望月

 それからは僕が夜に声を掛けて、都合が合えばその日の夜中にベランダで会うのを繰り返していた。意識はしていなかったけれど、三日に一回くらいは会っていたんじゃないかと思う。

 ミツキのレパートリーも増えてきて、僕はそろそろ情報管理センターに行って新しい曲を覚えなくちゃいけないかなと思い始めていた。情報管理センターは今の情報だけでなく、昔の膨大な量の情報も管理してくれているから昔の文化好きな僕は重宝している。

 でもなあ、と僕は思案した。最近少し困ったことになっているのだ。ミツキの歌が聞きたいと言っていたのに、近頃はミツキが強請るので二人で歌うことが多くなっている。ミツキの歌を聞くためにやっているのに本末転倒ではないだろうか。それでうっかり僕も楽しいと思ってしまっているから問題だ。

 頬を撫でた寒風に、僕は手に息を吹きかけた。春に向かっていっているはずなのに寒さが和らぐことはなく、天気予報も代わり映えのしない数字を報道している。ミツキを待つのは嫌いじゃないけれど、この寒さだけが難点だ。

 空を見上げると満月が夜陰に滲んでいた。あれから、月がまた満ちるまでの時間がたったのだと思うと感慨深いというか、長いようで短かった気がする。随分と雰囲気が砕けたミツキに喜びを感じることも少なくなって、もはやそれが当たり前になっていっていた。

 満月はこの前よりも少しだけ質量を増やしていて、手を伸ばせば届きそうな気さえしてくる。ミツキにあげたら喜ぶだろうか。僕が満月に手を伸ばした瞬間、窓が開く音がした。僕は伸ばしていた腕を引っ込める。

「ねぇ、今日は何がいいかな。洋楽もいいけど、やっぱり邦楽かな。……聞いてる?」

「ひいへふ」

 窓が閉まる音がしてミツキに話題を振ると、滑舌が甘いというか、何か食べているような声が聞こえた。人の前で何かを食べることって意外と緊張することだと思う。つまりは、そういうことなのだ。

「何食べてんの?」

 そういえばミツキの普段の生活とか知らないなと思って聞いてみる。今度もっと基本的なことをいろいろ聞いてみようかな。ミツキは口の中のものをなくすためか少し間をあけてから、今度は明確な発音で言葉を返した。

「バニラアイス」

 この寒い時期に? と驚きの声で突っ込むと、寒いからこそだろ、と謎の理論が返ってきた。僕は呆れて声も出せず、心の中で風邪、引かなきゃいいけど、と呟いた。ベランダの仕切りがあって向こう側は見えないけれど、せめて温かい恰好をしていてほしい。

 やっぱり姿が見えないのはもどかしくて、そろそろどちらかの家で会うことを提案しようかな、と思う。その間もミツキはバニラアイスを黙々と食べているようで、思わず聞いてしまった。

「好きなん?」

「うん」

 即答されたことに、へえ、と思って、一拍おいた後僕は気づいてしまった。途端に口角が制御不能になる。やっぱり仕切りがあってよかったかもしれない。こんなだらしない顔を見られたらからかわれそうな気がする。意味もなく口元を手で隠した。

「へえー、そうなんだ。ふーん」

「なんだよ」

 喜びが声に滲んで、思ったよりもからかうようなニュアンスを帯びてしまった。そんな声に不信感を抱いたのか、怪訝そうな声が聞こえる。ミツキをからかうことが多かったせいか、警戒しているらしい。

「べつに、なんでも?」

 ミツキの様子が面白くて、そう含みを持たせて返した。ミツキは下手に踏み込まないほうがいいと判断したのか、そう、と納得いっていない声色で言った。僕は流れてしまった微妙な空気を払拭するようにミツキに話を振った。

「そういえばお前、最初ラブソング歌ってたけどさぁ、恋とかしたことある?」

 これはミツキが「同じ」であるとわかった時から聞いてみたいことだった。この世界ではもう恋はできないのかもしれないと落胆していたから。

 僕は恋に憧憬していた。昔を調べて、恋を知るたびに僕は憧れていった。文書や映像の中の恋する人間は生き生きしていて、一番人らしかった。感情のない機械みたいな人間しかいないこの世界で、それは眩しく思えた。だから何時か僕も恋することがあるのだろうと期待していた。

 けれど、恋をしたことがないままここまできてしまった。そこで僕に焦りが生じて、恋について調べまわって漸く気づいた。この世界では恋なんてできないんじゃないかって。当たり前だ。周りには感情のない人間だらけ、魅力を感じなくてもおかしくはない。けれど、「同じ」人を見つけた。もし、ミツキが恋をしたことがあるなら――。

「べつに」

 ミツキは短くそう言った。壁のような硬さを感じて僕はそれ以上踏み込めなかった。

「別にってどっちだよ。……まあいいや。僕さあ、恋、してみたいんだよねぇ」

 きっとしたことがないんだろう。そう自分の中で結論付けてその話を終わらせる。けれど僕と「同じ」人と恋の話をしてみたくて、話題を少しだけ変えて話を続ける。

「へえ」

 興味のなさそうな声に僕は反って不思議になった。ミツキは気にならないのだろうか。

「でも、恋っていまいちわからんくて。例えば、お前のことは好きだけどさぁ、ドキドキするって感じではないんよ」

「……ふーん」

 少し間をおいて聞こえたミツキの声は小さくて、いつもより少し低かった。適当な返事に、僕は独り言のような言葉を呟いた。

「どんな感じなんかなぁ、恋って」

 憧憬が混ざる僕の声に、ミツキは大きな溜息をついた。ミツキにはつまらなかったかなと、僕が話題を変えようとすると、ミツキが抑揚のない声で呟き始めた。

「……心臓、壊れるんじゃないかってくらいドキドキする。話したいのに言葉が出なくて、自分って形がうまく保てなくなる。その人のこと、ずっと考えてる。いない時も、いなくなった後も、ずっと。自分を好きになってほしくて、でもなってくれなくて苦しくなる」

 それは平坦な声だった。そのはずなのに、その声は重たい感情を抱えているように聞こえた。それは月をも落としてしまう重さで、人一人では抱えきれそうもなかった。けれど僕の前には透明な壁があるようで、その感情が届くことを阻んでいた。何時になく話すミツキに僕が黙り込むと、ミツキは震える声で言った。

「……苦しいよ、恋って。苦しいことばっかだよ」

 僕とミツキは「同じ」はずなのに、僕はそれを共有することができなかった。ミツキの声が理解を拒んでいるようで、僕はそれに黙り込むことしかできない。それでも恋を諦めることはできなかった。できないことばかりで、僕はただ駄々をこねているだけの子供だった。そんな僕にミツキは言った。

「手、貸せよ」

 仕切りの向こう側から手が差し伸べられる。唐突な行動について行けなくて、動き出すのがワンテンポ遅れる。ベランダの手すりに近づいて向こう側を覗くと、ミツキがこちら側を真っ直ぐ見ていた。僕がその手に自分の手を重ねると、ミツキは手をぎゅっと握った。力加減を間違えたのか、それは少し痛いくらいだった。

「これに関してなんかねぇの」

「え? 手だなぁって」

 正直に答えると、ミツキは僕の手から自分の手をするりと抜いて、また溜息をついた。

「わかんねぇなら、今のお前に恋は無理だよ」

 僕が何も言えないでいると、窓を開ける音がした。引き留める間もないまま、ミツキは最後に呟いた。

「恋なんて狂気に一番近いんだから、しないほうがいいよ」

 窓を閉める音がした。

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