4. Day2
21.
*
老舗ホテルの創業者一族の家系に生まれ、系列ホテルのオーナーの職に就いている両親のもとで、大切に育てられた一人娘だった。
今、白雪の両親は系列ホテルの新規オープン準備で海外赴任、現在高校3年生の白雪は、高校卒業までは日本にいることを選択した。
週5日、日中は家政婦が通ってくるが、それ以外は一人、この邸宅で暮らしている。
風呂から出て、白雪は自室に戻ってベッドに腰掛けた。スマートフォンを手に取り、時間を見る。23時47分。
ふと、蛇口からしっかりとした量の水が流れる音が聞こえ、白雪は浴室やキッチンを確認しにいく。しかし、どれもきちんと栓が閉まっている。
しかし、水の音は続いていた。
一体どこから聞こえる音なのか、わからない。一人で広い家にいる心細さもあって、白雪は階段を駆け上がって、自室のドアに鍵をする。
誰かが侵入しているなら、警報システムが作動するはずなのに、どうして作動しないのだろうか。体が勝手に震えて、スマートフォンの画面に触れてもうまく反応しない。
耳を澄まして、水音の方向がどこから聞こえるのかを探る。
だんだんと、外から聞こえているように思えてきた。が、外を見るには、出窓のカーテンを開けなくてはならない。
数分、カーテンに手をかけるか否か迷い、スマートフォンをお守りのようにしっかりと握り締めた。
深呼吸を一度して、カーテンを指でそっと捲り、外の景色を窺う。
庭の片隅にある水道の立体栓。植木や鉢植えの手入れのために繋いであるホースは外され、受け皿の傍に転がされていた。
蛇口の隣で、二の腕あたりを水で洗い流している人影が見えた。
白雪は人影を見た瞬間、小さく悲鳴を上げるが、すぐに片手で口を押さえて声を堪える。
ここから見ていると気づかれるのが恐ろしかった。
背丈は白雪よりも10㎝ほど高いだろうか。ところどころ黒ずんだデニムを履く足は、長くすらりとしている。なぜか上半身は裸で、体の線は細いが筋肉質。
白雪と同じくらいの年代の少年に見えた。
視線に気づいたのか、カーテンが動いたのに気づいたのか、庭先にいる少年が出窓を見上げた。
白雪の心拍数は跳ね上がる。恐怖で声も出ない。
しっかりと視線が合った。
刺すような、警戒を隠さない鋭い眼差し。
この眼を、文学的に書き表すならば、よく表現で使用される「人を殺すような眼」というものなのかもしれない、と白雪は思う。
だがそれ以前に、こう思った。
綺麗な人だ、と。
いまさらだが、感知式のガーデンライトが一切反応していない。明かりは心もとない三日月と、近くにある街灯だけだ。
薄っすらとした庭先の闇の中、少年は淡い色のボブヘアを邪魔そうにかき上げ、唇を真一文字に引き結んでいる。メイクでもしているのかと思うほど、唇の色がはっきりしている。
少年は、白雪から興味をなくしたらしく、顔を背ける。
肘から手首にかけてを洗い始めた。
蛇口から少年の腕を経て、受け皿に流れる水は時折黒っぽい色が混ざる。
暗さのせいでそう見えるだけなのだろう、と思った。少年の身なりを見ていると、泥のようなものの汚れとは思えなかった。
少年は再度顔を上げ、白雪に向かって何かを喋った。
口の動きだけでは何と言われたのかわからず、白雪はゆっくりとした手つきで静かに窓を開ける。
「さっきから何見てんの」
「え」
てっきり、脅しや強い言葉を投げかけられているのだと思っていた白雪は、思いがけず、とても平凡な声掛けをされて戸惑う。
「そこでプルプルしながらなーんもしないの、平和ボケすぎない?」
「わ、私の家で、何してるの」
白雪は声を張り上げる。自分でも情けなくなるほど、声と体が震えていた。
スマートフォンを握り締めながら、少年とはこれだけ距離があるのに、殺される、と思った。
一方、少年は半笑いで手につい汚れを洗い流し続けている。
蛇口を締める、キュッという甲高い音が響く。
少年は一階の部屋を指差し、出窓で硬直している白雪に微笑んだ。
白雪にとって少年が見せた笑みは、華やかで美しく、そこだけに光が舞っているようだった。
「侵入してからだいぶ経ってるんだけど、その防犯システムのシールって飾り?」
現実に引き戻すような言葉だった。
少年は確実に侵入者で、作動しているはずの防犯システムは用をなしていない。
「通報する」
白雪は、少年にスマートフォンの画面を見えるようにしながら言う。
「悪かったって。防犯システム、ちょっといじったから明日、業者呼んだ方がいいよ」
「え?」
この話しぶりからするに、防犯システムを作動しないようにしてから侵入したような言い方だ。犯罪者として正々堂々としすぎる言いぶりに、白雪の背筋には嫌な汗が流れた。
「ごめん、タオル貸して」
「そ、そういうこと、よく言えるよね⁉︎」
少年が悪びれもなくタオルを貸せと言ってきた態度に、呆気にとられた。
春とはいえ、夜は冷える。水に濡れた腕から体温は奪われていくだろう。
なぜか侵入者は平然と振る舞っていて、そのペースに白雪は流されてしまっていた。
いつの間にか、白雪の体の震えが治まってきていた。
白雪は釈然としない部分もありつつも、窓から離れて浴室へ向かった。
洗濯済みで綺麗に畳まれたフェイスタオルを一枚手にし、階段を上る。
自室に戻る途中で、父親の部屋に寄る。主のいない部屋は静まり返っている。
父親のクローゼットを開け、ハンガーにかかっているシャツを一枚手に取った。
こうしている間に逃げられているかもしれない。
それならそれで、危機が去ったとも言えるので、それでもいい。
白雪が自室の窓辺に戻ると、相変わらず少年は窓を見上げて、手持ち無沙汰に立ち尽くしていた。
「貸すんだから、返してよ!」
「無理。タオルの一枚くらい、どうでもいいっしょ?」
少年は鼻で笑うが、白雪はにこりともせず言葉を返す。
「じゃあ貸せない。これ、お父さんのお気に入りのシャツだから、なくなったら大変」
白雪は窓から腕を伸ばし、少年に見えるようにタオルと青色のシャツを見せる。
父親のお気に入りと言ったのは方便だが、これくらい言っても許されると思った。
「……明日、今くらいの時間、ここに来る」
舌打ちしてから、少年は不服そうに言う。それを聞いて、白雪はタオルとシャツを少年目がけて投げる。着地点は少年からズレたが、そう遠くない。
タオルを拾い上げ、体や腕を拭きながら、少年が話しかけてくる。
「あんたは恩人だよ」
次に拾い上げたのは、白雪の父のシャツ。少年が着るには、そのシャツは少し大きかった。
「困った時は助けてやるから」
少年の言葉に、嬉しさより少し困った気持ちになったのは、ここだけの話だ。
この少年が解決できる問題は、きっと危ない橋を渡るようなことなのだろう。こんなに当てにならない言葉もない。
そして少年は、シャツのボタンを留めると、さよならの挨拶もなしに、さっさと植え込みの中に潜り込んでいく。
そのまま跡形もなく消えて行ってしまった。
白雪は窓際を背にずるずると膝を抱えて座り込む。
恐怖心よりも、相手の美しさに見惚れてしまった自分に驚いてしまった。
そして自分が、恐怖心よりも好奇心を優先した行動をしたことに、もっと驚いていた。
まるで夢のような出来事だった。悪夢と夢の狭間の、とてもとらえどころのない夢。
翌朝、庭に昨日の痕跡がないか探していると、使用頻度の高くない園芸用品を収納しているコンテナの蓋が僅かに浮いているのを見つけた。
試しに開けてみると、パッと見は異変がないように思えた。念のために物を取り出しながら探っていくと、血まみれのTシャツがぐしゃぐしゃに丸められて詰め込んであった。
淡いグレーの無地Tシャツだったのだろうが、グレーの生地の色は血の色の隙間隙間で覗けるだけだ。
血の色はまだ赤く、つい最近ついた血なのは明らかだった。
少年が洗っていたのは、体についた血だったのかもしれない。
受け皿に流れいった水の中に混じっていたのは、手についた血の色なのかもしれない。
不思議と、手は震えなかった。
家政婦が来る前に色付きのごみ袋を用意して、血まみれのTシャツを詰め込む。
そして、燃えるごみ専用の有料袋に、そのごみ袋をさらに押し込んだ。奥へ奥へ。
学校に行く途中、このごみ袋をごみ収集所に捨てて行く。普段からごみ捨ては白雪がやっていたので、何の不自然もない流れだ。
あの少年が起こした、何かの犯罪の共犯者になったのかもしれない。
しかし、いずれあのコンテナを処分する日が来た時に、こんなものが出てきたら、それこそ大騒ぎになってしまう。
そして、報道された暁には代々続いているホテルチェーンの名に傷がついてしまう。
跡継ぎになるつもりは一切なくても、自分の行動が何を引き起こすかを考えながら生きなさい、と両親に言われて育ってきたのだ。
だから、ここで処分する方が最適解のはず、と白雪は自分に言い聞かせる。
こんな話をできる相手は、今いない。
どうか話を聞いてほしい、どうしたらいいか教えてほしい、と願えども、それはできない。
何も言わずに話を聞いてくれそうな人とは、もう連絡がつかない。
白雪はスマートフォンのカメラロールを探って、一枚の写真を出した。
白雪が見ている画面には、白雪が高校一年生の時の文化祭の写真が表示されている。
お化け屋敷の会場になった教室。段ボールで作ったブラウン管テレビの隣に屈んで、笑顔を見せる制服姿の白雪。そして白い装束を着込み、長い髪をぼさぼさにしてテレビから這い出てくるポーズをとる女。
「話したいです……渕之辺さん」
よりによって白雪は、このお化け姿の渕之辺 みちるの写真しか持っていなかった。
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