音読
「お、ハミルじゃん!」
先ほどハミルの母である女店主から頭を撫でられた男の子が、気さくに声をかけた。ハミルは気だるそうな態勢をしたまま、まるで脳みそが空っぽになっているかのように目を見開き、口を半開きにした表情を作っている。
「お前、今日の音読、ひどかったじゃねーか」
「おんどく」
ハミルは顔色1つ変えず、今日受けた授業のことを念入りに思い出している。
「国語の授業だよ! なんだよ、あれ。『ひょうじゅう』のこと『じゅうひょう』って言うし、『クラムボン』のことは『クマルボン』って読むし、『大造じいさんとガン』なんて、『大造じいさんのガン』って言ってたじゃねーか!」
「なんだよ、それ! 大造じいさんが入院してるみたいじゃねえか」
別クラスの男の子たちも大いにつられて、腹を抱えて笑いだした。
ハミルとしては当然、面白くなかった。自分が見た限りでは、そう書いてあるように見えたのだ。自分としては、普通に読んだだけなのだ。
それの何が悪いのか。普通であることが、なぜおかしいのだ。
ハミルは目を動かさず、開いた口を閉じた。
「だまれ」
「しょうがねえじゃん! ハミルが言い間違いするのが悪いんだろ」
「わるくない」
「悪いって! だからおかしいんだよ」
男の子たちはしきりに笑い声を上げ続けた。ハミルの音読の時間を反芻しては、そのたびにおかしさを思い出し続けた。やがて「クマルボンって、どうやって笑うんだろうな」「大造じいさんのお見舞い、どんな感じなんだろうな」などと、自然と深掘りをしはじめた。
ハミルは一層気に入らなかった。早く恥さらしの時間が終わることを望んでいた。そのためには、この話題を変える必要があるが、ただでさえ口数の少ない自分には、言葉で止められない規模の盛り上がりようとなっていた。
言葉では止められない。ならば――。
ハミルは顔色1つ変えずに、音読の話を持ちかけてきた男の子ににじり寄ると、右足のスネ辺りを狙って、ウップンを晴らすように蹴りを入れた。
「痛ってえ!!」
男の子が足をおさえてその場に座り込むと、「大丈夫か!?」と周囲の子どもたちが駆け寄った。10円玉を助け出そうとしていた子も、その輪の中に混ざって彼を介抱した。
「どうしたんだ? ケガでもしたのか?」
「ハミルが、オレの足蹴ったんだよ!」
訴えを聞いた10円玉の子が、たちまちハミルを糾弾する。
「何やってんだよ! 謝れよ!」
「やだ」
ハミルは腕を組み、さも自分は当然のことをしてやった、という態度を見せた。
「何があったか知らねえけど、暴力はダメだろ! なんで平気な顔してるんだよ!?」
男の子がハミルに詰め寄ると、ハミルは彼の胸を両腕で突いて、彼をブロックした。
「何なんだよ、お前!」
男の子が甲高い声を上げると、奥の襖が開いた。外の騒がしさに不穏な空気を感じたシルダが駆けつけたのだった。
「みんな、どうしたの……あら、あなた、座り込んじゃって。何かあったの?」
足を蹴られた男の子をはじめ、子どもたちが一斉に被害を訴えた。自分たちが受けた攻撃だけをクローズアップした意見だけが上がったが、状況の説明としては充分に機能するものである。
シルダは車座になった子どもたちと同じ方向に立ち、ハミルに言った。
「ごめんなさい、は?」
「いわない」
ハミルは横を向いたまま、少しも動じない。
「暴力はダメなことって、分かるでしょ?」
「もちろん」
ハミルは顎の先だけを動かして、静かにうなずいた。
「じゃあ、言わなきゃいけないことがあるわよね? いけないことをしたんだから」
ハミルの体は固まったまま、微動だにしなかった。バカにしてきた相手に対して、さらに屈服するような態度を見せることは、今のハミルにはできなかった。
シルダはお姉ちゃんとして、妹が迷っていることを察していた。そして、ハミルが、善悪の分別がつく子だという認識もしていた。じっと待ち続けていれば、ハミルはきっと最善の選択をするはずだと信じている。
長い間、沈黙の時間が流れた。少し遠くの二本松通りを車が通りすぎる音だけが響き、夏の日暮れの日差しが少年少女たちを少しずつ照らしている。
座り込んだ男の子の額から、汗が1滴垂れて店頭の床に落ちた。
横を向いたままのハミルの頬からも、汗が落ちた。
誰もが、我慢の限界を迎えていた中、堰を切ったのはハミルだった。
「かえれ」
「……は?」
男の子たちは困惑した。
「かえれって」
ハミルは座り込んだ男の子に近寄り、両肩を突き飛ばした。彼は床に倒れこんで軽く頭を打った。
「おい、やめろよ!」
「かえれ!」
反撃しようとする男の子たちに、ハミルは動じることなく立ち向かった。男の子たちは店の前で逃げ惑い、ハミルはこれを追いかけまわした。
そこへ女店主が、物置から戻ってきた。殺伐とした追いかけっこを目の当たりにすると、鬼であるハミルをすぐに捕まえた。
「ハミル、何してるの!」
散り散りになった男の子たちは、「二度とお前に会ってたまるか!」などと捨てゼリフを吐いて、ほうほうの体で家路にすがりつくようにして帰っていった。
シルダは体全体にびっしょりと汗をかきながら、誰もいなくなった店の前の路地を見つめていた。
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