27.
*
昨夜の出来事の現実感はないが、それでも今朝捨てた真っ赤なTシャツの色は、白雪の脳裏に焼き付いている。
昨日と同じくらいの時刻よりも早い23時過ぎから、白雪は自室の出窓のカーテンを開けて外を見ている。
防犯システムがいじった本人から、業者に連絡した方がいいと言われたが、今日の時点で業者に連絡せず、少年が来るのを待っている。
今日来なければ、業者に連絡する。そして、もっと強固な警備体制にした方がいいとも考えている。
その方が安全だとわかっていながら、そこに躊躇いがあるのは、あの少年が今日現れてくれるのを、白雪が切に祈っているからなのだろう。
庭先のライトは人感センサーがついているし、ちゃんと機能すると今朝確認したはずなのに一切反応せず、庭に植えられたオリーブの木の隙間から、彼は現れた。
白雪は慌てて窓ガラスを開けて、半分身を乗り出す。
「ちゃんと来た」
「あんた、服返しにこいって言ったじゃん」
火のついた煙草を咥えた姿で現れた少年は、白雪が貸した父親のシャツとタオルを袋にも入れていない状態で手にしている。
「本当にくるとは思ってなかった」
「何だよそれ」
少年は呆れた顔で、服とタオルをどこに置けばいいか迷っているような仕草を見せる。薄暗い夜闇の中、白雪は目を凝らして少年の顔を見る。
「顔、すごいけど大丈夫?」
「顔がどうしたって?」
「殴られた?」
白雪は自分の鼻あたりを指さし、庭先で手持ち無沙汰に立っている少年に尋ねる。
「あぁ、うん。そう」
少年の言葉は妙に歯切れが悪い。ただ、昨夜のように誰かの返り血をつけていないのを見て、白雪は少しだけ安心する。
「冷やした方がいいよ」
冷凍庫の氷を詰めたビニール袋でも持って行ってあげるべきだろうか、と白雪は頭の片隅で思いながら声をかける。
「ついでにマスクも持ってきて」
少年は白雪に、殴られた顔を隠すためにマスクを要求してきた。
今日も傍若無人だった。このふてぶてしさは、何ら変わらない。
「貸すのはいいけど、明日返してよ」
「さすがにケチすぎるよ、あんた」
「そこでちょっと待ってて」
貸し借りの話で、露骨に嫌な顔を見せた少年に意地悪く微笑んだ後、白雪は階下のリビングへ駆け降りる。
この庭には、蛇口から少し離れたところにテーブルと椅子が一脚設置されている。両親が海外赴任する前から、このテーブルセットは飾りとしてしか機能していなかった。
その椅子に、少年は座っている。
「あんたさ、悪いヤツじゃないよね」
「あなたよりかは、ね」
少年は、白雪を素直にいい人だと言わない。
椅子の向かい側に立っている白雪は、氷水を入れて口を縛ったビニール袋を、少年が持ってきたタオルに包んでいるところだった。
「怖くないの?」
「怖いよ」
「そうは見えないけど」
口では怖いと言いながら、白雪は何でもない顔でタオルに包んだ氷水の袋を差し出す。それを受け取りながら少年は薄く笑った。
少年のその笑みを見て、白雪は目を細める。そしてぼそりと呟いた。
「怖いよりも、あなたがどんな人なのか知りたいと思ってるのかもしれない」
「意味がわからない」
顔にタオルを当てている少年は白雪の言葉に首を傾げる。本当に、意味がわからないと戸惑っている。
「私もわからないよ」
白雪は自嘲にも近い、困ったような笑みを浮かべた。
昨日は庭先と二階の部屋という距離があったが、今は目の前にいる。
黒っぽい髪色、黒目がちな瞳、白い肌に形の良い唇。
自分とは似て非なるものが、少年の目の前にいる。胸元まで伸びたふんわりとした髪は、少年が知る人々とは違う。
怖い、と言いながら、真摯に向き合ってくる眼差しは、他の誰とも違う。
少年の目の前にいるのは、害意のない、穏やかな存在だ。
「ね」
少年は無意識に、声をかけていた。
「また来てもいい?」
それを聞いた白雪の表情が一瞬曇ったのを見て、少年の瞳が揺れる。
白雪は一階の部屋の窓に貼ってある防犯システムのステッカーを指差した。
「それって毎回、うちの防犯システムいじる気?」
「あ、うん、そう、なる」
唐突に防犯システムの話を出されて、少年は対応できず、しどろもどろになる。
「じゃぁ、事前に連絡ほしいな。毎度毎度防犯システムいじられると、こっちも困る」
白雪は、持っていたスマートフォンをテーブルの上に置く。
「基本的に夜は家にいるよ。平日の昼間は学校」
「わかった」
お互いの連絡先をスマートフォンのトークアプリに登録すると、少年は椅子から立ち上がる。
「明日、またタオル返すよ」
結局、貸し借りは今日も続いた。
また明日、会いましょう。
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