第2話 忘れた出会い
「レイナ! 貴女という娘は!」
バシン、っと。平手で頬を打つ音が、回廊に響き渡った。
たまたま通りかかったナザリアは、何気なく視線を向けた。
すると金色の髪をした少女が床に這いつくばっており、両手で右頬を押さえている。緩やかにウェーブがかかる髪は乱れ、アイスブルートパーズのような色の瞳には涙が浮かんでいる。外見年齢は、十四歳くらいだ。この塔にあっても、二次性徴までは一般的なものと基本的には同じなので、実際にそのくらいの年齢なのだろう。レイナと呼ばれたその少女は、ボロボロの破れたエプロンドレス姿をしている。痛みと恐怖に耐えるように、震えながら顔を上げている。
「本当に嫌な娘!」
殴っているのは、六十代前後の外見をしている、ラクタ卿という女性魔術師だった。この塔には、塔を統べる五人の魔女がいるのだが、その内の一人である。不老長寿魔術を用いても、元の魔力量や体質によっては、ゆるやかに老化するので、彼女の見た目は老いつつある。灰色の髪を後ろでひとまとめにしているラクタ卿は、五賢人評議会と呼ばれる五人の魔女の月に一度の集まりの際には、非常に温厚なことで有名だった。だが、今は目をつり上げて、いたいけな少女を殴っている。
見て見ぬふりは簡単だ。
ただナザリアは、その時気まぐれに、ラクタ卿の背後に回り、再び振り上げられた手首を、後ろから掴んだ。
「なっ」
すると驚愕したようにラクタ卿が目を見開き、振り返った。
「ナ、ナザリア卿……」
「どうなさったのですか?」
「ち、違うのです、これは……その……――私の庭での出来事です。口を出さないで下さいませ」
にこりと、取り繕ったようにラクタ卿は笑った。
“庭”というのは、塔の中にある、五賢人と呼ばれる五人の魔女、それぞれの所有地だ。全ての女性は、五つの庭のいずれかに属し、学んだり働いたりしながら生活を送っている。
「口は出しませんが、暴力ははしたないのではありませんか?」
淡々とナザリアは言った。彼女の青い瞳が、じっとラクタ卿に向けられる。黒い髪を揺らしたナザリアは、それからゆっくりと手を離した。するとラクタ卿が足早にその場を去った。
「大丈夫?」
ナザリアは屈んで、レイナに手を伸ばした。
そして肩に触れてから、微苦笑してみせる。
ナザリアは、和族の民族衣装や模様を好んでいて、今日は打ち掛けを羽織っていた。それを脱いで、ナザリアはレイナの肩にかける。
レイナが驚いたように目を丸くしているので、視線を合わせてやわらかく笑ったナザリアは、それから回復魔術を用いた。ぽぉっと淡い光が、レイナの頬を癒やしていく。
「うん、腫れもひいたね。レイナさん、でいいのかな?」
「は、はい……あなたは?」
「ナザリアよ」
「ナザリア様。っ、で、でも、ラクタ卿に逆らったりしたら、後がどうなるか……」
「どうなるの?」
「え?」
「レイナさんは、どうなると思うの?」
「……死にはしませんけど、大怪我をすることだって……」
「そうなんだ」
ナザリアは、温厚な女性の意外な一面を知ってしまったなと考える。しかし特に問題は無い。ナザリアもまた、五賢人と呼ばれる魔女の一人だからだ。十代後半の外見年齢のまま成長を止めているが、ナザリアは最古参の魔女の一人でもある。ラクタ卿よりもずっと年上で、同じ五賢人でも権力も実力も、ナザリアの方がある。
「レイナさん。貴女は、攻撃魔術は使える?」
「は、はい。習っています」
「だったら、次に殴られそうになったら、効かなくてもいいから、使うといいよ」
「え? そ、そんなことをしたら……」
「『ナザリアが使えと言った』と言えばいいわ。責任は、私が取るから」
そう言って、ポンとレイナの肩を叩いてから、ナザリアは立ち上がり、ゆっくりと回廊を歩きはじめた。打ち掛けはもう無いから、和柄ドレスの帯が目立つ。ヒールの音を響かせながら、ナザリアは自分の庭へと戻った。
そして夜、花びらを浮かべた浴槽に浸かり、両手両脚を伸ばす頃には、すっかりレイナのことなど忘れてしまった。
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