33.
*
まだ午前中だが、夜明け前から海辺にいた二人は、はしゃぎ疲れて、浜辺に打ち上げられた流木をベンチにして座り込んでいる。
沖の方にはサーファーや、ヨットの姿がある。聞こえるのは波の音と鳶の鳴き声、車の音。
会話が途切れて、しばらく経ってから、少年が口を開く。
「あんた、なんて言うの?」
白雪は少年に顔を向け、首を傾げる。少年は少し呆れたように笑った。
「あんたの名前、聞いてるの」
「白雪。珍しいでしょ」
「珍しいかどうかは、よくわかんない」
「そうだよね。その通りだね」
少年にとって、日本語など異国の言葉で「珍しい」といった感覚も特にないのだろう。
「あなたの名前は?」
白雪も少年の名前を尋ねる。
「クラスナズヴェディ。長いからクランでいい」
「クラン、ね。どんな意味がある名前?」
クラスナズヴェディ、という名前は一回で覚えられる気がしなかったので、クランと呼んでいいと言われて、白雪は少しホッとしていた。
「名前の意味……。綺麗な、赤い星」
クランは沖の方を見つめながら、ゆっくり時間をかけて答えた。
青い瞳に映るのは、サーファーやヨットではなく、もっと遠い何か。
海風が金色の髪を撫でて、陽の光を弾いている。透き通るように白い肌に、艶のいい赤い唇。
虚空を見つめる姿は美術品と見紛うほどに、美しい。そして、心許なげだ。
「どうしてそんな、寂しそうな顔するの?」
間近で、美しい少年の横顔を盗み見ていた白雪は、呟くように聞く。
「寂しくなんかない」
一瞬、青い瞳は白雪を見る。そしてまた海へ視線を向ける。感情のこもらない声だった。
その言葉は嘘だろうな、と思いながら、白雪は笑顔を作って見せた。
「寂しくないなら、良かった」
「嘘だよ」
笑うでもなく、ただ静かに、クランは言う。
「素直じゃないなぁ」
白雪が小さな笑い声を漏らすと、クランは顔を白雪の方へ向ける。そして、苦笑いを見せた。昨夜の、白雪の家の庭先で笑い合った時のように、穏やかな瞬間だった。
「電話、鳴ってる」
白雪自身は気づかないような些細な音を、クランは聞き分ける。
白雪が、上着のポケットにしまっていたスマートフォンを取り出すと、確かにバイブレーションが振動している。
見覚えのない番号に、怪訝な顔をして着信を無視しているうち、電話の相手は諦めてコールを止める。
気づけば、画面には着信の通知が何件も溜まっている。そのうちのいくつかは、白雪の家に通っている家政婦だ。
白雪の不在に気づいて、慌てて連絡をしているのだろう。しかし、白雪は家政婦からの連絡を取る気にもなれず、放置している。大騒ぎになってしまう、と思いながら、自分から連絡を取りたいと思えないのだ。
このまま、クランと何でもない時間を過ごしたい。
先ほど着信があった番号から、ショートメッセージが届く。
スマートフォンの通知に、ショートメッセージの冒頭文の一部が表示される。
"ヒナちゃんへ
お久しぶり。渕之辺です。"
その名前に、白雪は目を見開く。スマートフォンの画面を食い入るように見つめ、ショートメッセージを確認する。
「この番号、
口元に薄く笑みを浮かべて、白雪がスマートフォンを操作しようと指先を動かした瞬間、
「待て」
クランの手が、白雪の手を掴む。その拍子にスマートフォンが砂浜に落ちる。ざり、と鈍い音がした。
「今、なんて言った」
急に問い詰められて、白雪は自分が何を言ったのか、慎重に思い出した。直前に白雪が言った言葉は、他愛もない一言だったはずだ。
「……渕之辺さんの、番号、って」
「シラユキ、そいつとどういう知り合い?」
戸惑いながら答えた白雪に、クランは睨むように白雪を見つめ、質問を続ける。
「私の、学校の先輩。仲良くしてたけど、去年、急に連絡つかなくなって」
説明したいのにしどろもどろな言い方になっている、と白雪は思う。
クランは今までとは打って変わって、ぎらついた眼になっていた。殺気すら感じるほどの勢いに、白雪は息を吞む。
「そう、わかった」
目を伏せ、一拍置いて、クランは白雪の手を離す。白雪の手は中途半端に持ち上がったまま、動けない。
「どうしたの? 渕之辺さんを知ってるの?」
その人物の名前が出ると、クランの様子が落ち着かなくなる。知り合いなのかと思うが、それにしては反応が不自然で、白雪は困惑する。
「安心して。そいつには、1ミリも興味ない」
「本当にどうしたの?」
クランは黙って、また正面を向くと海の向こうへ視線を遣る。
波が打ち寄せる音が何度も繰り返し聞こえた後、やっと口を開いた。
「フチノベって人、シラユキに優しかった?」
そう尋ねられ、白雪はクランと同じ方向を見つめる。
「優しかった」
白雪にとって、その先輩は優しい人だった。それは間違いない。
学校行事で顔見知りになった、鷹揚で明るい性格で優しかった一学年上の先輩。
「でも、去年、私が短期留学してる間に、連絡取れなくなって、渕之辺さんの友達の人にも連絡先聞いたけど、教えてもらえなくて」
白雪が言う、渕之辺 みちるの友達とは
「連絡取りたくないって思われているのかな、と思って、それきりだけど」
そう語ると、しょんぼりと肩を落とした白雪の背を、クランの手が優しく撫でる。
「ひどいヤツだな」
クランが憤っているのを見て、「え?」と白雪は意外そうな顔をする。
「シラユキがそんな悲しい思いするのは、許せない」
太陽の光を浴びた美しい少年は、労わるように優しく微笑んでいた。
「でも、何か事情があったのかもしれないし」
こんな光景はまるで映画のワンシーンだ、と頭の片隅で思いながら、白雪は言葉を選んで話す。
「ね、シラユキ」
砂浜に落ちた白雪のスマートフォンは、また誰かからの着信を受けて無機質な振動音を鳴らしている。クランはそれを一瞥するが構わず、白雪に言った。
「この二、三日だけ、俺に付き合ってくれない?」
白雪の耳には、波の音とクランの声しか届いていない。
連絡もなしに家を空けたら、学校や家政婦を通して、両親に連絡がいって大騒ぎになってしまう。
信頼できる誰かにそろそろ連絡をしなければ、とわかっている。けれど、クランがそれを許してはくれない気がした。根拠はないけれど、そう思った。
これからクランしてくる提案は、きっと褒められないものだ。きっと誰かを悲しませる。
褒められる? 誰に認めてもらおうと思ったのだろう。白雪は自分の中で問いかける。
ここまで非日常に踏み出してしまっているのに、いまさら戻ろうとするなんて、もう遅いのだ。
「……うん」
それでも、頷くのに躊躇いはあった。
白雪の返事を聞いたクランは、嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、これで良かったのだろう、と白雪は納得するしかない。
クランは何も言わずに立ち上がり、浜辺から道路沿いに向かって歩き出した。
白雪はスマートフォンを慌てて拾い上げ、クランの後ろについて行く。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます