30.
*
フチノベ ミチルを電話で呼び出すと、ものの30分で家に駆けつけてきた。
「あの綺麗な顔のクソ野郎、私の後輩を人質に取るつもりですか」
インターフォンも鳴らさず、スペアキーで入ってくるなり、話し始める。言葉の端々に怒りが滲み出ていた。
「そう考えるのが妥当」
咥え煙草でソファに横たわったまま答えると、リビングに入ってきたフチノベ ミチルは一瞬、心配そうに眉を寄せる。
何でもないとアピールするために右手を上げると、フチノベ ミチルは無言で頷いた。
「ちなみに、ヒナちゃんとまだ連絡つきません」
そう言うフチノベ ミチルの左手にはスマートフォンがある。フチノベ ミチルには、移動中にでも例の後輩に連絡を取ってみろ、と伝えていた。
「俺なら連絡を待つが、お前は?」
古式ゆかしい人質戦法。
待っていれば要求を通すために連絡を入れてくる。今連絡がつかなくても、大した問題ではない。
だがこの女は、そうもいかないと言うだろう。
「後輩はただの民間人ですよ」
ピリついた空気を纏わせて、フチノベ ミチルは語気を強める。黒い眼は少し血走っている。
「わかってる。大事なかわいい後輩なんだろ」
「かわいい後輩……」
フチノベ ミチルは急に、困惑と始末の悪い感じに心配と苦悩の入り混じる、表現に難しい表情を浮かべた。
「なんだその顔」
「あの子は、悪い子じゃない。ただ、ちょっと……重かった」
「重い?」
「連絡が来たら、すぐ返事しないと電話が鳴り続ける。それが毎日。
逆に、あの子に連絡したら即、返事が来る。だから、返事が返ってくるまでこんなに時間が空くのは、おかしい」
フチノベ ミチルの視線は下を向く。手にしたスマートフォンの画面を見ている。
見つめたところで、プリセットの壁紙の上に時計しか表示されていない画面。
例の後輩からの連絡の密度とレスポンスの速さに、ただの上下関係だけとは思えず、つい聞いてしまう。
「その後輩、お前の恋人だったのか?」
「いえ。そういうんじゃ……あの子、好きだと思った相手との距離感の詰め方が、なんていうか、急すぎるというか強いというか」
この女も、自分に対しては距離の詰め方がかなり強引なのだが、それ以上のものが、例の後輩にはあったようだ。
「在学中はただの先輩後輩として仲良くしてたんですけどね。
学生って身分を離れたら、私は健全な企業様と付き合うには相応しくない反社会的勢力の一員だから、ひっそりと連絡先を変えたんですよ」
自分が最初に会った時、フチノベ ミチルは武器商人だった。
だが、日本でのフチノベ ミチルは、歳相応に学生として暮らしていた。
何ら不思議な話ではないのだが、出会いが出会いだったので、フチノベ ミチルが学生として学校に通っていたイメージが沸かず、違和感がある。
例の後輩は、フチノベ ミチルが武器商人だと知らず、慕っていたのだろう。
「中途半端な拒絶が、一番拗れるぞ」
どの口が言っているのだ、と我ながら思うが、言ってしまった。
「それはそう、なんだよね。うん、私が悪い」
「現状、お前と後輩の関係は拗れてたって理解でいいんだな」
「拗れてたっていうか……私が拗らせた」
少しだけ物悲しそうな顔をした後、自嘲するように笑っていた。
例の後輩が、フチノベ ミチルに対してどんな感情を持っているのかわからないが、もし敵対感情を抱いていたとしたら、想像よりも良くない展開もあり得る。
床に置いた空き缶の口で煙草の火を消すと、缶の中に吸殻を捨てる。新しい煙草に火をつけ、煙を吐いた。
フチノベ ミチルは硬い表情で、何度もスマートフォンの画面を見ては溜め息をついている。
これだけはフチノベ ミチルからはっきり聞いておかなければならないと思ったことを、口に出す。
「後輩の命はどれくらい大事だ?」
「後輩がこちらに歯向かってきたら、殺していいか、って?」
懸案事項は、お互いに一緒だった。
感情のない黒い眼が向けられるかと思っていたが、この時向けられたのは、強い意志のこもった目線だった。
「それはだめ。後輩の安全確保が最優先」
声を荒げるでもなく、はっきりとその意志を伝えてくる。
「後輩の確保に手間取っている間に、蠍が逃げたら?」
「最優先は、あの子の安全確保。蠍は追えなくてもいい」
もう一度、フチノベ ミチルは同じ回答をした。この言葉が嘘でないようにと祈るしかない。
こちらが疑心暗鬼なのを見透かすような黒い眼と、無言のまま視線を合わせる。
その静けさは、スマートフォンのバイブレーションの音が破った。
「マナトだ」
電話をかけてきた相手の名前を呟き、フチノベ ミチルはスマートフォンを耳に当てる。薄っすらと相手の声が聞こえるが、明瞭には聞こえない。
「……不穏な空気だけど、何かあった?」
そう言って、フチノベ ミチルはおもむろにスマートフォンの音声をスピーカーに変え、床に置く。この部屋にテーブルもないのが、不便だといまさら思う。
『ヒナが行方不明になった。ヒナの学年の先生たち、緊急招集かかったりしてるらしい』
スピーカー越しに聞こえるのは、若い男の声だった。周囲からガヤガヤとした音が混ざっているので、人混みの中で話しているのだろう。
「ヒナちゃんは、今日登校してたの?」
フチノベ ミチルは床に置いたスマートフォンの画面を見つめ、腕組みをする。表情は硬い。
『今日は連絡なしで休んでたらしい。昨日は来てたって』
「誘拐の痕跡は?」
クガの息子と会話している口調は淡々としているが、腕組みをした手の指先は、落ち着かない様子で動いている。
『ヒナの家の周り、今確認させてる。とりあえず、なんか痕跡があったら連絡するし、お前も手が空いてたら探して』
「わかった。こっちも何かわかったら連絡する。一旦切るね」
床に屈み込むと、フチノベ ミチルはスマートフォンの画面をタップして電話を切る。
そのまま、こちらに顔を向けて、
「今のは私の幼馴染、ジャパニーズマフィアの息子で、こうやって耳に入れた情報をくれる」
電話の相手の説明をする。されなくとも、わかっているのだが。
「クガの息子だろ」
「話が早い。”深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ”」
自分の口から「クガの息子」と出てきたのが予想外だったらしく、目を見開いてニーチェの言葉を引用してきた。
「お前らが覗いていたのは、俺のただの日常だ。こっちの方がはるかに深いところまで調べている」
「真顔で気持ち悪いことを言いますね」
いちいち癪に障る言い方をする女だと思う。
「で、ヒナって名前なのか、その後輩は」
苛つきながら、後輩の話に戻してやる。
「フルネームは
後輩はヒナカワ、クガの息子はマナトと、顔も知らない新しい登場人物の名前を、頭の中にインプットする。
任務に関する情報を覚えるのは苦ではないが、任務でも何でもない情報を覚えるのは、シンプルに苦だ。
フチノベ ミチルの左手が、不意に窓の向こうを指差す。
「ヒナちゃんの家は、老舗のホテル経営者一族。ここから見えるあのホテルも系列」
指差した先にある建物は、見覚えのあるホテルだった。
「蠍が男を殺したホテル」
「それは初耳だけど?」
手を下ろし、フチノベ ミチルは少し驚いた顔でこちらを見る。
「このセーフハウスに移動する前日まで、あのホテルに俺が泊まっていた。そこで蠍と遭遇した話はした」
そうですね、と相槌が入る。
「その翌日に、あのホテルで男の死体が見つかった。ニュースにもなっている」
それを聞いて、フチノベ ミチルは手元のスマートフォンで検索しようとしていた。
「あぁ……本当だ」
たった4日前の事件だ。検索すればすぐに出てくる。
「殺された人は、あなたたちに関わりがある人?」
「いや。おそらく、蠍とワンナイトしようとしただけの男だろう。そこで蠍の機嫌を損ねて、殺されたんじゃないか」
狐が言うには、蠍はその日暮らしで日々を食い繋いでいる。その流れで、運の悪い犠牲者が出た。ただそれだけの話。
「あいつがヤバいヤツなのはわかっていたつもりだったけど、私の認識が甘かった」
フチノベ ミチルは険しい顔で虚空を睨む。そして、囁くような小さな声で、ぼそりと呟いた。
「あの綺麗な顔の人がそこにいるだけで、死人が増える」
蠍が積み上げる死体の山に混ざるのは、自分かもしれないし、この女かもしれない。もしくは例の後輩か。
「ヒナカワの周辺を調べるのは、狐に任せろ。これ以上、死体を増やしたくないなら、クガの手下には手を引いてもらえ」
クガの手下がどれくらいの人数で動いているのかわからないが、蠍にとっては、暇潰しにもってこいの獲物がぞろぞろ揃っている、くらいの感覚でしかないだろう。
「玖賀の手下の皆様は、玖賀パパの命令しか聞かない」
フチノベ ミチルは真剣な顔で、真っ向から否定をぶつけてくる。
「なら、そのクガのパパに言っておけ」
「玖賀パパは私の話なんか聞いてくれませんよ。玖賀パパが私に協力してくれるのは、私の母と玖賀パパが仲が良かったからで、私が頼んだからじゃない」
クガパパ。ジャパニーズマフィアのナンバー2。さっき電話をかけてきた、マナトの
「つくづく面倒臭い」
これが故郷だったら、フチノベ ミチルの周りの事情など考慮してやる義務はない。だが、
「一つ聞いても?」
こちらをじっと見つめる黒い眼は、疑問形で尋ねているが、問いかけの拒否は認めない、と言わんばかりの強さがある。
「サバちゃんにちょっかい出すためだけに、こんな手間暇かけるのが、意味わからない。あいつ、何がしたいの?」
何がしたい、と聞かれたら、こう答えるしかない。
「お前の後輩を盾にして、最も有利な状況で、俺と殺し合いをする。
俺を殺して、ついでにお前と狐を始末して、
吸い終わった煙草の火を空き缶で消し、新しい煙草に手を伸ばす。これが何本目か数えるのも忘れた。
「ついで、って扱い雑すぎる。……蠍はなんでそんなに、サバちゃんにこだわるの?」
「嫌いなんだろ、俺が」
自分には、そうとしか言いようがない。
そこまであの子供を追い詰めているのは、誰か。
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