第2話

 楓はわざと最寄り駅とは違う駅に向かう。そうすることで同じ時間帯に大人数の生徒と帰ることを防げるだろうと思ったからだ。それは集団行動に苦手意識を感じている楓にはとても大事なことで、防衛本能と同じだった。

 ICカードをかざして改札を通る。駅名の書かれている板の下には上下線ともの次の駅が書かれている。下り方面に学校からの最寄り駅が書かれていた。

 楓は電光掲示板を見て次発の時間を見る。生徒たちが一番使う時間帯の電車から一本遅いため、同じ学校の人間と会うということはあまり気にしないでも良さそうだと胸をなでおろした。

 席に座りスマホで連絡事項を確認する。すべて読み終わると、スマホを膝の上に投げ、ため息をついた。頭の中で今日一日の事を回想する。入学式のことや和正との会話を思い返して自分の反省点を洗い出す。このときの発言が悪かったとか行動がだめだったとか。

 目を閉じると疲れの残った体からガスが抜けるように一瞬の浮遊感が楓を襲った。

 遠くから警報機の音が聞こえて、遅れて電車の走行音がやってくる。楓は立ち上がってホームに入ってきた電車に乗り込んだ。

 優先座席の対面に座って履いているローファーをだらしなく踵だけ脱ぐ。籠もっていた熱気や湿度が抜けていって靴の中が快適になる。新しい環境になったからか変に緊張してしまっていたようだった。

「次の駅は生明、生明。お出口は右側――」

 音声が鳴り響いて、なんとなく居住まいを正す。人が多く入る時間からは少しずれているといっても、もしかしたら同じ高校の生徒が入ってくるかもしれなかったからだ。少しでも気を張っておいて損はない。

 電車が止まって、扉が開く。数人が出ていって、だれも電車内に入ってこなかった。楓は大きく息を吐いて、また体の力を抜く。電車の床を見つめているとなんとなく視線を感じた。視線をわずかに上げて確認するが、車内には楓以外誰も居ない。楓は疑問を抱き、一度立ち上がってちゃんと確認する。

 こんこん、と楓の右側、電車の連結部分から音が聞こえた。それに導かれるようにして体を向けると、黒曜石のような瞳とかち合った。その瞳からは感情が読めず、死んだ魚に似ていた。

 楓は頭を回転させる。黒曜石の瞳の主である生明高校の制服を着た少女は連結部分の扉を開けて、少女が楓の座っていた席の隣に座る。少女からは氷に似た雰囲気が漂っていて、触れてしまえば触れた人間を一瞬で傷つけてしまいそうだった。それと同時に孤高なものを感じた。孤高で、高貴。少女と周囲の人間は確実に何かが違った。

 サラリと伸びた黒い長髪は太陽の白光に透けて優しく発光している。薄い桜色の唇に、気の強そうな瞳、真っ白な肌。少女は確かに特別なものだった。一瞬で他の人間を圧倒してしまうほどに、なにかがあった。

 楓が少女を呆然と見ていると、少女はすっと隣を指さした。座れ、と促しているらしい。楓は大人しく少女に従う。彼女の顔立ちにはどこか見覚えがあった。

「電車通学だったんですね。江中くん」

 少女はあらかじめ決まっていたような精密そうな声色で楓に話しかけてきた。

「……誰?」

 楓が率直な意見を返す。失礼だとは思ったが、ここで知ったかぶりをする方が逆に失礼に感じたからだ。

 少女はそこでハッとした表情になって失笑を零す。

「私としたことがうっかりしていましたね。たとえ同じクラスでも全員に覚えられているわけではないというのに」

 少女は大げさに反応してから自身の名前を口にする。

「どうもはじめまして。新入生代表、一条京陽です。一条通りの一条、京都の京、太陽の陽で一条京陽です。同じクラスですので以後、お見知りおきを」

 京陽は席の上で腰を折った。それと示し合わせたかのように電車が次の駅に着いて扉が開く。春風が彼女の髪を弄んだ。

「まさか、江中くんとこんな場所で出会うとは思いませんでした。失礼ながら、先ほどの駅のホームには見当たらなかったように思えましたが、私の勘違いでしたでしょうか?」

 京陽は黒瞳に妖しげな光を灯しながら楓に詰めていく。楓には京陽がすべてを知っているような気がして、恐怖を感じて言い淀んでしまう。

「見間違いじゃない? 私はホームに居たけど」

 楓は苦し紛れに言い訳する。どうか紛れてくれと心の中で思いながら。

「そうでしたか。私の勘違いでしたか。それは大変失礼」

 京陽はそう言ってふっと笑う。京陽が首を傾け、にやりと意地汚い笑みを浮かべる。入学初日からなかなか癖のある人間に捕まってしまったようだと、楓は思わずため息をついてしまいそうになる。それを寸でのところで止めて、笑顔を浮かべた。

「うん。勘違い勘違い。一条さんの」

 楓は大きく頷く。このまま、なあなあなにして乗り切るのがここでの最善策なのかもしれない。

 時間が確実に過ぎていき、四回ほど駅に止まった。

 ちらりと京陽が外を見る。それに合わせるように電車が止まった。

「それでは。私はここですので」

 ふっと笑い、彼女は立ち上がる。そのまま黒髪をなびかせながら駅のホームへ降り立つ。太陽に照らされた明るいホームに降り立った少女はどこか浮世絵離れしていた。彼女はくるりと電車側を向いて、きれいに会釈をした。

「それでは。江中くん。これからよろしくお願いします」

 音を立てて、電車の扉が閉まる。京陽の笑顔が車窓にこびりつく。電車が静かに発車して、楓の体を揺らした。まぶたから一条京陽という人間が消え去るまでしばし時間を要した。

 そうして楓の降りる駅は過ぎ去った。


 二駅ほど歩いて家に着く。楓が家に着くころには太陽は少しずつ低下し始めていて、ほのかにオレンジ色に染まりかけていた。

「ただいま」

 家に入って、靴を放り投げる。ぱらぱらと散らばった靴を放置して、楓は階段を上がってカバンを地面に落とした。教科書の入ったカバンは鈍い音を鳴らして地面に着地した。

 そのままの勢いでベッドに倒れ込む。枕の周りにいる何体かのぬいぐるみが生気の無い瞳でこちらをじっと見つめる。楓はその中の一つを手繰り寄せて抱きしめた。

 隣の部屋からがちゃがちゃと音が聞こえて、「帰ってきたー?」と声が聞こえた。

「あんたのアイライナーちょっと借りた」

「亜夏姉、ノック!」

 ノックも無しに入ってきた姉である江中亜夏を睨めつけ、楓はぬいぐるみを手放してベッドから立ち上がる。

「いいじゃん。今更。私たちにはそんな心遣いなんて必要ないでしょ?」

「馬鹿だよ」

「一緒の服を着た仲じゃないか」

「亜夏姉は馬鹿だよ。一回黙ってよ」

「はははは。やだ。私からこの無駄口をとったら何が残るの。何も残らないよ? 分かってる? そのこと」

「だから黙って」

 楓が語気を荒げて言うと、亜夏はまた大きく口を開けて笑った。

「なんでよ。あんたのガス抜きになってあげてるんじゃないのー」

 楓は自身の過去の行いを後悔する。けれど、亜夏の存在が支えになっているのも事実だったから、行い全てを否定できるかどうかと言われると、それに首を縦に振れないことも事実だった。

 楓はトランスジェンダー、というものだった。厳密に言えばMTF。男性が女性になりたいと思う状況。

 楓には物心ついたときから違和感があった。自分が男として扱われているということに、だ。昔から可愛いものが好きだった。かっこいい戦隊よりも、可愛らしい服を着たお姫様のほうが興味があった。幼少の頃はそれくらいの小さな違和感があった。それが確実な物となったのは成長によってホルモン差が生まれる頃だった。楓はその頃から自身の体格や性器に急激な嫌悪感を抱くようになった。おかしい、と思った。他の女の子は胸が膨らんでいて、丸みを帯びたもっと綺麗なものだったから、自身の、平坦で角張った筋肉質な男らしい体つきが気持ち悪かった。男性器が気持ち悪かった。男というものに生理的嫌悪感を感じていた。楓にとって、男というのは未知の対象だった。だから、男の人をかっこいいなんて一度も思ったことがなかった。今まで好きになったのはどれも女の子だったから。男を好きになる感覚が同性だけど分からなかった。

 今までの違和感を口に出したのは姉である亜夏が初めてだった。まだ残暑の残っていた小学五年の九月。楓が学校に行きたくなくて、それに付き合うように一緒に亜夏も中学校を休んだ。亜夏は楓の部屋に来て楓に聞いた。楓はその日のことを未だにはっきり覚えている。


「あんた、なんで休んだの」

 それは疑問形ではなかった。そして責めるものでもなかった。もっと優しいものだった。確認のような、励ましのような、肯定に似たものだった。けれど楓はその言葉に返答できなかった。誰も理解されないだろうと思っていたからだ。その頃にはもう立派に他者と自分の違いが明確になっていたから、無理に話す必要性もないだろうと考えていた。

「言わないのよね」

 亜夏は分かってたことのように言った。生まれてから一緒に過ごしてきたから、亜夏にはわかったのだろう、と勝手に思った。きょうだいにそんな能力は無いことはずっと昔に分かっていたけど。

「あんたさ、なんで私の服欲しがったの?」

「いつの話?」

「二年くらい前」

 楓は確かにそんなこともあったと思い出す。たしか、亜夏が中学校に進級するタイミングで服を断捨離することになった。楓は亜夏の着ていた可愛くてきれいな服が捨てられるのが我慢ならなかった。捨てられるくらいなら、自分が着てやろう、そう思った。現に着てみたかった。スカートやワンピース。そういう可愛い服を着てみたかった。けれど、母親がもっとかっこいい服を買ってあげるから、なんて言って亜夏の服を捨ててしまったことをはっきりと覚えている。

「なんでって……そんなの覚えてない。二年前のことでしょ? 覚えてるわけないよ」

 楓がそう言うと亜夏は笑って首を振った。

「ごめんね。私が悪かった」

 亜夏がさみしげにつぶやいて、楓の側に寄った。楓はふと見た亜夏のさみしげな表情を未だに忘れられずにいる。なにも悪くないのに、自分を責めている優しい姉の姿を見て、楓はとても申し訳なくなった。

「違う。亜夏姉は悪くない。悪いのは、周りと違う私だよ」

 楓はそうやって話し始めた。喉の奥に言葉が詰まる感覚をその時はっきりと感じていた。

「……私、かっこいい服より、可愛い服のほうが好き。だって、私――」

 楓が言葉を続けようとしたとき、頭の上に手が乗せられた。温かい手だった。それは優しく、当時肩まで伸びていた髪の毛をすっと梳いてくれた。

「服、着てみる?」

 亜夏の優しい声が心地よかった。すこし早めの夏のような涼しさを保っていた。

「……着てみたい」

 震えながら楓はそう言って、立ち上がった。まだ声変わりの始まっていない声で、必死に感情を込めて伝えた。亜夏はそれを聞いて優しい笑顔で「分かった」と首を縦に振った。

 楓にとって、一番尊敬する人間の姿だった。

 その日から、亜夏と楓の距離は一つ縮まった。親よりも縮まった。楓にとって亜夏は理解者になった。それは小学校を卒業してから高校入学に至るまで、ずっとそうだった。


 亜夏はいつの日かのように楓の隣に座って楓に話しかける。

「どうだった? 青春の始まりもとい高校生活初日は」

 その語りはとても優しく、家族というよりも一人の人間に話しかけているように思えて、安心した。楓にとって亜夏のこういうところが好きで尊敬できるところだった。

「んー、なんか、疲れた」

 楓は率直に言う。色々あった。和正と話して、京陽と帰り道に話して。楓は不安しかなかった高校生活が少しだけ実りのあるもののように思えて、少しだけ明るい未来を期待してしまう。不安要素もあるし、疑問もいっぱいあるけど、なんとかなりそうな気がした。

「なんか思ったよりも良さそう」

 ふてくされたように亜夏は言う。亜夏にとって楓は手のかかるきょうだいだった。それが少し離れた存在になってしまうようで、淋しさを紛らわしたくて、ふてくされたようになったのだろうと楓は想像した。楓自身、亜夏が高校入学時に思ったことだったし、自身の姉はそういう可愛らしい一面も持っているということも誰よりも理解していたからだ。

「うん。思ったよりも良かった」

 楓がそういうと、たっぷり時間をかけて亜夏が「そっか」と嬉しそうに返した。

 亜夏は立ち上がって、アイライナーを置いて部屋から出ていこうとして、扉の前で立ち止まる。

「あんたのメイク道具、もうそろそろお母さんとかにバレるかもよ」

「え、嘘だ」

「まじまじ。掃除されそうだったもん。私が大学で居なかったら今日の朝にはバレてたよ」

 楓はほっと胸をなでおろす。バレたら説明が面倒だ。でもバレていないならいい。楓はベッドの下に隠してある小さなメイク箱を取り出して、亜夏に使われたアイライナーを戻しておく。バレないうちに新しい隠し場所を探さないといけないな、と思い抵抗はあったが鍵付きのクローゼットの中にいれた。

 楓は制服からラフな私服に着替える。制服のように体のラインが出るものよりもだぼっとした服のほうが体のラインが出ないから好きだった。なんとなく着た淡い水色のシャツはいつもよりきれいに発色しているように楓の目には映った。


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