32.

          * 


 

 二人が海へ行くと決めたのは、前日の夜のやり取りがきっかけだ。


 その日の夜は、少し気温が下がっていた。時刻は23時を少し回った頃合い。


 厚手の上着を羽織った白雪は、庭先のテーブルに紅茶を淹れたポットとカップを用意していた。

 椅子は、二脚目を倉庫から探し出して、通いで来ている家政婦が帰ってから並べておいた。

 さながら、真夜中のお茶会といった風情のセッティングが、そこに完成している。

 

 お茶会のセッティングを見た少年は、開口一番、

「日に日にもてなしが豪華になってる」

 そう言った。


「まぁね」

 素性の知れない相手のために、ここまで甲斐甲斐しくする理由はない。

 けれど白雪は、少年に会うのが一つの楽しみになっていた。


「いまさらなんだけど、あんたの家族はどこにいる?」

「両親は仕事でシンガポールにいるよ」

 白雪は少年の前へ置いたティーカップに、ポットの紅茶を注ぐ。注ぎ口から白い湯気がふわりと立ち上る。


「あんたもいつか、シンガポール行くの?」

「ううん。来年の春にアメリカの大学に留学する」

 白雪自身は、ホテル経営に携わるより、系列企業がやっている語学スクールの仕事に興味があった。去年も半年ほど、アメリカに留学している。


「中央アジアとかは興味ないの?」

 少年は、ティーカップの紅茶に息を吹きかけながら、白雪に尋ねる。

「中央アジア?」

「ロシアの下あたり、ヨーロッパと東南アジアに挟まれたあたり」

 白雪はピンとこない顔で、すまさそうに首を横に振る。

 

「ごめん、あんまり知らない」

「だろうね」

 気分を害した様子もなく、少年は目を伏せて薄く笑う。薄闇の中で、その笑みはとても静かで美しかった。

 

 その表情を綺麗だな、と見惚れてしまいそうになるのを抑えるのに、白雪は精いっぱいだ。


「あなたは日本語喋るけど、もともと? それとも習ったの?」

「習った。ロシア語、英語、フランス語、中国語、スペイン語、他にもいろいろ。喋るだけなら苦労しないレベルには」

「すごい」

 白雪は思わず拍手する。多言語を習得するのは、環境や教育という要素はもちろん、本人の努力こそ、最も大事だ。

 

「すごくない。仕事で必要だっただけ」

「なんのお仕事してるの?」

「人殺し」

 一瞬で場が凍り付いた。

 少年は何事もなかったかのようにティーカップをソーサーに置く。陶器の触れ合う音が響いた。


 白雪は目を見開いて固まっている。

 少年は目を伏せ、テーブルの上で自分の両掌を組む。


「あんた、見たでしょ? 俺があそこの蛇口で、血を洗い流してたところ」

 伏し目がちだった瞳が、すっと開いて白雪を見つめる。


「……うん」

 白雪は小さく頷くのを見て、少年は微笑んだ。寂しげで心許ない空気をまとった笑みで、白雪の心中は穏やかでない。


「あんたが何者か知らないけど、こんないい家に住んでるし、いいとこのお嬢さんなんだろ?」

 少年の目は白雪の背後にある邸宅全体に向けられる。


「俺の相手なんかしないほうがいいって」

「私は、あなたをもっと知りたい」

 お互いに素性を語らなくとも、それなりに境界線があるのは理解できていた。

 それをはっきり口にされると、何の意味のない否定の言葉しか、白雪は言えなくなる。


 そんな白雪の心中を知ってか知らずか、少年は小さく笑う。

「あんたって、ダメな男に捕まりやすいでしょ」

「それ、ひどくない?」

 場を和ますための軽口に、大袈裟なリアクションで返して、お互いに笑い合った。

 

 この少年と他愛ない話で笑い合える瞬間、白雪は何とも言えない幸福感に包まれる。相手が本当は何者かわからなくても、この瞬間だけは嘘ではないと思いたくなる。

 

 笑い合った後、少年は椅子に座ったまま背伸びをして、顔を空に向ける。


 大きなあくびをして姿勢を元に戻すと、不意にこう言った。

「ね、海、見に行きたい」

「いきなり何?」

 突然の提案に、白雪は目をまん丸にして聞き返した。

 少年はあくびをした拍子に目尻に溜まった涙を、指で適当に拭いながら答える。

「海。日本来てから、まだ行ってない」

「いい、けど、いつ行くつもり?」

「今から」

 それを言われたのは、日付が変わるくらいの時刻だった。


 白雪は着の身着のまま、少年はタクシーを捕まえて、海へと向かった。


 白雪の家に通う家政婦が白雪の不在に気づくのは、翌朝だ。

 明け方の海辺で、二人がはしゃいでいた時、まだこの出来事は誰にも気づかれていない。


 

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