笹竜胆(ささりんどう)咲く ~源頼朝、挙兵~

四谷軒

プロローグ 流人頼朝

01 流人

 海を見ていた。

 その男は、海を見ていた。

 岬の突端に立ち、まるでこれから空を飛ぶような、そんな姿勢で、海を見ていた。


「何を、見ているのか」


 海を見ているようで、海を見ていない。

 それは、海を泳ぐ政子の方に目もくれないことからわかる。

 政子は海を泳ぐのが好きで、今もこうしてころもを脱いで、裸で泳いでいる。

 男は最初、ちらりと政子のことを見たが、それきりで、あとは海を──海の向こうを見ていた。

 もしかしたら、笹竜胆ささりんどうが咲くという、あの地を見ているのか。


「このまま上がって、うしろから驚かしてやろうか」


 父の時政から、あの流人には近づくなと言われているが、何、かまうことはない。

 政子は決めるとすぐ動き出すへきがある。

 それゆえ、海から上がって、衣も着ずに、岬の上へ上へと登っていく。


「あと、少しだ」


 衣は着ていない。男が動いてしまうかもしれない。

 それよりは、わっと驚かすために、着るのはやめた。

 暑い太陽が容赦なく照らし、体が乾いていく。

 男の背後に立った。

 さて、手で押そうか、声をかけようか。


「……何か」


「わっ」


 男が振り向いた。

 政子は、手で前を隠すのも忘れ、思い切り驚く。

 男も、まさか全裸の、それも妙齢の女がいると思わず、少なからず動揺したようだ。

 白皙の顔のその目が、見開いている。


「見るな、ばか」


 政子が手を前に押し出す。

 男はうしろに倒れた。

 岬の先端のうしろへ。

 落下していく男。

 このままでは、海に落ち、へたをすると海流に流される。

 伊豆の海の海流は――黒潮はあなどれない。

 政子は手早く周りの草を抜き、耳に詰めた。

 詰めながら、前へ。

 走る。

 ぶ。


 ……少しして、海上に浮かび上がる、男をかかえた政子の姿が見えた。



「何だって、こんな真似を」


 男は白皙はくせきの顔を歪ませた。

 夏の砂浜で、裸で焚火を浴びながらでも、になる男。 

 それが――源頼朝みなもとのよりとも

 佐兵衛権佐さひょうえごんのすけという官名から、佐殿すけどのともいわれる。

 かつて、平治の乱という戦乱があって、頼朝の家は負けた。

 河内源氏かわちげんじというその家は、当主の義朝よしともは殺され、子らも処刑されるか追放された。

 頼朝は追放された側で、勝者である平清盛たいらのきよもりから、この伊豆へと――北条政子のいる伊豆へと流されてきた。


「……あの流人るにんとは、触れ合うな。近づくな」


 父の時政は、大番役おおばんやく(警固役)としてみやこに行く前に、そう言った。

 時政と政子の北条家は、伊豆の豪族であるが、平家の支流でもあるので、京にいる清盛らに「よ」と言われれば、行くしかない立場である。


「流人を見張っていよというのに、迷惑なことよ」


 時政は愚痴りながらも京に向かった。

 くれぐれも頼朝には近づくなと、最後まで政子に言って。



「だったら、近づかないがよかろう」


 取って食うぞ、と頼朝は両手をわきわきとさせた。

 意外と稚気ちきのある人だ、と政子は焚火に木をべながら思った。

 ちなみに政子はすでにころもを身につけていて、頼朝は裸なので、どう見ても暴漢にしか見えない。


「……こほん。まあ冗談だ。どっちにしろ、今日は帰れ。兄が心配しておろう」


 おやこの人は自分に兄がいるのを知っているのか。

 というか、自分と今まで会ったことがないのに。

 そんな目線をすると、頼朝は、さすがに見張り役の一族とその姫ぐらいは知っていると答えた。


「第一、こんな昼日中に、素っ裸で泳ぐという時点で、このあたりの勢族の娘と知れる」


 そう言って衣を手早く身につけ、焚火を消した。

 きびすを返すと、岬の突端の方へと向かう。

 政子が近いので、離れるつもりなのか。

 それとも……。


「あ、岬で何か待っていた?」


「…………」


 無言のままでいるのは、肯定なのか。

 頼朝は酷く迷惑そうな顔をしているが、追い返そうとはしなかった。



 てくてくと歩く。

 時折、空を見上げては、飛ぶ鳥を眺めたり。

 足を止めては、蝸牛かたつむりを見つめたり。

 政子の泳いでいた砂浜からその岬まで、頼朝はいかにも散策を楽しむという風情で歩いた。


「このあたりは伊豆山権現という社があるのか」


「そう」


「そうか」


 会話をしながら。

 そうやって歩いていると、なんだか楽しい。

 頼朝はただ見たり聞いたりしているようでいて、それでいて何か考えている。

 何を考えているのかと聞くと「いろんなことを」と返って来た。

 そうこうしているうちに、岬の突端についた。

 頼朝は、今度は座った。


「今日は天気がいい」


 それはそうだ。

 だから泳ぎに来た。

 北に真鶴まなづる、東に安房あわが見えるくらい天気がいい。

 何となく、頼朝の隣に座った。

 目線を頼朝のそれに沿わせると、砂粒のようなものが海に浮かんでいた。

 砂粒はだんだんと大きくなっていき、舟と若い男の姿になった。


「これを待っていた」


 頼朝は立ち上がった。

 白皙の顔を紅潮させて。

 まさかこの男、女より男が好きなのか。


「ちがう」


 頼朝は言下に否定した。

 むかしは相手を務めることもあったが、今はちがうと。


「今は?」


「あ」


 しまったという顔の頼朝。

 政子は得心した顔をした。


「何だその顔は」


「いえ、だって、わたしの裸を見ても、何ともないようだし」


「そんなわけあるか」


 見てしまってすまないと思うから、こうして自分も隠さずにいるのだと言った。


「隠さずにって、何を」


「六郎だ」


 舟の男は砂浜を指差す。

 頼朝はうなずいて走り出す。

 岬に船をつけられない。

 頼朝も政子も、砂浜に戻ることになった。



みやこの話をしたいのですが」


 六郎という若者は、政子を一瞥いちべつすると怪訝けげんそうな顔をした。

 頼朝が「いいんだ」と言うと、六郎は口を開いた。

 六郎は、平家打倒の謀略――鹿ケ谷ししがたにの陰謀が失敗に終わったという話をした。


「そんなことがあったから、時政は京に呼ばれたのか」

 

 時政には流人・源頼朝を見張るという役がある。であるのに大番役を命じられたことに、政子は違和感を感じていたのだ。

 見張られている当の頼朝はというと、さして平家打倒に興味は無さそうで、それよりも陰謀の首謀者がどうなったかを聞きたがった。


「たとえば俊寛僧都しゅんかんそうづはどうなった」


「そうですね、薩摩さつま鬼海ヶ島きかいがしまに流されました」


 現代でいう鹿児島県硫黄島のことと思われるその島は、いわば絶海の孤島である。

 六郎は、他の首謀者らも流されるか殺されるかしたと話した。


「そうか」


 さして感慨も抱かないという風に、頼朝は答えた。

 だが政子には、頼朝のそんな様子が、かえって関心を惹いている証なのだなと思えた。

 ……言いはしなかったが。

 それから六郎は京からの便たよりを渡し、去っていった。



「なんで俊寛僧都のゆくすえが気にったのか」


 頼朝が京からの便り――三善康信みよしやすのぶ(頼朝の乳母の妹の子)からの便りを読んでいる隣から、そう声をかけた。

 頼朝はわずらわしそうに顔上げたが、「流人だから」と答えた。

 すると政子は得心のいった表情をした。


「なんだその顔は」


「同じ流人。流人としての差」


 頼朝は何事もなかったかのように便りに目を落とした。

 政子は、やはり頼朝この男は面白いと思った。

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