「俺、昔はもっと鈍くさくて、失敗ばっかしてたんだ」

 生まれたときから感情なんてものもあったし、ほんとに失敗作だったのかもな、ミツキはそう言って自嘲的な笑みを浮かべた。それはきっと失敗作じゃなくて、不器用っていうのではないだろうか。その不器用さが僕には心地よかった。

 ミツキが黙り込む。胸元を握りしめる手を僕は黙って見ていた。

「助けてくれたんだ」

 深く息を吸って、ミツキはそう呟いた。目を少し細めて、懐かしむような、嬉しそうな笑みを浮かべて。それは心の奥底に仕舞われた柔いところだった。

「どういう思考がなされたのかわからないし、それがただ単に効率が良かっただけなのかもしれないけど。そいつは俺をよく助けてくれた。勉強だって、運動だって俺ができなかったところは根気強く教えてくれた」

 ミツキは少し俯いていた。その先にはきっと再生されている記憶があった。生活感のない殺風景なミツキの部屋で、そこだけが唯一柔らかな色を放っていた。

「単純な奴って思われるかもしれないけど、俺、ほんとに嬉しくて、……だから思わず言っちゃったんだ、好きだって」

 いわなきゃよかったんだ、そう独り言ちたミツキの言葉には湿っていた。力のない声には後悔が込められていた。「言っちゃった」なんて、本来ならそんな言い方をしなくてもいいはずなのに。

「そしたらそいつ、いきなり苦しみ始めたんだ。俺は立ち尽くすばっかりで何もできなくて。しばらく経った時、そいつがぱっと顔を上げて、その瞬間、俺にはわかった。そいつの中に感情が生まれてるって。まだまだ拙い感情だったけど、確かにそこには感情と呼べるものがあったんだ」

 矢継ぎ早にそう言った。過呼吸気味なミツキを僕は止められなかった。

「そいつは俺を見て、呆然と『うれしい』と呟いたあと、今度は花が開くように笑ってもう一度嬉『嬉しい』って言ったんだ。『たった今心臓ができたみたいにドキドキする』って、そう言ってた。今思えば俺の恋に誘発されたからか、唯一恋心だけは発達していた気がする。けれどそいつは『ごめん、自分が自分を許せないから』といって、自分から警察に通報した。感情が発露しましたって。そしてそいつは警察に連れていかれて、――排除された」

 ぽつりと最後の言葉が落とされた。過去を話す声は話が進めば進むほど涙に濡れていっていて、嬉しかったはずの言葉も、ミツキにとってはもう後悔の記憶を再生するトリガーでしかないようだった。

「ミツキは大丈夫だったの?」

 僕は恐る恐る聞いた。ミツキを刺激したくはなかったけれど、心配だった。ミツキがここにいることはわかっていても聞かずにはいられなかった。

「そいつが俺をかばってくれたから」

 目を伏せながらミツキは笑った。伏せられた目は力の抜けた自分の両手を見ている。その手が力強く握りこまれた。

「そのとき、決めたんだ。もう二度と恋はしないって。ここで静かに終わるつもりだったんだ」

 落ち着いた、低い調子の声で言った。一語一語嚙み締めるようにはっきりと。瞳は鉱石のような鋭さを帯びていた。

 その諦念には見覚えがあった。きっと僕らはこの灰色の世界に侵されて、自分もわからなくなって、そうやって死んでいく。それがこの世界の正解で、静かに終わりまで息をするのが運命。そう、僕も思っていた。

「だけど! お前が! ぐいぐい人の心に入ってくるから!」

 ミツキはぱっと僕の方を見て、睨みつけた。大きな声は短く途切れていて、込められた感情の大きさを示していた。そして呆然としている僕を数秒見詰めて、ミツキは悲痛そうに顔を歪めた。


「もう俺、だれもしんでほしくないのに」


 そう、小さく震える声で呟いた。子供みたいに舌っ足らずの言葉は、ただただ純粋な祈りが込められていた。その震えはきっと溢れ出した感情が行き場を失くしたせいだった。心臓の一番柔らかいところは、あまりにも人間らしい感情で満ちていた。途端に僕の心臓が寂しく思えた。

 ミツキは俯いて一つ深呼吸した後、僕をきっと睨んで言い放った。

「ほら、なんか言えよ。一緒にいたやつがこんなやつとは思わなかっただろ」

「……うん。思わなかった。だってミツキ、言ってくれないんだもん。――でもだから?」

 僕の肯定にミツキは苦しそうに眉を顰めた。けれど、そのあとの僕の言葉を聞いて眉間の皴がふっと消える。

「は?」

 ミツキの口からは言葉が零れ落ちていた。

「それで僕らが変わるわけじゃないでしょ」

 僕はミツキを見据えた。一音一音丁寧に発音したそれは、ミツキにどう聞こえただろうか。言葉の裏の裏まで見透かしてほしい。ちゃんと、全部伝わるように。

 ミツキの曇っていた目が、潤み始める。降り注いだ言葉は、少しも零れることなくその目に湛えられていた。

「……うん」

 絞り出された声は震えていた。ミツキは顔をくしゃりと崩す。笑っているような泣いているような顔は、伝わった証だった。肩を震わせるミツキを僕はそっと抱きしめる。強がりな君を、僕が守ってあげられたらいいと願う。ミツキは肩に顔を伏せながらゆっくりと僕の背に手をまわした。

 あったかいと思ってくれるといいなと思った。

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