第8話 腕枕というよりも
夜の七時になった。
塔と塔を繋ぐ天空の回廊には、月の光が降り注いでいる。
銀の星を一瞥してから、ナザリアは火焔の塔の最上階に向かった。最上階同士が回廊で繋がれている形だ。
火焔の塔に入ると、馴染みの侍女が、ナザリアをルイゼ卿の私室まで案内した。応接間ではないから、内々のプライベートな話なのだろうかと、漠然とナザリアは考える。侍女がノックをすると「入って」という声が返った。ナザリアは自分でドアノブに触れ、入室して扉を閉めた。
「よくきてくれたね、ナザリア卿」
「一体どうかしたの? ルイゼ卿」
「うーん、ちょっとね。私のナザリアに悪い虫がついたらどうしようかなとかって思っちゃって」
クスクスと笑ったルイゼ卿は、座っていたベッドから立ち上がると、ナザリアへと歩みよった。そして勝手にソファに座ろうとしていたナザリアの背後に回ると、後ろから抱きしめる。首の後ろから胸へと回ったルイゼの両腕を見て、ナザリアは無表情になった。
「意味が分からないんだけど、ルイゼ?」
二人きりの時は、『卿』とつけずに呼び捨てにすることが多い。と、いうのも、気さくなルイゼがそれを望むからだ。
「えー? だってさぁ。あの新しい子。レイナちゃん。随分とナザリアに熱を上げているみたいだったから」
「熱というか、敬愛していると言われたよ」
「敬愛ねぇ。ナザリアは、鈍いから」
そう言うと、ぎゅっとルイゼが両腕に力を込める。そしてより強くナザリアを抱きしめた。
「あーっ、ナザリアって本当に良い匂い」
「入浴剤、今度プレゼントしようか?」
「ナザリアと同じ香りに包まれるというのは、ちょっと心惹かれるものがあるわね」
ふふっとルイゼが笑う。そしてナザリアの着物から露出していた肩口の少し上をぺろりと舐める。
「ねぇ? 痕残しても良い?」
「ダメに決まっているでしょう。前にルイゼがそうやって私で遊んだら、白緑の塔が大騒ぎになって、サリーヌなんか激怒したんだから」
「サリーヌちゃんはお堅いからね。ううん。あの子も、ナザリアに熱を上げてるだけだろうけどさぁ」
そう言うとチュッとナザリアの肌にキスをしてから、ルイゼは体を離した。
そしてナザリアを腕から解放すると、パチンと指を鳴らす。
するとテーブルの上には、酒のつまみが並んだ。
「シャンパン、用意してあるんだよ。ナザリアが好きな味」
「そう。あ、そこのアンチョビをクラッカーにのせたやつ。本当に美味しいよね、これが好きで私はルイゼの急な呼び出しに応えるってよく分かってるよね」
「餌付けは重要ですから」
喉で笑ってから、ルイゼが席に着く。ナザリアは、その隣に腰掛ける。
ルイゼは、ナザリアとは異なり、恋愛……ではなく、どちらかといえば、一夜限りの関係に熱心だ。火焔の塔の上階の多くの女性と、既に寝台を同じくしているというのは、どこの庭でも噂になっているし、事実である。ナザリアも何度か、この私室に来たら、ルイゼが約束を忘れていて年若い魔女を脱がせているところに遭遇したことがある。
「あーあ。ナザリアと寝たいなぁ」
「はいはい」
適当に流して、ナザリアはクラッカーを手に取る。
そもそも抱きついたり肌を舐めることすら、本来はできない。五賢人同士でもできない。許されるのは恋人同士くらいだ。だが、ルイゼが誰にでもこういう態度であることと、ナザリアも二人きりで害がないため、別にその範囲までなら咎めないため、ルイゼとナザリアがそろうと、簡単なボディタッチは日常茶飯事だと言えた。
「それで? 本題は?」
「ああ、うん。例の学校の件、どう思ったのかなって」
ルイゼが、ナザリアの問いに答える。シャンパンを飲み込みながら聞いていたナザリアは、それからグラスを置いた。
「どう? 別に、どうとも」
「エリザベータから、否決するべきだという根回しがあってさぁ。ナザリアの耳にも入れておこうと思って。ああ、私って優しい」
「ふぅん。エリザベータ卿がねぇ。まだ議題にも上がっていないのに、行動が早いのね」
ナザリアはそう言いつつも、五人しかいない多数決の場で、たった一人に根回ししたところで、うまく話がまとまるとは限らないのに、いつもエリザベータ卿は熱心に動くなと感心していた。
「それでルイゼはどうするの?」
「私はぁ、そうねぇ。ナザリア次第かな」
「私?」
「そ。ナザリアがレイナ卿を推すなら、嫉妬してエリザベータにつくかもね」
「学校の設立が、イコールレイナさんを推すことにはならないと思うけどなぁ」
「随分と親しい呼び方をするんだねっ。まぁいいわ。私も実際の所、学校には興味がないのだもの」
そう言って笑うと、ルイゼはゆっくりとシャンパンを飲み込む。
「今日は泊まっていける?」
「そうね。特に明日は予定がないけれどね」
「やった。ナザリアを腕枕して眠ると、起きた時に幸せなんだよね」
ルイゼは、誰にでもこういうことを言っていると、ナザリアは知っている。実際それはその通りである。
「ルイゼは、本命はいないの?」
「――私はほら、みんなのものだからねっ」
少しだけ間を置いて、ルイゼが微笑した。その瞳には、ナザリアが映り込んでいる。
ナザリアは直接好意をぶつけられたら、ルイゼから距離を取る――と、ルイゼ本人は考えているようでもあるし、叶わぬ恋を抱えて独り寝の夜を過ごすよりも、人肌を感じて眠る一夜の安らぎの方が快いというのもあり、ルイゼは特になにも言わない。ルイゼは、現状では少なくとも、ナザリアとは今の距離感、今の関係性がいいと思っていた。
しかしレイナが現れたので、関係性が変わってしまう事態――たとえば、レイナとナザリアが親密な関係になる可能性に怯え、ルイゼは今夜、ナザリアを呼び出した。一番明るく、軽く見えて、その実臆病なのがルイゼなのだろう。
だが、そんなことは、ナザリアは知らない。
その後夜更けまで酒とつまみを楽しんでから、二人は同じ寝台に入った。そしてルイゼがナザリアに隣から抱きついた。腕枕と言うよりは、抱きつくというのが正確だ。二人は同じくらいの背丈である。そしてナザリアは寝入り、ルイゼはそんなナザリアの寝顔を見ていた。
朝――目を開けたナザリアは、目の前にあるルイゼの顔を見る。目を開いている。
「……ルイゼ、寝たの?」
「どうかな」
「ふぅん。じゃあ、私は帰るね」
ルイゼに髪を撫でられながらそう告げたナザリアは、すぐにルイゼの腕を抜け出して、寝台から下りる。共にベッドから下りたルイゼは、微苦笑した。
「またね、ナザリア卿」
「ええ。お招き有り難うございました、ルイゼ卿」
こうして親密な時間は終わり、それぞれが五賢人の顔へと戻ったのだった。
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