげな顔で笑みを作った。連られて私の顔にも笑顔が浮かぶ。光に照らされて宝石のような埃が、ケサランパサランのようだった。

 幸運な事に昼の電車は乗客がかなり少なく、隣同士で座ることが出来た。ゆらり揺れる電車の景色がハヤブサのように飛び去っていく。人がまばらな駅を通り過ぎていって、誰も追いつけない速度で駆け抜ける。

「ねぇ、夜空」

「ん?」

 覗き込むように体を屈め、目を細めて一言渚は呟いた。

「何だかデートみたいだね」

 隣で柔らかに微笑んだ渚に見惚れた。長い髪が滑り落ちて、渚の膝にかかる。制服の白いシャツが、昼の眩しい太陽の光を背中に受けて光り輝いていた。

 渚が言葉を繋ごうと口を開いた。言葉は小さすぎて電車の音にかき消される。

「え、ごめん。何?」

「何でもないよ」

 満足した様子で渚は座椅子に深く腰掛け直した。とても大事な事を聞き逃してしまった予感がしていた。渚だけが満足したようで不満でもあった。

 電車が何度か止まり、知らない名前の駅々を旅人の如く通り過ぎていった。少ない乗客も次第に降りていき、乗車しているのは私と渚の二人きりになった。

「夜空、金平糖食べない?」

「食べる。ありがとう」

 赤、白、黄色。様々な色の金平糖が手の平で転げる。甘ったるい味が口いっぱいに広がる。舌で転がしてみると、歯に当たってコロコロと可愛らしい音を立てた。

「前から考えてたんだけど、金平糖って星に似てると思わない?」

 渚も金平糖を食べながら問いかける。私は確かに、と相槌を返した。

「色が沢山ある所も、食べたら甘い所も」

「星は食べれないでしょ?」

「食べたら甘そうじゃない?」

「一理ある」

 頷いてみせると、渚はそうでしょと自慢気にしていた。次が終点だと車内放送が知らせた。

「海、もう窓から見えてる」

「駅について数分歩いたら、浜辺に着くと思うよ」

 電車に揺られて一時間弱。渚の予想を通り、数分後に私達は浜辺に足を踏み入れていた。いくら7月といえど人気はまだなく、見渡す限り一面の砂浜が広がっているのみだった。

 波の音が規則的に鳴る。時々深呼吸をするように大きな波が打ち寄せ、砂浜に自らの足跡を残した。横を見ると渚は既にローファーと靴下を脱いで裸足になっていた。

「海に入ろ」

 言い終わると同時に渚は海へとかけていく。急いでローファーと靴下を脱いで渚の元へ走る。砂の感触が伝わってきてくすぐったい感覚がした。波打ち際まで到着すると、濡れた砂の感触が足の裏を通して伝わってくる。冷たいような気持ち悪いような不思議な感覚。まだ冷たい水温に足をつける。波の動きに合わせて砂が移動するのを感じた。

「思ってたよりも冷たかったね」

「7月上旬だからね」

 適当にその場を歩き回った。時々打ち寄せる波が足首を濡らした。照りつける太陽が砂浜を宝石の庭へと変えていく。

 タオル持ってくればよかったな。足濡れちゃったから、靴下履けないかも。

「夜空、二手に分かれて、綺麗な物探ししよ」

 歩く事以外にもしたくなったのか、渚が提案してきた。

「いいよ。渚どっち探す?」

「右側。君は左ね」

「はーい」

 目印として枝を突き刺した後、私達は二手に分かれて綺麗な物を探し始めた。

 足で砂を蹴飛ばしながら、埋まっている物を発掘しようと試みる。欠けた貝殻や海藻なんかは案外見つけやすく、そこかしこに散らばっていた。縁の揃った貝殻も見つかるには見つかるのだが、海がそれを拾う事を許さないのか、波に乗せて奪い去ってしまう。

 適当に選んだものではきっと渚は満足しないだろうから、なにか珍しいものを探さなければ。

 数週間渚と過ごして分かった事は、案外我儘だと言うことだった。最初の方こそ大人しくしていたものの、すぐに渚の性格は私の知る所となった。表には出さないが、提案を断られるとほんの一瞬ムスっとした表情が顔を出す。その後、明らかにぶっきらぼうな態度になる。静かだけど、芯が強い。渚を表すのにこれ程ぴったりな言葉は無い。

 渚の性格は恐らく甘やかされて育ったものだろう。幸せな家族に褒めて伸ばされてきた証拠だ。だけどなぜか羨ましくなかった。私の今が充実しているから、私の家族を受け入れる余裕ができたのだろうか。

 歩いていると随分遠くの方まで来てしまったようで、反対側にいる渚の姿を見つける事は出来なかった。遠くまで行き過ぎると合流できなくなるため、戻ろうとつま先を逆に向ける。戻りながら連絡しようとしてスマホを取り出して、すぐにまたポケットの中に戻した。渚の連絡先を私は知らなかった。

 歩いていると足元に何かが触れた。視線を落として見てみると、紅葉色の硝子の破片、俗に言うシーグラスだった。夏の暑い太陽の光を受けてキラキラと輝いているそれは、渚の言う綺麗な物に当てはまりそうな気がした。

 シーグラスを屈んで拾うと、スカートの裾が海の波に飲み込まれてすっかり水浸しになってしまった。歩く度に冷たい裾が膝に当たり、火照った体を冷やしていく。裾から海が流れ出て、下腿に川を作る。

「あ、渚」

 遠くに渚の姿を見つけ合図すれば、向こうもそれに気づいて手を振った。

「目印無くなっちゃってて」

「そっか。波に攫われたのかな」

 無事に合流した後、砂浜に座って見つけた物を披露しあった。朝からずっと温められていた砂浜は、暖かいと言うよりもはや砂漠のようだった。

「夜空は何を見つけたの?」

「オレンジ色のシーグラス」

 手の平に包んでいた物を見せれば、渚は表情を一層明るくさせて綺麗と喜んだ。

「オレンジ色って見たことない! 凄いね夜空」

 太陽よりも眩しい笑顔で渚は笑った。ひとしきりシーグラスについて褒め、渚の見つけてきた物を見せてくれた。

「これ。綺麗でしょ?」

 大切そうにハンカチに包まれたそれは鈍く光っていた。

「何これ。私見たこと無い」

 脆い星銀色をしている細長い何かは、手に丁度収まる大きさで、枝よりも細かった。

「海月の骨だよ」

「海月の骨」

 世の中にそんな物が存在したのかと喫驚した。そんな私を他所に、渚は海月の骨を私の手の中に置いた。

「夜空に海月の骨、あげる」

「こんな珍しそうな物貰えないよ」

「いいよ。気にしないで」

 寂しさが入り混じった声で呟かれては、私も断るに断れなかった。代わりにと渚の空いたハンカチの中に先程見つけたばかりのシーグラスを差し出す。

「じゃあ、交換」

「君は優しいね。ありがとう」

 今までに見た事が無いくらい優しい笑顔だった。

「夜空、雲と海月って何だか似てない?」

「そうかな」

 渚が空に点々と浮かぶ雲を見て、思いついたようにポツリと言葉を落とした。

「雲は空に漂っている。海月も海に漂っている。どっちも意思がないまま青い世界に浮かんでいる」

「詩的だね」

「ありがとう」

 私も渚の見ている方へと視線を移した。面白い程に真っ青な空に、白くて柔らかそうな雲が浮かんでいる。ゆっくりと地平線へと向かって移動をしていた。

「渚、そろそろ帰る? まだ太陽沈んでないけど、もう四時過ぎちゃってる」

「二人でこのまま海にいようよ」

「どうして?」

 私が訊ねると渚は地平線の方を眺めたきり何も答えなくなった。遠くを見つめる目は何を捉えて、何を考えているのかわからなかった。

「言いたくない理由があるなら、別に良いよ。一緒にいる」

 渚は何も答えなかった。ただ私の空いた手をそっと握った。

 水天一碧の景色を眺めながら、隣から伝わってくる温かさに身を委ねていた。心地良い潮風が肩の間を通り過ぎていって、海の匂いを運んでくる。波の規則的であり不規則でもある音に眠気を誘われる。

 沈まない太陽を眺める。四時になっても昼間のような明るさを保っている空。段々と、しかし着実に瞼が落ちていく。渚はもう砂浜に横たわって小さな寝息を立て始めていた。

 こんなところで寝たら熱中症になるかもしれないという心配を頭の片隅に追いやって、私も砂浜に横になる。制服が砂に汚れるのも、髪の間に砂粒が入るのも何も気にならなかった。未だ眩しい太陽に見守られて、二人揃って眠っていった。

 瞳が再び景色を捉えた時、辺りはすっかり夜が支配する世界だった。渚はずっと前に目覚めていたのか、様々な色が散らされた星空を眺めていた。月が思わず落っこちてしまいそうな深い夜だ。

「おはよう。良く寝たね」

 渚は私が体を持ち上げた時に私が起きたと気づいたようだった。こちらをちらりと見て、星空よりも眩しい笑顔で笑った。

「おはよう。手、繋いでたんだ」

「私が起きて離そうとしたら、夜空が寝ぼけてお願いするから」

「酷いな。私は渚が寝ても離さなかったのに」

 渚は私の抗議を躱して笑った。

「あ、夜空、髪の毛にいっぱい砂付いてる」

 眠る前よりも優しく繋がれた手はいとも簡単に離され、私の頭に山程付いていた砂を払い落とした。

「今夜は星が綺麗だね」

 星空に目を落としながら渚は言う。

「綺麗だね」

 その言葉に同意すると、少しだけ渚は口角を上げた。

 夜空に目線を移してみれば、輝く星が広がっていた。人工物がほとんど無いお陰で、星が邪魔をされずに地上に光を落としていた。星々が瞬いて、私達に合図する。

 ふと、今ここで死んでも良いと思った。渚という大切な友達を表現するために、死という安っぽい表現を用いてでも表していたかった。

「こんなに綺麗な星空を見ていると、歌い出したくなってしまうね」

 渚は静かに歌い始めた。海の穏やかなさざ波の音に混じって泣きたくなる程優しい旋律が流れ出す。柔らかな歌声に耳を傾けて、夜と海に捧げられた物語を想像した。

「それ、何て言う曲?」

 曲に一段落がつき名前を聞いてみれば、自作の曲だから題名はないと、どこか気まずさと恥ずかしさを隠す笑顔を見せた。

「素敵な旋律だね」

「ありがとう」

 でも、と渚は続けた。

「どうせ誰にも聞いてもらえないような曲だったから、君に聞いてもらえただけで十分」

「どうして?」

「内緒」

 諦めきった顔で渚は呟いた。海風が二人の間を素早く通り過ぎた。遠くの方で木々が強風に煽られて轟々と嫌な音を響かせた。髪の毛が風に誘惑されて踊り狂う。渚が今どんな表情をしているのか見る事が叶わなかった。

「夜空って、どうして『よそら』なの?」

 吹き荒れる風の中で渚が問いかけた。最初何を聞きたいのか分からなかったが、私の名前の音についてだと理解するのにそう時間はかからなかった。大体初対面か仲良くなった時点で皆聞いてくる事だ。

「親が出生届出す時に、振り仮名間違えたんだって。だから『よぞら』じゃなくて『よそら』」

「何か複雑な事情だね。無神経だった」

「大丈夫。結構聞いてくる人多いし」

 ごめんねと謝る渚に、私は大丈夫だからと再度返事をした。

 風が止んで、辺りは静寂に包まれた。相変わらず夜の星々は私達二人を遠くの空の上から見守ってくれていた。

「あのさ、夜空」

「ん?」

 渚が改まった様子で私の名を呼んだ。私は荒れた髪を直しながら渚の方に向く。

「私、親が厳しくてね。進路とか結構言われるんだけど、夜空はどう?」

 渚が期待したような目で私を見た。一緒だよと言ってほしいんだろうか。それとも、私は違うよって否定してほしいんだろうか。

「私は全然かな。興味ないみたい」

「そうなんだ。それも大変だよね」

 黙って暗い海に目を向けた。しばらくの間、黙り込んだままだった。

「渚、もしかして、渚のお家って門限とか厳しかったりする?」

「んー、まあね。でもいいの。とっくに破っちゃってるし」

 だからもう大丈夫と重ねて渚は言った。

「そっか」

「お互いに大変だね」

 渚の言葉の音に、ほんの少しの羨ましさが混じっていた。暗闇に染まった海は、ザザーンと心を落ち着かせる優しい歌を歌った。星が海に反射してキラキラと輝く水面を見ていた。

 隣で小さな笑い声が聞こえた。渚が吹き出したようにケラケラと笑っている。何も面白いことなんてなかったはずなのに、そんな渚を見て私も笑いがこみ上げてくる。

 私達は小さな声で笑った。周辺に住む人の迷惑にならないような柔らかな笑い声。この世のどの笑い声よりも幸せな笑い声だった。笑い声を止めたのはどちらの物か分からない、胃の空腹を知らせる音が鳴り響いた時だった。

「ね、お腹空いてない?」

「すっごく空いてる。どこか食べに行こう」

 渚は二つ返事で了承した。制服に付いた砂を払って、靴と靴下を脱いだ場所へと歩いて戻る。置きっ放しにしていたがそれ程砂にまみれていなかった。足の裏に付いた砂を落として靴下と靴を履き、近くにあるファミリーレストランを調べて、足を運んだ。落としきれなかった砂が足の裏で主張していたが、気にならなかった。

 ファミリーレストランに入店した後、席に案内され向かい合って座った。時刻は午後九時を指しており、店内は人がまばらだった。頼んだハンバーグとピザが運ばれ、生暖かい食事を口に運ぶ。会話をする気にはならず、黙り込んだ食卓だった。デザートとして私はモンブランを食べ、渚は焼き林檎を食べた。会計を済ませ、何も言わずに並んで駅の方へと向かった。暗い夜道には二人分の足音と呼吸音しか存在していなかった。

 帰りの電車が逆方向にある私達は、駅のホームで別々になった。渚と向かい合わせにホームに並ぶ。私の電車の方が早く来た。電車に乗り込んで席に座る。学校の最寄りの駅の名前が車内放送で告げられ、降りて乗り換える。最寄りまで乗って、一人きりの夜道を歩いた。あんなに輝いていた星々の光も今は濁った色になっていた。

 家に入ると親はもう寝てしまっていた。起こさないように足音を殺して鞄を下ろす。ダイニングテーブルの上に冷めきった晩ご飯が置かれていた。晩ご飯は冷たくて暗い冷蔵庫に入れた。お風呂に入って眠る頃には、時刻は午前二時を示していた。


 次の日、廃れたグランドピアノに似つかない可愛らしいメモが置かれていた。ごめんねと達筆な字で書かれたメモは、一目で渚の書いたものだと理解した。

 昨日何か悪い事言っちゃったかな。

 音楽室中を歩き回って考えてみるも、心当たりがこれっぽっちも見つからなかった。戸惑いと焦りだけが大きくなり、判断を鈍らせる。待てども待ち人は来ず。一時間程退屈を紛らわせていたがとうとう我慢の限界が訪れ、心苦しくも帰る事にした。

 校舎を出て駅までの道程は酷く長いように感じられた。夕方の空は荒んだ曇った色をして、雲は一つもなく、憎らしい程晴天だった。太陽の赤が私に刺さる。

 この日を境に、渚は音楽室に現れなくなった。渚のクラスは知らなかったが、探せば会う事は容易に違いない。ただ、私の中にある渚に悪い事を言ってしまったかもしれないという自身に対しての疑惑が、その行為をする事を止めていた。

 私は臆病で、渚に会って話せば済む事をやらなかった。代わりに、渚と初めて会ったときに渚が弾いていた曲の練習を音楽室でするようになった。確証は何も無かったけれど、弾いていれば渚に会える気がしていた。けれど、それは渚と話し合う事を拒否した小心者の行動だと自分が一番分かりきっていた。

 ピアノを初めて触る初心者には到底弾けそうにもない難しい曲を放課後、暗くなるまで練習をする。帰り道の星空は、夜の闇に飲み込まれそうだった。

 渚が音楽室から姿を消して十一日が経過していた。窓から鉛のような雲が空に落ちているのが見えた。毎日数時間弾いていた夢想は、やっとその曲に聞こえるか否かの完成度で、お世辞にも綺麗とは言えなかった。

 指の節々が痛かった。常に楽譜を見ているせいで目が霞んでくる。何度も弾いていて、頭の中の正しいメロディが掠れていった。こんな完成度じゃ駄目だと焦燥感で渚の音から遠ざかる。焦りに身を焼かれながら、私は鍵盤を叩いた。渚に届く音を弾くためにも、もっと、もっと練習しなければ。

 一時間ほど弾いた後、少し休憩しようと鍵盤から目を離した時だった。扉の方に人の気配を感じる。期待してはいけないと釘を差してから目を向けた。

「君の音があまりにも綺麗だったから」

 私と目があった途端、渚は口を開いた。私はきっと、目が落っこちてしまいそうなくらい見開いていたに違いない。渚は少し笑って、ずっと会えなくてごめんと謝罪した。

「もう一度聞かせてくれる?」

 幼子が親に綿菓子をねだるような甘い声で言った。

「あんなのでいいの?」

「夜空の曲がいいんだよ」

 きっぱりと断言した渚の目に、迷いなど一切感じ取れなかった。遠慮など微塵も感じ取れないくらい純粋な言葉。

「もう少し近くで聞かない?」

 渚は頷いて、私が何気なくピアノの傍に置いていたパイプ椅子に腰掛けた。ゆっくりと私は自分の手元に視線を落とす。深く息を吸って、たどたどしく最初の音を鳴らす。低いシの音から始まる曲が教室に溢れ出した。

 一つの曲が終わった。静けさが辺りを支配しだす。渚は目を閉じて、私の音の名残を味わっているようだった。

「どうだった? お気に召した?」

 長い間黙り込んでいるので、不安が募って思わず聞いてしまった。渚は閉じられていた目を開け、私の目を真っ直ぐに見つめた。

「ありがとう。やっぱり、どうしようもなく君の音が好きだ」

 震える声で紡がれた言葉に、私は渚の手が濡れていることに気づいた。

「我儘をもう一つだけ聞いてくれる?」

「何?」

「久しぶりに、海に行こう」

 渚は立ち上がって手を差し伸べた。私の前には、少なくともその手を受け取るか弾くかの二つの選択肢が存在していたはずだ。そうだったとしても、愛に溺れた私には、一つの選択肢しか存在していなかった。

 電車の中で渚は私の手をずっと握り込んでいた。渚の手から体温が伝わって熱を発する。暖かい手だった。

「前に海月と雲が似ているって、君と話したよね」

 電車の轟々とうるさい音に混じって渚の声が聞こえる。

「うん、話した」

「どっちも青く澄み渡った世界に浮かんでいるからって」

「そうだね」

「海月が空を流れて、雲が海に揺られる世界も、そう悪くないのかもしれないね」

 渚はおもむろに呟くと、それきり黙り込んでしまった。どういう事と尋ねても、きっと今の渚は何も言わないに違いない。電車の刻む定期的な音だけが辺りを埋め尽くしていった。

 瞼が閉じかけていた頃、ようやく目的地の駅に到着した。夕日に照らされて真っ赤に染まりきった海が私達を出迎えた。渚と手を繋いで浜辺へと向かう。相変わらず人気はなく、しんと静まり返った空気が辺りを支配していた。駅が見えなくなるまで歩いて、渚は適当な所で立ち止まった。砂の上に腰を下ろす。私も隣に座った。

「七夕の日、親にこっ酷く叱られたの」

 言葉が渚の口から落ちていった。落ちた言葉は言うはずもなかった言葉まで連れてきてしまったようで、渚は息継ぎの時でさえ惜しむように話した。

「門限を破ったことも、連絡もなしに他所で食べてきたことも、全部。あの時、夜空を引き止めていた時から叱られることは分かっていた」

 小雨が降るみたいに流れ落ちていく言葉は悲哀を帯びていた。

「そのうち、進路の話になったの。私は夜空が言ってくれた通り、本当はピアニストになりたい。だけどね、親は理解してくれなくて。音楽じゃなくて教育に進むようにってうるさいんだよ。親の気持ちも分かってあげたいんだけど、やっぱり無理なの」

 言葉の本流が一度止まってしまえば、音は枯れて沈黙のみが存在する。海の不規則な音が私達の耳に馴染んで、穏やかに諭していた。

「渚は、親の事が嫌い?」

 考えに考えて絞り出した言葉は震えていた。この言葉をかけるのが正解じゃないと分かっていても、これ以外の答えが出てこなかった。

 私の目をじっと見て、視線を逸らした。波の囁きがしたとき、ポツリと声を出した。

「嫌い、じゃなかったはずなんだけどね」

「はず?」

 渚はいくどか目を泳がせた後、覚悟を決めたようにして再び話し始めた。

「私、自作の曲を作ってたでしょ?」

「うん」

「あれ、楽譜も書いてたんだけど捨てられちゃったんだ」

 捨てられた。言葉が頭に反響してしばらく理解が出来なかった。親が勝手に渚の書いた物を捨てた、それは一線を超えてしまっていると感じた。

「わざとじゃなくて、書類と混じってたから間違っちゃったらしいんだけど」

 ぽつりぽつりと言葉を落とす渚が何もかも手放してしまうように見えた。私には渚を救う正しい言葉を持つはずも無く、ただ渚の手を固く握ることしか出来なかった。

 でもいいの、と渚は言葉を繋ぐ。

「君が見つけ出してくれたから」

 握っていた私の手を力強く握り返した渚の言葉は私の心に深く根を張った。

「この間の海月の骨、まだ持ってる?」

「渚から貰ったものだから、ずっと持ってるよ」

 丁寧にハンカチで包んでいた星銀色をした骨を取り出す。骨は月の光に照らされて、輝きを一層増していた。渚はそれを見ると、満足そうに目を細めた。

「海月の骨は脆いから、大切にしなよ。大事なものなんだから。気づいたら、泡沫の夢のように消え去ってしまうよ」

 私は頷く代わりに微笑んだ。ハンカチにもう一度包んで、ポケットの中に入れる。冷たい温度の骨は、私の火照った体を冷ました。

 遠くの地平線を眺めている渚が、不意にどこか私の手の届かない所へ行ってしまうような気がした。空気に溶けて崩れ落ちてしまうような、恐ろしい想像。

「ねえ、渚」

「何?」

「私ね、渚の音が本当に好きで好きで仕方がない。私の世界を色付けてくれたのは、渚の音以外にないんだよ」

 消えてしまわないように引き留めようと紡いだ言葉は、渚を現実に上手く止められたようだ。渚は驚いた表情を見せたあと、ふわふわと飛んでいきそうな幼い子供の声で笑った。

「すっごい詩的。告白みたい」

「茶化さないでよ」

 短いとも長いとも感じられる時間笑い、渚は一言、嬉しいと言った。

 気づくと辺りはもうすっかり暗くなっていて、夜の気配がそこかしこに息を潜めていた。

「門限、大丈夫?」

「もうどうでもいいよ、そんな物。それより海に入らない?」

 繋いでいた手を引っ張られて立ち上がり、そのまま心地の良い音を奏でている波に誘われ、私と渚は深い暗闇をたたえる海へと歩みを進めた。一番星は夜の闇を飲み込む程強い輝きを放っていた。

 足首に水が浸った時、海は初夏にも関わらず冷たかった。波が私達を浜へ戻そうと足を押し返す。無視して海の中へ入ろうと足を運ぶ。海の寒さとは反対に、繋がれた手が暖かい。深い嘆きをたたえた海に導かれるように入れば、酷く恐ろしい感情が溶け出ていくようだった。

「今夜は月が綺麗だね」

 星しか見当たらない夜空を見上げて、冗談めかして言ってみる。渚は私の方へ振り返って、悪戯っ子みたいに微笑んだ。

「月はずっと綺麗だったよ。これからも」

 波に揺られ星に見守られながら二人で笑う。明けてほしくない幸せな夜だった。

「ねえ、自作の曲の名前さ」

 渚がこちらを振り返って、美しい星空を背にして口を開いた。

「今、題名決めた。夢月夜」

「夢月夜?」

「そう。明けない幸せな夜」

「良いじゃん。今夜にぴったりだ」

 渚は私の手を引いてちっとも怖気付かずに前へと進む。手を繋いだ私もそれに続く。お腹の辺りまで波が来て、これ以上行っては駄目だと直感が伝え、渚の手を引く。

「そんなに深くまで行ったら危険だよ」

「そう怖くはないよ。君が怖いのなら、この手を離しさえすればいい」

 固く握っていた手が解けそうになるのを感じる。温かさが手を離れようとして、間に冷たい海が割り込んでくる。私がこのまま浜へと戻れば、無事に家に帰り着くことは容易な事だろう。けれど、繋ぐ手から渚の不安を私は受け取ってしまっていた。

「離さない。どこまでだって付いて行く」

 安心したような表情で渚は手を固く握り直して再び歩み始めた。

 顔の高さまで迫った黒々とした波が、揺れ動く。渚の手を頼りに、海底へと歩いていく。遠い昔、誰かが海の底にも都はあると言った。この波の下に都があるとするならば、どんな所なんだろう。都というぐらいだから、華やかで見たことがない彩りで飾られているはずだ。私と渚がそこに辿り着く事が出来たのなら、二人で過ごすのも案外悪くないかもしれない。

 波は頭の上を通り過ぎていく。穏やかな海の音が私達を包み込んだ。渚のお陰で何度も聞いたドビュッシーの旋律が心を満たした。ゆっくりと、幕が下りていく。


 隣の暖かさはとうの昔に消え去っていた。暖かさなんて初めから存在していなかったのではないかと錯覚してしまう程に冷たい。深海の冷たさが目の前に突き付けられているようだった。繋いでいた手は鎖となり絡み合って解けない。大罪をしでかした事は明白だった。

 早朝の真っ青な空が目に映る。昨日の夜空など嘘に感じられる程澄んだ美しい空が流れていた。白い雲がいくつも並んで、空に浮かんでいる。到底海月のようには見えなかった。七月の静かな波の音が昨日と何も変わっていないことを伝えてくる。可惜夜の先に訪れた朝は、呆気なく日常を描き続けていた。恐ろしい程それが憎らしい。夜空の影は一つもなく、眩しい太陽の光が辺りを照らしていた。

 私は恐ろしい呪いにかけられた。あの時の言葉は今も耳に反響して、ピアニストにならないなんて口が避けても言えなかった。もし言葉通り砂浜に戻ったら、朝がくることはなかったのかもしれない。ずっと夜のままで過ごせたかもしれないのに。

 遠くから誰かの呼ぶ声が聞こえた。耳をつんざく救急車の音が近づいてくる。誰かが呼んだらしい。

「おい、そこの二人! 大丈夫か!?」

 海辺の散歩をしていた老年の男性が声をかけてくれたようだ。返事をする気力さえ残っていない。救急車を呼んだのもこの人なんだろうか。

 目を開けているのも辛くなって、瞼を閉じ、暗闇の中に身を横たえる。私は光の中よりも闇の中の方が生きやすいらしかった。

 夜の名残が囁いて、消えかかった星々が問いを投げかける。私は、その問いかけに明確な答えを持つことは許されていなかった。

 星が明けた先に何があるのか。まだ誰も知らない。

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