心臓が満ちるまで

熒惑星

満月

 凍えた夜に溶けるような歌が僕の鼓膜を震わせた。

 それは男にしては高くて、女にしては低い掴みどころのない声をしていた。時折掠れ、甘さを醸し出すその声はそのくせ少年少女のような純粋さを秘めていた。


 

 狂気。

 気が狂っていること。また、異常をきたした精神状態。

 という認識はとうの昔に廃れてしまった。それは今や病名の一つと化していて、大昔に大流行した新型コロナウイルスと同じ響きをしていた。いや、それよりももっと恐ろしい響きをしていたかもしれない。

 その感染が確認されたのは五百年も前の話だ。とある女子高生が突然狂暴化し、持っていたスクールバックで周囲の人間を殴りだした。幸いにもこれといった凶器が周囲になかったため、死亡者は発生しなかった。けれど、警察官が取り押さえるも少女の狂気が収まることはなく、精神病院に閉じ込められ一生を終えた。

 少女が狂気に陥った正確な原因は未だに判明していない。ただ、少女の脳を詳しく調べてみると、一部に激しい損傷があった。それがいわゆる理性を機能させなくして、人間が生来持っている狂気を表面化させた、というのが当時の分析結果だった。

 当時の技術では効果的な治療法を確立できず、感染は拡大。殺傷事件が多発し、人口は著しく減少した。当時のニュースは教材として残っており、中高生にもなれば歴史の授業内で一度は見るだろう。

 では、どうやって人類はこの危機を乗り越えたのか。

 それは高校生になって、生物の内容と絡められながら説明される。簡単に言えば、結局人間も生物であり、自然選択には抗えないという話である。

 狂気は当時の人間――通称旧人類であればだれでも発症する可能性があった。旧人類のだれもが知らず知らずのうちにその中に狂気を秘めていたからだ。それならば狂気を持たないでいられるように進化すればいいのでは、と人類は数百年かけて適応進化をし続けた。

 その結果が今日の人類――新人類だ。ただ、一つ人類にとって大きな誤算だったのは、その結果感情までも失ってしまったことだ。どうやら感情と狂気は深く結びついていたらしい。だから新人類はアンドロイドのように決まったレールをただ歩くだけのものになり果てている。

 なり果てているはず、なのだ。


 どれだけ頭の中の知識を漁っても、新人類が決められた時間以外に起きていることなんて有り得ないという結論が出される。人類を繁栄させるという目的だけが魂に刻み込まれている新人類は、決められた効率の良い行動しかとらない。だから、活動効率が悪くなる夜中に起きることは、夜勤の場合を除き絶対にない。そして今の時刻は夜勤の勤務開始時間から四時間ほど経っている。

 ベランダの仕切りの向こうからは相変わらずラブソングが聞こえる。息が多めの高音は切なさを僕の胸に突き刺した。恋なんてしたこともないのに、酷く胸が締め付けられた。

 そう、僕には締め付けられる胸があった。例外があることを僕は身をもって知っていた。

 僕には感情があった。

 隔世遺伝なのか、突然変異なのかはわからない。ただ、僕の中にはずっと感情と呼べるものが存在していた。

 ずっと、と言っても僕は中学生より前の記憶がなかった。正確には中学一年生の時の記憶もあやふやだから、きちんとあるのは中学二年生以降だ。記憶を失くした僕は親族がだれもいなかったらしく施設に入れられた。そこで僕は直ぐに自分が周りと違うことを自覚し、周囲に馴染むための術を身に付けた。我ながら賢いと思うが、そうでなければ生き残れない世界だった。

 ――感情がある人間は狂気に侵されないように排除する。これがこの世界のルールだった。だから、僕も感情を殺して、どこにも行けずにここで終わるのだ。そう、思っていた。

 僕は期待をもって、隣から聞こえてくる歌に自分の声を重ね合わせた。五百年前に流行ったラブソング。もう人類が娯楽を生み出すことはなくなってしまったけれど、記録として僅かに残っていた。昔の文化として教えられるそれは、娯楽を必要とする旧人類に近い僕には貴重な供給源だった。

「は」

 仕切りの向こうで、息のような声が聞こえた。それは機械音のような声が溢れたこの世界で、確かな温度を持っていた。僕は確信した。向こうにいるのは僕と「同じ」人だと。

「こんばんは。今日は月が綺麗な夜ですね」

 ワントーン明るい声が出た。取り繕うのがうまい僕らしくない声だった。慌てて咳払いで誤魔化そうとして、やめた。そうだ、ここに咎める人間は誰もいない。奇妙な沈黙が僕らを包み込み、冬のにおいが鼻を掠めた。少なくともあちらにも僕が「同じ」ことは伝わったはずなんだけれど。新人類に月を綺麗だと思う心はないはずだから。

 がたがたと窓を閉める音が沈黙を破った。いかにも慌てていますという音があまりにも人らしくて、僕は笑みを零してしまった。

 冬の鋭さを帯びた空気の中に一人取り残される。夜の音は細やかで、孤独感を助長させた。先ほどのラブソングが恋しくなって口遊むけれど、何処か響きの違うそれに直ぐに口遊むのをやめた。

 人らしく月見をするにはベランダは殺風景だ。それでも、満月は胸中の寂寥感を代弁するように煌々と世界を照らしている。やっぱり、今日は月が綺麗だった。

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