35.
*
電話のやりとりを思い出すと、腹の底から不快感が込み上げてくるが、それは向こうも同じだろう。向こうも相当動揺しているはずだ。
そう思えば、少しは溜飲が下がる。
あのバケモノを呼び出せば、理由は知らないが一緒に行動している梟もやってくる。
梟、狐、そしてあのバケモノ。顔を思い出すと、懐かしい気持ちと、とてつもない嫌悪感が入り混じり、胃の中身が逆流してくるような感覚がする。
通話の終わったスマートフォンの画面を見ると、20時49分だった。
クランはベッドに腰かけたまま、天井を仰ぐ。白雪は何も言わず、部屋の壁際に置かれたソファに小さく座っている。
場所は海沿いのホテル。今は観光シーズンでもなかったので、予約なしでも宿泊できた。
白雪のスマートフォンは、海の最寄り駅近くの線路に投げ捨てた。クランのスマートフォンは、いつだったかの夜に寝た相手から奪ったものだ。
傍から見れば、状況は悪い方へしか進んでいない。
自分一人であれば、それでもいいと思っていた。今は白雪がいる。それが何かを躊躇わせる。脳みそが、悪い方向へ進むのを拒んでいる。
クランは項垂れるように背を丸め、深い溜め息をついた。
目を閉じて、その体勢のままでいると、ソファの方から動く気配がした。気配を消し方を知らない人間は、目を瞑っていても動きがよくわかる。
白雪の両手が、クランの頭をポンポンと優しく叩く。
「大丈夫?」
この電話が終わったら夕食を食べに行こう、と白雪に言っていた。とてもそんな空気ではないのを察してか、声をかけてくれる。
「大丈夫」
作った笑みを顔に貼り付けて顔を上げると、白雪はにっこりと笑いかける。白雪の笑顔も、貼り付いた笑みだ。お互いにひどい笑顔だった。
「渕之辺さんをバケモノ呼びは、ひどいよ」
さっきの電話の内容に対して、白雪は口を尖らせる。
「そう?」
そんなことはない、とクランは付け加えようかと思ったが、やめておいた。
すっと真顔になった白雪は、クランの眼を覗き込んだ。白雪の虹彩の中に映る自分の姿は、頼りなく見える。
「クランと渕之辺さんは、どういう関係なの?」
「言ったじゃん。あの女の母親が死んだ時、たまたま居合わせたのを、逆恨みされてる、って」
「それなら、渕之辺さんに説明するか、一切近づかないようにすればいい話だよ?」
真っ直ぐに見つめられる。
あの電話をするまでに白雪に聞かせた、簡単な説明への矛盾を突かれ、ひどく居た堪れない気持ちになった。
「渕之辺さんをわざわざ呼び出して、会いたいって言うのはおかしいよ」
「……だろうね」
クランは話を逸らしたい気持ちでいっぱいだが、白雪の真剣さに呑まれ、次の句が出ない。
「本当のこと、言って」
声は、白雪が思っていた以上に震えていた。目も手も、震えている。
クランは一度下を向き、眼を瞑る。白雪の震えた手は、優しく頭を撫で続ける。まるで子供のようだ、とクランは自嘲したくなる。
ゆっくりと顔を上げて白雪と目線を合わせた。
「本当に会いたいのは、フチノベじゃない」
白雪は小さく首を傾げる。
「誰に、会いたいの?」
「
一番好きな人間を殺す、と口にした辺りで、白雪の顔が曇る。悲しげで切ない、戸惑いも見え隠れする、複雑な表情だった。
「一番好きな人を? なんで?」
弱々しい声で尋ねられ、クランは薄く笑う。
「あいつは俺を裏切った」
青い瞳は鋭い視線で白雪を見る。だが、白雪を睨んでいるのではなく、脳裏に蘇った梟の姿を睨んだのだ。
「そいつが、フチノベの隣にいる。だから、フチノベを呼び出す。俺が呼んでも、そいつは卑怯者だから現れない」
クランは諦めたようにも見える苦笑いをしていた。
「そいつは卑怯で陰険で、俺を白雪ごと始末しようと考えるやつだ」
その笑みを見て、白雪は目に力を込める。
「クランと私が生き残れる道はある?」
白雪の問いかけに、クランは数秒沈黙してから、答える。
「あんただけなら。俺はわかんない」
わからない、と濁したのは配慮だ。梟もあのバケモノも、汚いやり方で泥臭く攻めてくる。
潰し合いと呼ぶに相応しい結末になる確率の方が高い。
「なら、二人でどこか遠くに行っちゃおうよ? クランが生き延びられる方が大事だよ」
涙目でそう説く白雪の両手が、クランの両手を握る。クランは握り返さないが、白雪はしっかりと握って離そうとしない。
「馬鹿だなぁ、シラユキは」
自分の手を握る、少しだけ熱がこもって汗ばんだ手に、白雪の必死さを感じて、クランは困り顔で笑った。
「俺の目的は、あいつを殺すこと」
「そうじゃなくて、生きるのを目的にしようよ」
掠れた声で涙をポロポロ流しながら、ここまで生きろと願われるのは初めてだ。
クランは白雪の体をそっと引き寄せて、抱きしめる。
「シラユキって本当に馬鹿だなぁ」
夕食は何食べようか、と続けると、しゃくり上げながら「ラーメン」という返事がくる。
クランはくすくすと笑い、白雪も泣きながら笑った。
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