20.
*
ホテルのスイートルーム専用のカウンターを通り過ぎた辺りから、気配は感じていた。
腰に挿した
振り返りざま、飛びかかろうとしてきた影に蹴りを入れようとしたが、あっさり躱された。
向き合う状態になって、相手がナイフをちらつかせてきたのを見て、拳銃を抜く。
ここでこんな立ち回りをするのは避けたい。分が悪い。日本はあなたの故郷とは違う、と言われたばかりだというのに。
それをわかっていても強行するのが、蠍だ。
「本当にお前はこの仕事に向いてない」
一年前と変わらず、むしろ一年前より妖艶さが増した姿で、蠍は居た。
接近戦を好むのは昔から変わらず、蠍らしいと懐かしく感じた。
「狙撃みたいな卑怯なことしか出来ないあんたとは違うから」
狙撃が卑怯、というのはよく言われる事だ。世界中の狙撃手にとっては挨拶代わりの言葉なのではないか。
敵からも味方からもさんざん言われて、最早何とも思わない。
周りが騒がしく罵ってこようと、成果を出せれば皆黙る。口ではこう言う蠍も、自分が何度助けてやったかは忘れていないはずだ。
「会いたくて仕方なかったよ、梟」
蠍は花が舞うような美しい笑顔を自分に向けながら、ナイフをウエストに仕込んだホルダーにしまう。
「俺は二度と会う気はなかったが」
蠍がナイフをしまったのを見て、仕方なく拳銃をしまう。
本来ならここで仕留めてしまえばいいのだが、ホテルのスタッフが廊下に向かってくる気配を察して、渋々だ。
「何しに来た」
「今日遊ぶ相手が、たまたまここに部屋取ってくれたから、顔を見に」
質問の意図とは少し外れた答えが返ってきたので、もう一度聞く。
「何しに日本へ来たと聞いている」
相対すると、距離をすんなり縮めてくる。癪に障る。
「会いにきただけ」
蠍はスッと顔を寄せてきて、唇を重ねようとする。反射的に殴り飛ばしていた。
すぐに、失敗したと思った。
ちょうど通りかかったホテルスタッフが、慌てた様子で駆け寄ってくる。
この状況だと、加害者扱いされるのは自分だろう。
床に座り込んだ蠍は涙目になって、英語でホテルのスタッフに有ること無いことを話し出している。この男はこういう芝居がとても得意だ。
ホテルスタッフに宥められて、わざとらしく涙を拭う蠍の姿を眺めながら、明日にはここの部屋も引き払わないといけなくなった、と思う。
早晩、この暮らしも見切りをつけようと思っていた時期ではあった。
とりあえずこの場は穏便に済ませなくてはならないので、仕方なく、蠍の腕を取って立ち上がらせる。
ホテルスタッフが自分たちのやり取りを警戒して見つめてくるのを感じながら、蠍を引き寄せてハグする。
何が悲しくてこんな小芝居をしなければならないのか。
「すまない、カッとなってしまった」
抱き締めている蠍に言うように見せかけて、ホテルスタッフに聞こえるようなボリュームの声でわざわざ言う。
怒りがクールダウンして仲直りしようとしていると思わせる芝居のためとはいえ、この男を抱き寄せるのは屈辱だった。
「悪いのはこっちだよ、ごめんね」
この薄ら寒い芝居に乗った蠍は、ホテルのスタッフには背を向けた状況で顔が見えないのをいいことに、勝ち誇ったような笑みを浮かべて、尚もキスをしようとする。
必死で蠍の足を踏みにじって行動を押さえつけようとするが、蠍もなかなかやめない。
情けない駆け引きをもぞもぞしながらも、笑い合いながらハグしているフリをするという無様な状況だ。
ホテルスタッフは少しの間、様子を伺う素振りを見せた後、取り繕う笑顔を見せて、黙礼してから立ち去って行く。
廊下からホテルスタッフの気配が消えてから、しつこくキスを諦めない蠍を床に投げ飛ばして、腹と顔に蹴りを入れた。
床に寝そべって鼻を押さえつつ、蠍は嬉しそうに笑い声を上げる。
「今日は最高にいい日だよ、梟」
蠍の満足げな言葉を背中に聞きながら、自分の客室に足を向ける。
とりあえず無性に煙草を吸いたかった。
最悪な夜の翌朝、三ヶ月暮らしたホテルをチェックアウトした。
ホテルの周辺をテレビカメラが映していて何事かと思ったが、どうやらホテルの一室でナイフで切り刻まれた男の死体が見つかったらしく、その報道のカメラだったらしい。
ナイフ、蠍、蠍の昨夜の遊び相手。
連想していくと、察しがついたが、その件は自分には関係無い、と思考を振り切った。
*
天国と地獄はよく似たところさ、と誰かは歌っていた。
天国を目指して這い上がっては、舞い戻る。その瞬間が、最上の幸せ。
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