29.

         *



 この家のリビングはガラス張りで、昼間は容赦ない陽射しが当たる。カーテンを用意しなかったのを今になって後悔した。

 顔に当たる陽射しが強烈すぎる。苛立ちで舌打ちしながら、ゆっくり起き上がった。


 煙草に火をつけ、一息つくと、右手がちゃんと動くか確認する。右掌を何度も開いたり閉じたり、関節が曲がるかをこの目で見て、やっと落ち着く。

 それくらい、利き腕を痛めたことに不安を感じているのだ。情けない。

 

 不意に、リビングの床に放置していたスマートフォンが振動する、鈍い音が響いた。馴染みのある電話番号に、嫌悪感しかない。


 スマートフォンは床に置いたまま、音声の入出力をスピーカーに変えて通話に出た。

『ミッチー、クガの息子に呼び出されてたよ。お前、昨日クガの診療所使ったでしょ』

 リーシャロはこちらの動きを見てきたかのように言う。

 

 この男の情報網は通り抜ける隙間がない。クガの周りには入り込めないと言っていたのは嘘なのかと思うほど、情報が集まっている。


「だから嫌だったんだよ」

 とはいえ、神経に傷がついていないと診断してもらって、不安材料が消えた。それは良かったと思っている。


『そんな深手負ったの?』

 一応、傷の心配はしてくれるらしい。

 

「いや。ただ右腕をやられた」

『あぁ、状況が状況だからね。その判断は間違ってないよ』

「笑うな」

 こちらが怪我をして弱腰になったと思ったらしく、狐は堪えきれない笑いを漏らしている。


『いつスコルーピェンに会ったの?』

「一昨日の夜。セーフハウスに割と近い地点で」

 昨日は何もなかった。

 なんならフチノベ ミチルはこの家に来なかった。わざわざ連絡は取らなかったが、今日クガの息子に会っているなら、生きているのは確かだ。


『じゃ、新しいセーフハウス、一応探しておくよ』

「頼む。蠍の動向は?」

『あのクソガキ、珍しくここ数日、一人の女のところに通ってる』

 普段、蠍は一夜限りの相手のところにいる。だから「珍しく」と付け加えられるわけだ。

 

「なんでこう、俺の周りには女癖悪いのしかいないんだか」

『ホント不思議だよねぇ』

 狐は笑いを噛み殺しながら言うが、笑い過ぎてきちんと発音できなくなっている。もはや雑音に近い。


『えーと、真面目な高校生の女のコなんだよ。17歳、俺にはちょっと幼すぎるな〜。でもって、大手ホテル経営者一族のご令嬢。こんな怪しくてチャラいおっさんはなかなか近づけないんだよねぇ』

 一つ驚いたのは、この男が自分自身の胡散臭さを理解していたことだ。

 とりあえず女だったら誰彼構わず粉を撒くんだと思っていたが、攻略しにくい相手もいるらしい。

 

「たしか、蠍もそれくらいの歳だったな」

『蠍は18。奇遇なことにミッチーと同じ』

「……知らなかった」

 そう考えると、時々見せる感情的な仕草は、歳相応といったところだろうか。


『さて、その女子高生、フチノベ ミチルの通ってた学校の一学年下の後輩ちゃん。ちなみにフチノベ ミチルは、その学校を昨年3月で中退してる。

 で、ミッチーがまだ学校にいた頃、学校活動の中で知り合ったミッチーと後輩ちゃんは、仲良くなったんだとさ』

 わざとなのか、狐は軽薄な語り口で話し続けている。自分は、煙草のフィルターを噛むしかない。


『これが意図的なら、あのガキもなかなか考えてる』

故郷くにの名前を汚すやり方だ」

 故郷でない場所で、蠍が人を殺せば殺すほど、リエハラシアの、そして自分がいた部隊の名は悪名高きものとなる。


『そうだよ。だって、蠍には何の後ろ盾もないんだから、手段を選ぶ余裕がない。その状況でこの案を採るのは理解できるよ、俺はね』

「お前ならもっといい方法を考える」

 故郷では有能な作戦参謀だったくせに、何を言っているんだと思った。


 この男は最小限のリスクで最大の効果を出す作戦を、故郷ではいくつも編み出してきた。蠍のひどい愚策を、この男が評価するはずない。


『それはそう。俺には、ここまで大事に培ってきたツテがあるからね。でもあのガキにはない』

 武器を持たない人間は、武器を求める。

 相手を潰すために、より破壊力の大きいものを。


『そこまで追い詰めてるのは誰だと思う?』

 その言葉を発した男の声は、穏やかだ。見透かされているようで癪に障る。

 何も言わずに、床に置いたままのスマートフォンの画面に表示されている終話キーをタップして、フチノベ ミチルの番号を連絡先から探した。


 

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