新月

 今日は新月らしく、窓の外の夜空に僕の心を満たす光はなかった。都市が発達する前の世界では、こんな日は星明りが僕らを慰めてくれていたのだろう。自分で自分を慰めるには夜の静けさは丁度よかったけれど、やはり孤独感はぬぐい切れなかった。

「今日、会える?」

 何度も誘ううちに削りに削られた言葉は、合言葉のような役割を果たしていた。短い言葉でも、意図がちゃんと伝わる関係性になっていた。けれど。

「ごめん」

 そう返されたのは何度目だろうか。いやきちんと覚えている。これで五回目だ。そう、五回目。申し訳なさそうなのも伝わってはいる。伝わっているけれど、それとこれとは別問題なんじゃないだろうか。仏の顔も三度までを五度まで増やしてあげたのだから。

 僕はわざとらしく音を立てて窓を開けた。玄関から持ってきた靴を履き、ベランダの仕切り――蹴破り戸の前に立つ。そして、一歩下がってから思いっきり蹴破った。ぱん、と銃声のような音が鳴って、割れた蹴破り戸が床に散らばる。破片を避けながら、僕は素早くできた穴を潜り抜けた。

 もしかしたら、今の音で誰か来てしまうかもしれない。そう思いながらも僕の行動は止まらない。窓に手を掛ける。横に力を加えると引っ掛かりなく開いて、不用心だなと思ってしまった。まあ、僕以外に開ける人、いないと思うけど。カーテンを掻き分けると、そこには呆然としたミツキがいた。

 ミツキは僕を三秒見詰めてから、はっとしたように僕のところまで早歩きで来て、後ろの窓を閉めた。僅かに空いたカーテンもきっちり閉める。そして僕をしゃがませて、ミツキも一緒にしゃがみ込んだ。口を開いた僕を制して、耳を澄ませる。しばらくして、ミツキが息を吐くと、自然と引き攣っていた空気が元に戻る。

「お、まえ、なにしてんだよ! 怪しまれたらどうする!」

 器用に小声で怒鳴るミツキに、僕は一瞬収まっていた怒りがこみ上げてきて言った。これまでにない感情の高ぶりに、身体が悲鳴を上げる。

「ミツキが『ごめん』しか言わないのが悪い!」

 僕の言葉に、僕を睨んでいたミツキの目は見開かれた。そしてばつの悪そうに逸らされる。ごめん、そう呟かれて、僕はやりきれない思いになった。感情が複雑に混ざりあい、今発するべき言葉が分からなくなった。こんなこと、なかったのに。一回溜息をついて、熱を収める。

「……僕のこと、嫌いになった?」

 そう聞くと、ミツキは弾かれたようにこちらを見て、一瞬泣きそうな顔をした。それは直ぐに申し訳なさそうな顔に隠されて、ミツキは首を横に振りながら答える。

「ちがう、ちがうけど……」

 必死に否定する様子はやっぱり僕を嫌いになったようには思えなくて。むしろ少し弱弱しい声に、何かがミツキにのしかかっているように思えた。

「じゃあ、どうして? 悪かったところがあるなら直すし、言ってくれなきゃわかんないよ」

 責める色が声に乗ってしまった。それが必死さゆえのものだと、ミツキに伝わるだろうか。少し震えた声に、ミツキのほうが悲痛そうな顔をして、俯いた。

「だめなんだ」

 自分に言い聞かせるようにミツキが言った。

「なにが?」

 僕はミツキの顔を覗き込もうとするけれど、顔を前で腕を交差して隠された。

「ほんとにだめなんだよ」

 小さな声の震えは、きっとミツキの心の揺らぎだった。

「だから、なにがって」

 焦れて、苛立った声が出る。

 

「……このままじゃ俺、お前を好きになる」

 

 それは、この灰色の世界で灰色になりきれないものだった。喉が詰まったように苦しげに呟かれたその言葉は、僕を驚かせるには十分だ。え、と零れた声は少し上ずっていて、それを聞いたミツキは顔を歪めた。ミツキの胸元にある手は強く握りこまれていた。恋を苦しいと言っていた、ミツキの言葉を思い出した。

 けれど。僕を好きになることがまるでいけないことのように言うミツキに、僕は喉が震えた。

「それの何がだめなの? 僕がお前のこと好きになるかもしれないじゃん」

 そう言った。根拠は全くなくて、きっと果てしなく無責任な言葉だった。その言葉にミツキはまるで心臓を刺されたような苦しげな表情をする。

「ほんとに?」

 ミツキの口から出たそれは期待からでた言葉ではなく、不信感に満ちたものだった。だって、と言葉にして、ミツキは少し言い淀んだ。僕を窺い見て、唇を噛む。そして小さく口を開けて、ミツキは静かに言った。

「お前、恋がねぇんじゃねえの」

「は」

 僕の口から一つ音が零れ落ちた。

「お前、恋って感情がねぇんだよ、たぶん」

 感情がない人間が多いんだから、お前の感情に欠陥があってもおかしくないだろ、とミツキは付け加えた。それは慰めのために吐かれたのかもしれないが、そんな効果は一切なかった。二回繰り返された言葉は、ずっしりと僕の体に圧し掛かる。真っ直ぐ僕を見るミツキの声は芯が通っていて、「たぶん」は付け加えられたおまけ程度のものだった。脳がうまく働いてないのか体を動かせず、ミツキをただ見詰める僕にミツキは続けた。

「俺は、仲いい人とかと触れ合ったとき、あったかいなって思う気持ちが恋とか、愛とかのもとだと思ってる。でもお前にはそれがない。俺が仲いい人になれてねぇだけの可能性もあるけど……」

 あったかい、という言葉にはその言葉の意味以上の何かが込められていた。そしてこの言葉の裏には確かな実感があった。それはこの世界で唯一の正解のように思えた。

 最後に付け加えられた自信なさげな言葉に、取り敢えず否定の言葉を返そうとするけれど、その前にミツキが言葉を発した。

「それに、お前、壁つくってるだろ」

「そんなこと――」

 咄嗟に出た否定の言葉をミツキが遮る。

「俺に! なにも、話さないくせに。だからお前の中の俺もどうせちっぽけで、俺がいなくなったら、ちょっと悲しんでそれで終わりなんじゃねぇの。俺の歌に興味があるだけなんだから」

 それは紛れもない事実で。最初からそう言っていたし、ミツキの歌が好きなことはその通りだけど。きっとそれ以外の部分もあって、というか最近はそれ以外の部分が大半で、仮に僕に恋がなかったとしても、人を好きになることくらいできる――。でもそれ以上に伝わってなかったことが悲しかった。顔を顰めた僕を、俯いてしまったミツキは見ていなかった。

「でも、そんなんじゃ恋なんて一生できやしねぇよ」

 それは馬鹿にしたような響きで僕の鼓膜を刺した。けれどミツキは震えていて、僕は漠然とそれでもまだ足りないのかもしれないなと思った。ミツキが僕を失ったとき何を思うのか。僕がミツキを失ったとき何を思うのか。それが釣り合っているかどうかなんて、わからなかった。

 ミツキが顔を上げる。僕を見てはっとした顔をして、一瞬でその顔が罪悪感に染まった。一体僕はどんな顔をしていたのだろうか。ミツキは僕を慰めるように自嘲気味に言った。

「そもそも、お前に恋心があったとして、それでも俺は恋なんてしちゃいけないんだ」

「……それは、」

 咄嗟に何かを言おうとして、けれど何も言葉が出なかった。ここで僕がミツキにかけられる言葉を知らなかった。そんな僕に、ミツキすべてを諦めたように言った。

「いいよ、ここまできたなら全部話す。ほんとは誰かに話して糾弾してほしかったのかもしれないしな」

 いつの間にかミツキの瞳が曇っていた。どこまでも遠く、何もかもを引きずり込みそうで、何もかもを拒絶した瞳。惹かれてしまうのに、身体が触れてはいけないと警告を発する。人間らしかったミツキは一変して陶器でてきた人形のような冷たさを纏っていた。

「これは俺の懺悔だ」

 そう呟いたミツキはまるで告解室で懺悔する敬虔な信徒だった。

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