26.

         *



 いかに人目につかず、防犯カメラにはっきりと映り込まずに辿り着けるか。

 ルートをいくつも考えながら、セーフハウスとして借りた建物に向かった。


 頭の中で想定したルートを踏破し、玄関のドアを開けると面食らう。


 そこに靴が一足あったからだ。この家のスペアキーを持っているのはただ一人。

 そして、その人物は何故かまだ、家にいる。


 毎日何かしらのアルバイトに行っている、と言っていたはずだが、終電がなくなっている時間にも関わらず、ここにいる。


 帰宅するのを諦めるような何かが起きたか。

 だが、さっきの蠍の様子を思い出しても、昨日今日でフチノベ ミチルと接触したとは思えない。

 

 自分しかいないはずの家の中に他人がいるのが、どうしようもない居心地の悪さを覚える。

 明らかな気配のある空き部屋に向かうより先に、洗面所へ寄る。


 洗面台の下の収納にしまってある、応急処置ファーストエイドセットを取り出した。

 そのまま鏡の前に立つ。

 不機嫌そうな目つきの悪い男が、肩まで伸びたウェーブヘアをぼさぼさにして煙草を咥えている。右腕と首筋から血を流しながら。


 我ながらひどい姿だと思った。故郷でこんな姿を晒していたら、敵どころか味方からも笑われながら、殺されていただろう。

 

 首の左側、動脈にかけて表面だけ一直線に切られている。しっかり刃が入っていれば、綺麗に動脈を掻き切っていたはずだ。

 右腕、二の腕部分。上腕動脈を狙ったであろう刃先は、肉を抉るだけで終わっている。傷口からは血が流れ続けている。

 垂れてきた血が指先から滴り落ちるのを見て、舌打ちが出た。

 

 空き部屋から慎重に近づいてくる気配がある。気配を消さないのはわざとなのか、忘れているのか。


 あの女は何を考えているのか、いまだにわからない。


 締め忘れた洗面所のドアから、黒い銃口が一番最初に現れる。それから、一歩踏み込んできたのは、黒髪の若い女。


 向けられた拳銃ベレッタ92のセイフティは外されていなかった。

 十中八九、ここにいるのは自分だと思ってはいたのだ。


 自分の姿を確認するなり、フチノベ ミチルは拳銃を降ろし、床にしゃがみ込む。

「帰ってきたなら言ってよぉぉぉ……怖いって」

 

 安堵の混じった、呻きのような情けない声がする。半分以上の確率で自分が現れると思って動いていた割には、大袈裟なリアクションをしている。


 相手してやるほど機嫌が良くないので、黙って応急処置セットの蓋を開けて、必要な道具をいくつか洗面台に並べた。


「怪我してる」

 この姿を見られたら当然の反応なのだが、改めて他人から言われると不快に思う。

 

「見た目は派手だが、大して切れてない」

 そう言いつつ、首に消毒薬をつけたガーゼを当てると、血が滲んでいた。


「傷が深い腕から処置した方が良くないですか? それに、利き手は右でしょ?」

 自分の前に差し出された女の左手に、包帯や消毒薬やガーゼを渡す。


「シャツ脱いで」

「何でこんな時間にお前が居る」

 シャツを床に脱ぎ捨てると、すぐに右腕にひんやりとしたガーゼが当てられた。消毒薬をこれでもかと染み込ませてある。

 

「在庫を運び入れてたら、終電逃したんですよ。

 ちゃんと指示通り、玖賀のおうちから、いろいろ経由して痕跡追えないように注意しながら、全部運んだから」

「……そりゃご苦労だったな」

 在庫を運び入れろと昨日、移動手段や手順まで指示したのは他でもない自分だった。


 だが、終電を逃す時間まで作業しなくていい、とまで言わなければならなかったのか。


 他人に腕を素手で触られている感触は、どうにも嫌悪感があるが、フチノベ ミチルに悪気があるわけではない。むしろ善意だ。

 煙草のフィルターを噛み締めながら耐える。


「殺した?」

 誰に襲撃されたかは言わずとわかっていて、結果を聞かれる。思わず鼻で笑った。

 

「残念だが、まだ生きてる。あれは俺にちょっかい出すのが生き甲斐らしい」

 止血のために二の腕の傷口を押さえているフチノベ ミチルの左手のガーゼから、じわじわと血が伝っていく。その肘から床に血が落ちた。

 フチノベ ミチルは血で染まったガーゼを見つめながら、特に反応は示さない。


「そのうちお前にもちょっかい出しに来る」

「それは楽しみ」

 自嘲気味に、フチノベ ミチルは言う。

 だが今は、蠍の話よりも傷口に意識が向いているように見える。


「ちょっかい出されても絶対、相手にするな。あいつは俺に用があるだけだ」

「自分の存在を相手に認識してもらえないのは、屈辱的ですね」

 その言葉に対し、認識されている方がよっぽど面倒だ、と呟くと、力なく微笑まれた。

 その笑みが、何を言いたいのかは読み取れなかった。


「一応、病院行った方がいいと思う。玖賀御用達の医者、紹介できますけど」

「必要ない。これくらい擦り傷と同じ」

応急処置ファーストエイドと治療は別物だよ。利き腕やられてるのに、強がらない方がいいと思う」

 フチノベ ミチルの言葉も間違ってはいない。

「クガとやらに恩を売りたくない」

 だが、これに尽きる。

 

「渕之辺の口利きって言えばいい」

 フチノベの名を出そうと出さまいと、クガの息がかかっているところはクガに嗅ぎつけられる。


 煙草が燃え尽きかけていたので、蛇口から水を出して洗面台のボウルに投げ捨てた。

 それから口を開こうとした瞬間、

「人間は簡単に死ぬ構造をしている、でしょう?」

 昨日、この女に言った言葉が、そのまま自分に返ってくる。

「その吸い殻、後でちゃんと捨てなよ」

 そして、至極真っ当な指摘もされる。


 傷口を押さえていた手が離れ、ゆっくりとガーゼが剥がされる。喋っている間に、血は止まっていた。


 フチノベ ミチルは濡れた吸い殻をボウルから拾い上げ、それから手を洗った。

 タオルが見当たらないのに気づいて、服で大雑把に水を拭って、消毒薬を手に擦り込む。

 新しいガーゼを手に取ると、再び傷口に当て、包帯を巻き始めた。

 武器商人が怪我の手当てに慣れているのは少し意外な気がした。


「首は自分でやる? 私がやる?」

 包帯を巻き終えたフチノベ ミチルが尋ねてくる。止血は終わったとはいえ、右腕を動かすのは億劫だった。

 

「頼む」

 体ごとフチノベ ミチルの方に向けると、顎を上げろと言われる。

 さっきと同じように傷口にガーゼを当て、押さえつけて止血する。

 こうやって首を触られるのも、先ほど同様に嫌悪感があるが、奥歯を噛み締めて耐えるしかなかった。

 

「一つ聞いても?」

 その時のフチノベ ミチルは、今までの流れとは打って変わって、神妙な口ぶりだった。


「蠍と昔、何かあったんですか?」

 首筋の傷口を押さえられているだけだが、この手は、首を絞めようとしてくるかもしれない。

 何の根拠もないが、そんな風にぼんやりと思った。


「お前には関係ない」

「へぇ、そうですか」

 フチノベ ミチルの質問に答える気はなかった。フチノベ ミチルも自分がすんなり答えるとは思ってなかったのだろう、それ以上食いついてはこなかった。


 首筋にかかる手の力が緩んで、血がついたガーゼを丁寧に剥がしている。その後、さっきと同じように、手についた血を洗い流した。

 フチノベ ミチルの手が離れて、ほっとして思わず深い溜め息をついた。


 だがすぐに、離れていったはずの手が、首筋に伸びてくる。その手は新しいガーゼを当て、テープで留める。テープが剥がれないように押さえてくる手の感触が、本当に苦手だ。


 思わず顔を背けていると、話しかけられる。

「私について、あいつは一言も、何も、言ってなかった?」

 伏し目がちになった、心なしか虚ろな黒い眼。

 存在を認識してもらえないのは屈辱だと言うが、厳密に言えば認識されてはいる。


「あぁ……お前をバケモノとは呼んでいた」

 あいつからしたら、この女はバケモノ扱いだが。


「あんのクソ野郎」

 フチノベ ミチルは、わかりやすいほど顔をしかめ、憎々しそうに口元を歪める。

 

 無性に煙草が吸いたくなって、いつものようにシャツに手を伸ばそうとした。

 そこでやっと、上半身が裸なのを思い出す。舌打ちしながらシャツを拾い上げて、煙草の箱を取り出した。


「お前、この後どうする気だ」

 咥えた煙草に火をつけ、着替えのシャツを探しに家の中をうろつきながら、大声で尋ねた。


「歩いて帰る」

 フチノベ ミチルの間延びした声が、洗面所から遠ざかる。


 思わず玄関の方へ向かうと、鞄を持って靴を履こうとしている後ろ姿があった。

「始発まで、ここにいても構わないが」

「好きでもない男の人の家に一晩とか、ちょっと、ねぇ?」

 わざわざ「好きでもない」を強調する言い方をするのが腹立たしい。

 

「自意識過剰はお前の方だからな」

「ほぉ。取っ組み合いの喧嘩する? そっちが怪我してても容赦しないよ?」

「面倒くせぇヤツだな、本当に」

 何故こんなウザったらしい絡み方をしてくる相手と、接点を持ち続けてしまっているのか。それは自分のせいなのは、間違いない。

 かたやフチノベ ミチルはけらけらと笑っている。子供みたいに無邪気に。


 

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