十六夜月

 連絡先を交換した日の夜。数分デバイスと睨み合った後、僕はとうとう送信ボタンを押した。

「ねえ、今夜ひま?」

 何度か推敲を重ねたそれは結局最初の文章に戻ってきてしまっていた。業務連絡しかしてこなかった僕は変に緊張してしまって、送ろうとしては画面を閉じてベッドに突っ伏した。それを片手では数え切れなくなるほど繰り返して、いい加減面倒くさくなって勢いだけで送信したそれ。

 デバイスの画面はディスプレイが必要ない代わりに顔の向きについてくるから別のこともしにくくて、僕はただ画面を見詰めていた。開いたり閉じたりを繰り返したせいで、デバイスが埋め込まれたこめかみが痛い。生体番号とともに連絡機能や健康管理機能などが内蔵されてるから、便利は便利なんだけど。

 可笑しいところがないかじっと確認していると、既読という文字が小さく表示された。自然と息が止まり、周りの光景がぼやけるほど注視する。

「ひまだけど」

 ぽんっと表示されたその文字はそっけなかったけれどミツキらしくて、その声で脳内再生する。噓をついて躱すことはしないでくれるんだ。僕の口元が少し緩んだ。

 既読をつけてしまったメッセージを早く返そうと文字を打つ。少し悩んで、けれどさっきよりは時間を掛けずに送信ボタンを押した。

「この前の時間くらいにベランダで話さん?」

 すぐに既読がついて、それから数分経っても返信が来なかった。やっぱりナンパみたいだったかな? 何か可笑しなところがあったのかも。そう思って読み返すけれど、送ったメッセージに問題はなさそうだった。デバイスの向こう側に思考を巡らせていると、ミツキからのメッセージが表示された。

「いいけど」

 迷いに迷った結果渋々というような時間の空け方に、僕は一人、部屋で笑ってしまった。


 星明りは都市の眩しすぎるほどの明かりに搔き消されていた。僕らを照らしているのはほんの少しだけ欠けた月だけだ。冬の乾燥した空気が喉を刺す。皮膚を撫でる風は冷たく、眠気を覚ましてくれた。冬の夜はあまり長話には向いていないけれど、漂う寂しさは二人を寄り添わせるには十分だった。人の距離が近くなる冬の夜は、秘密話には丁度良かった。

「こんばんは」

 窓が開けられて、ゆっくりと閉められた音に僕は仕切りごしにそう声を掛けた。言葉遣いが粗雑なくせに、窓を閉める音からは丁寧さが伝わってくる。向こう側からは驚きに零れた声が聞こえてきた。

「うぉ、お前、何時からそこにいたの」

「ちょっと前だよ」

 そう答えると、ミツキは黙ってしまった。前科があるから疑っているのかもしれない。けれど今回は約束していたし、ある程度時間が指定してあったから、待ち伏せなんかはしていなかったし、その言葉に嘘はなかった。

「……風邪、引くぞ」

 ミツキはそう呟いた。不信感を抱きながらも、優しさを帯びた言葉に僕の口角は上がる。最初とは違う反応。あの短い会話だけでも、確実に僕らの関係性が変わっていた。こんな快感は新人類を前にしては絶対に得られなかった。

「心配してくれてるの?」

 からかうように言った。嬉しさを隠すように発せられた言葉はひねくれていて、まだ思春期が終わっていないのだと言い訳をした。

「そんなわけ、なくもなくもなくもない」

 ミツキの口から勢いよく飛び出た否定はだんだんと声量を落として、勢いを失くしていった。

「どっちだよ」

 そう突っ込むと、うぅと唸る声が聞こえる。それに声を出して笑うと唸り声が大きくなった。どうやら笑うなということらしい。ミツキはこの流れを断ち切るためか、唸るのをやめて本題に入るよう促してきた。

「んで、何の用だよ」

 ぶっきら棒な言い方をしているけれど、それは僕と会話をする気があるという意思表示だった。

「言ったじゃん。話してみたいって。それに、僕ミツキの歌もっと聞きたいんだよね」

「上手くねぇし、わざわざ聞くもんでも……」

 吐いた息が熱い。ほんの少しの気持ち悪さが腹の中をのさばっていた。僕が歌であんなに心動かされたことはないのに。確かに昔の人が歌った記録の中の歌は凄かったけれど、技術だとか技巧だとかそういうものではない良さがミツキの歌にはあった。そこには「本物の」感情があった。

 湧き上がった衝動に身を任せて、僕は声を上げた。そこには少しだけ羨ましい気持ちも混ざっていた。

「僕は! ミツキの歌好きだよ。もしかしたら一目惚れかも」

 からかうような言葉選びで、けれど一片の真剣さを混ぜて言った。目は口程に物を言う、と言うから、きちんと目も逸らさずに。

「んなっ、こと軽々しく言うなよ」

 驚いたように大きな声で紡がれたミツキの言葉は語尾になればなるほど弱弱しくなっていった。あからさまに羞恥の色が滲んでいて、僕はくすりと笑う。

「照れてる?」

「照れてない」

 咄嗟に返ってきた言葉は拗ねたような響きをしていて、笑いをこらえる。肩が震えて、ベランダの間に仕切りがあってよかったと心底思った。

 照れてしまっただろうミツキも黙ってしまって、沈黙が訪れる。僕は息を深く吸って、言った。

「だからさ、もっと聞かせてよ」

 隣から鋭く息を吸った音が聞こえた気がした。再びの沈黙の中、僕は辛抱強く待った。気まずさを纏う空気の中それでも僕が待ったのは、ミツキの声で、その言葉を聞きたいからだった。

「……でも、あれしか知らねぇし」

 ミツキは小さく言った。最後の砦を必死に守っているような、そんな言葉だった。

「じゃあ、僕が教えるから」

 ゆっくりとミツキの心臓の上に積もった雪を融かす。

「お前そんな詳しいの」

 少し驚いたような声に、僕は胸がじんわりと熱くなる感覚を覚える。ミツキが僕に興味を持ってくれた気がした。少し早口に答える。

「昔の文化調べるの、好きなんだよね。あ、でも音源は持ち出せないから僕が歌って教えることになっちゃうんだけど――」

「いいよ」

 僕の言葉を遮ってミツキは言った。

「え」

「俺、おまえのこえ、きらいじゃないから」

 下っ足らずにそう言った。その声は果実のように自然な甘さで、それでいて噛み締めるとじゅわっと果汁が口の中に広がり、かぐわしい香りが鼻を抜けるようだった。不思議ともう一度齧り付きたくなる中毒性がある。

 照れたような響きは熟れた果実の滴りのように、その声を魅惑的にしていた。

「おまえのこえ、バニラアイスみたいで、なんか、甘そう」

 その声のままミツキはそう言った。僕はうまくその意味を咀嚼できなくて黙る。

 流れる沈黙に耐え切れなくなったのか、ミツキは「もう寝る! おやすみ!」といって、窓を開けて部屋の中に入って行ってしまった。乱雑に閉められた窓はがん、と大きな音を立てた。

 月が僅かに欠けた夜空の下、僕はもう一度取り残された。

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