残夜

「こんにちは」

 僕は集合住宅の隣の部屋から出てきた人――ミツキに声を掛けた。ミツキというのは心の中で僕が勝手につけたあだ名で、出会った昨日が満月だったから、ミツキ。自分で言うのもなんだが、いいネーミングセンスだと思う。

 その顔を見れば男か女かくらいわかると思ったのに、ミツキは声によく合った中性的な顔をしていた。ただ、年齢は想像通りで、大学生くらいに見える。同い年だろうか。ショートカットの黒髪は艶やかで、染めたことのなさそうな純朴さは反って穢したくなる色をしていた。目元に少しかかる髪がさらりと揺れてミツキのつり目を扇情的に見せる。けだるげな様子はダウナー系の服装も相まって独特な雰囲気を醸しだしていた。

 そんなミツキは僕を見るとわかりやすく目を見開いて、一歩後ずさった。一度開いた口を閉ざし、そしてもう一度開いてわずかに震えた声で言った。

「な、んで……いるんですか」

 朝特有の掠れが混ざる声は不信感に満ち満ちていた。そんな様子で感情のない人間たちの中に紛れることができるのだろうか。余計な心配を抱えながら、僕はミツキの質問に答えた。

「まあ、このくらいの時間に出てくるかなって」

 こんなことを予想するのはレールを敷かれたこの世界では簡単で、高校生だろうと、大学生だろうと、社会人だろうと、全ての事柄が始まる時間はあらかじめ決められていた。日勤は八時から。夜勤は二十時から。あの時間に家にいたことから日勤だろうことは容易に予想できる。

 そして、全ての人間が一時間以内に自分の勤め先に行くことができるように住む集合住宅が決められるから、家を出るのは七時以降。まあ、余裕を持ったとして六時四十五分以降だろうから、その時間から玄関の扉を少し開けてその前で待っていればいいのだ。

 ミツキがいる方の隣からドアを開ける音が聞こえたら出てくれば、見事遭遇できる。なんて完璧な作戦だろうか。ストーカーじみていることは自覚しているけれど、そうでもしなきゃチャンスがつかめないなら躊躇している暇はないだろう。

 ミツキは僕の言葉一つでその作戦の概ねを理解したのか、盛大に顔を顰めた。

「……犯罪じゃないですか」

「まだ偶然の範疇だよ」

 糾弾をのらりくらりとかわす。そもそも今の警察は感情を持っていそうな人を排除することに対してしか機能していない。今ある法律も昔の名残で、そんなことで逮捕される人間は一人もいなかった。

 そんな僕にミツキは大袈裟に溜息をついてそのまま歩を進めようとした。

「ちょっ、と待ってよ」

 僕はミツキの前に立ちはだかる。両手を広げて制止する様子は傍から見れば幼い子供のようだろうと、羞恥心が胸を掠めた。ミツキは一歩踏み出そうとした足を戻す。僕はそれに広げていた腕を下した。ミツキはその横を無理やり通ろうとすることはなかったが、僕を真っ直ぐ睨んだ。

「……なんですか」

 低く、絞り出すような声は僅かに早口だった。会話を進めようとするミツキは、僕と会話をする気になった訳ではなさそうだ。それでも話を聞こうとしてくれるだけ有難い。

 静まり返った集合住宅の廊下での応酬は、一度誰かに見られれば怪しまれてしまうだろう。最悪の場合、通報されて排除されるかもしれない。長引かせたくないのは僕も同じだった。

「連絡先、交換しない?」

「は?」

 昔の文化を調べていた時に出てきたナンパ、の常套句のような言葉だった。それに瞬時に返された声は冗談に返すにしては鋭い響きをしていて、ミツキははっとしたように口元を手で隠す。僕はミツキの体の横で脱力していた反対側の手を取って、無理やり握手の形にして上下に二回揺らした。骨ばった手はひんやりとしていた。

 目の前に「連絡先に追加することを承諾しますか」という文字が浮かび上がる。「はい」という文字を押すと画面が閉じられた。

 クリアになった視界に映るミツキの瞳は迷いに揺れていて、僕は微笑んで言った。きっと笑顔は感情がある人間に対しては最大の武器になる。

「僕はもっとミツキと話してみたいよ」

 ミツキは僕を見て、一度視線を落とした。そして、震える手で何かを押したような動作をした。僕は息が詰まる思いがして、黙り込む。

「相互関係が成立しました」

 という音声が脳内に響いた。

 長い息を吐く。心臓の鼓動が全身に伝播している。喜びの声を上げてしまいそうになるのを、口を噤んで耐えた。ミツキと目が合ってにへらと笑うと、気まずそうに目を逸らされる。沈黙が僕らの間を通り抜けた。

「てか、ミツキって誰だよ」

 思い出したかのようにそうぼやいたミツキは思ったよりも口が悪かった。僕はその言葉にわざと拗ねた声を出す。

「だって名前知らないし」

 いや、だって、よくわからん人間に名乗るのは危ないだろ、と言い訳をするように小さな声でミツキは呟く。その様子に僕はふっと笑いが零れて、肩を震わせた。ミツキはそんな様子の僕をきっと睨んだ。お、まえ騙したな! という声を無視して、思いついたことを口に出す。

「そうだ、じゃあ今名乗ってよ!」

「いやぁ、まあ、その。……ってかなんでミツキなんだよ」

 最後は言葉になっていない音でミツキは誤魔化した。話題を変えるようにミツキになった訳を聞いてくる。誰かに僕のセンスを自慢したいこともあって、僕はその話題に乗ってやることにした。

「満月の日に会ったから、満月を名前っぽく読んでミツキ。我ながらいいネーミングセンスじゃない?」

 僕は得意げにそう言った。中性的で、響きも綺麗なそのあだ名はミツキによく似合っていて、もはや本名がミツキなんじゃないかと思えてくるほどだ。ミツキは感嘆のあまり声が出ないのかもしれない。そう思って大人しく誉め言葉を待っていると、

「安直すぎだろ」

 そう言ってミツキは控え目に笑った。

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