14.

         *



 目の前を白い煙がふんわり立ち昇る。それを見て、煙草の煙が懐かしいと思った。


 しかし、故郷と違って、煙草はどこでも吸えるものではない。酒が飲めない体質のおかげで、飲食店は飯を食べたら立ち去るものとしか思っていない。


 だからこの状況が解せない。


 焼肉。テーブルの真ん中に網が置かれていて、その上で頼んだ肉を焼く、シンプルな仕組み。


 たれを纏ったカルビ肉が扇状に並べられた皿、ネギが上に乗る牛タンが並ぶ皿、それらをせっせと焼くフチノベ ミチル。とても楽しそうだ。


「今日は待ちに待った給料日なので!」

 一日一回の連絡などするはずもなく、こちらから連絡したいと思うはずもなく、静かに一週間近くを過ごしていた。


 その平穏を、フチノベ ミチルは店のURL付きの「今日、夕飯を食べに行きましょう」と書かれたメールでぶち破ってきた。


「もう帰りたい」

 聞こえるようにボヤいているが、無視されている。


 誘われたところで、行かなければいい話だった。今更後悔している。

 煙草も吸えずに、肉が焼かれて出る煙を眺めているだけの時間が過ぎている。


「肉焦げてますよ」

 左手に持った箸で、ところどころ焦げたカルビ肉を持ち上げたフチノベ ミチルは、未使用の取り皿にその肉を入れ、こちらに差し出す。


「胃もたれするから食えない」

 それを拒むと、

「焼肉屋に来たのに⁈」

 と、ひどく心外そうな顔をされる。

 

「お前が勝手に連れてきたんだろうが」

 そもそも焼肉屋に来たのはフチノベ ミチルの勝手であって、自分が望んでしているのではない。


 フチノベ ミチルはオーダー用のタブレット端末を手にすると、メニューを眺め始める。

「何なら食べられます? 冷麺とかは?」

「箸使うのが苦手。白米と漬物、烏龍茶」

「セレクトが渋いなぁ」

 フチノベ ミチルは白米と漬物、烏龍茶をオーダーしたついでに、肉もいくつか追加で頼んでいて、それだけ食べても胃もたれしないのは素直に羨ましいと、ぼんやり思った。


 オーダーしたものが一通り届くと、網に肉を二、三枚並べて焼いては取り皿に取り、満足そうに頬張る。

 自分は何のために呼び出されたのかわからないまま、さっきから烏龍茶をちびちびと飲んで、時間を潰している。


 フチノベ ミチルは今焼いている肉を食べ終えると、一旦箸を置いた。

 まだ肉は残っているが、そろそろ腹一杯になるタイミングだろう。

 

「あの後、日本に戻っていろいろ落ち着いてから、あなたは何者だったのかなって考えたんですよ」

 わざとなのか、たまたまなのか、通されたのは店の奥の半個室の座席だった。

 隣りは声の大きい四人組がいて、対面して座る自分たちの会話は、自分たちしか聞こえていない状況だ。


「それで調べはついたか」

 どうせ、そんなはずはないとわかっていた。

 何者かと問われるとこちらも困る。

 今はどこにも所属しない、そもそも元々IDらしいIDがない。この世には、自分の存在は書類上存在しないし、この身の上を証明するものがない。


「わからなかった。でも、あなたは軍人だと思う。元軍人かもしれない。商売柄、元軍人の知り合いはまあまあいるんですけど、その人たちと頭の硬さが似てる」

「さりげなく悪態ついたな」

 言葉の端に含まれた悪意を指摘しても、知らぬ顔でフチノベ ミチルはこちらを見つめてくる。

 言葉と瞳に感情を込めないのは、元々なのか、自分と相対しているからなのか。


「クーデターの実行役になるほど、大事なポジションに就いていたのは確かですよね」

 重要なポジションにいた、と言われると、何とも言えない気はする。

 それは任務だったからやったまでで、自分が主体性を持ってやってはいなかったはずだ。


 烏龍茶が半分まで減ったグラスを見つめ、どう答えるか考えていると、こちらの様子を注意深く観察している真っ黒な瞳に気付く。居心地が悪い。


「クーデターを起こすと決めたのはあなたやお仲間さんじゃなくて、命令した人がいる」

 聞きたいのはそこか。

 自分から情報をほいほいと渡す気はないが、質問されたら答えるのは、礼儀だろう。

 

「アステラ・エジュキセンゼ=ジェセカ。もう死んでる」

 厳密には、「大統領府突入作戦失敗後、消息を絶っている」のだが、どうせ同じ意味だ。


「ジェセカ……ジェセカ……」

 虚空を睨みながら名前を復唱しているのは、その名前がどこの誰かを照合するためだろうが、行き当たるはずがない。

 

 この女の頭の中に、リエハラシア政府や軍部の組織図がどれだけインプットされているかは知らないが、それだけは自信を持って言える。

 

「彼は表舞台に出ていない。お前が知っているはずがない」

「どういう人?」

 眉間に皺を寄せて、フチノベ ミチルは尋ねる。名前を出した時から、どう答えるかは決めていた。

 

「育て親」

 自分にとって、親同然の存在。彼がいなかったら、今の自分はこの世にいない。


 殺し屋は匂いのつくものは嫌う、と言っていたのは彼だっただろうか。いや、違ったはずだ。

 あの言葉は、彼のいつもの口調ではなかった。

 もっと気安く、雑に話しかけてきた人間の言葉だが、誰だったか思い出せない。

 

 薄っすらとした記憶を辿っていると、それを遮るように話しかけられた。

「育て親さんは、あなたと同じ軍人、それか政府側にいた人。けれど反政府勢力へ寝返った」

 無遠慮な発言。

 今までかろうじて耐えてきたのだが、さすがに限界だった。

 

「反体制、反政府ってお前は簡単に言うけどな、そんな簡単な分類で済む話じゃない」

 暖かな湯気を立てていた白米も、そろそろ冷めてくる。こうなる前に食べてしまえば良かった。


「二元論で決めつけるな。俺は自分がやってきたことを、まっさらな正義だと思っていないが、否定される筋合いもない。この世にあるもの全て、何もかもグレーで、どこから見た事実なのかで結果は変わる」

「おっしゃる通りで」

 感情のこもらない声で、ただ淡々と、黒い眼の女は静かに頷いている。


「あなたとそのお仲間さん、そしてジェセカさんは、大統領であるアヴェダを倒そうとした。それは事実。その場に私と母がいた」

 フチノベ ミチルの箸はまたカルビ肉の並んだ皿へ伸び、熱せられている網に肉を並べる。


「それは、偶然だったのか、偶然じゃなかったのか?」

 ジュウ、と肉の焼ける音。パチパチと脂が爆ぜる音。その音の中に混ざって、はっきりと問う声。

 

「偶然だ」

「へぇ。偶然」

 焼けて縮れる肉に視線を落としていたので、苛立ちのこもった声に反応が遅れた。


 フチノベ ミチルは少しだけ俯いた角度から、こちらを睨んでいる。


「ただの偶然で、死んだんですか」

 感情を殺すためか、目元にグッと力が入っている。真っ黒な瞳はどこまでも冷たい。

 

「……悪かった」

 この女は、自分を命の恩人、と言っているが、本当は恨んでいてもおかしくない。


 ここで飯を食べているのは、友達だからでもなんでもない。の真相を調べるために、お互いを生かしているだけだ。


「あなただけのせいじゃない」

 溜め息混じりに眼を伏せて、この会話の間に少し焦げた肉を取り皿に乗せる。

 

「この話、お互い地雷ですよね」

 肉を飲み込んでから、フチノベ ミチルは苦い笑みを浮かべて言う。

 日本での日常会話で出る地雷という表現は、「踏み込んではならないもの」の独特な言い回し。


「お互いに今だけ地雷についての話、耐えてみませんか? 次から配慮しますんで」

 口元だけはにっこりと笑う形に整えて、女は言う。


「この最悪な会食に、次回があるのか」

 次なんかあってたまるか、と思う。フチノベ ミチルは笑い声を漏らしながら、テーブルに肘をつく。

 

「思ってた以上に口が堅いから困ってる」

「これでも普段の倍は喋った」

 嘘でしょ、と大げさに驚いたフリをして困ったように笑う女は、何故か楽しそうだ。


「俺の身元なんか、辿り着けるわけがない」

 調査のためにどれだけの金と時間を費やしたのかと思うと、気の毒になる。


 フチノベ ミチルが手にしたグラスには、リンゴジュースが入っているが、そろそろ空きそうだ。


「あの時、突入したのは政府軍うちの特殊部隊。部隊のメンバーは、配属された際に記録一切を抹消されている。調べても出てこない」

「やっぱり。しかもめちゃくちゃ軍人だった」

 瞬きをゆっくりしながら言葉を挟む女は、納得しつつも少し戸惑っているようだった。


「それだけの実力を持って政府をひっくり返そうとしたのに、……不思議な事態になっちゃったのが」

 フチノベ ミチルは「失敗」と言いかけて「不思議」と言い換える。そこまで気を遣わせる気はなかったのだが。


「あの男が裏切った」

 思い出したくない顔を思い出す。


 真っ直ぐな髪は金色で輝いて、瞳ははっきりと澄んだ青、血色のいい唇。高くも低くもない声音で悪態をつく態度。


「あの男?」

 記憶を思い起こそうとすると、現実へ引き戻しに来るのはこの女の声だった。

 

「お前がオマケで殺すと言った男」

「あの、綺麗な顔の人」

 あの男を綺麗だと言う瞬間、フチノベ ミチルの口元がニヤリと歪む。


 その顔は少なくとも一年前より幼さが抜けて、凛々しくて悪辣になっている。


 無意識に煙草の箱に手を伸ばしていた。

 制止しようとしたげな女の顔を見て、我に返る。

 

 刷り込まれた習慣、記憶と情報は、こうして知らず識らず、人を雁字搦めに縛る。記憶が自由を奪っていく。


「あいつが今、生きてるかどうかは知らない。積極的に調べてもいないからな。だが、アヴェダ側に寝返った。リエハラシアでのうのうと生きているんじゃないか」

 寝返った、と聞いた瞬間に黒い瞳がサッと輝いた。

 

「元は、あなたのお仲間さんだった」

「同じ部隊にはいたが仲間じゃない」

 即座に否定した。あいつの仲間扱いされるのだけは、許せない。

 こちらの言葉を聞いて、フチノベ ミチルは一瞬戸惑った表情を見せたが、そこには気づかないふりをした。


「あの時、私がいなかったら、殺してました?」

 あの時、と言われて、何について問われているのかと悩んだが、ぼんやりと思い出した。

 この女と遭遇した時、自分はあいつと対峙していた。その時のことを聞いているのだろう。


「さぁな」

 いまさら思い出したくもない。あいつを殺し損ねたのは悔やんでいるが、それ以外に何を思うわけでもない。


 フチノベ ミチルは表情こそ微笑んで見せているが、テーブルの端に乗せた拳には、力が入っている。

 こうして完全に感情を押し殺せないのは、命取りだ。


「まさかあの美人が裏切るとは思ってなかった?」

「いや。あいつは元々、信用に値しない」

「その"あいつ"の名前は?」

 遅かれ早かれ、あいつの素性については問われると思っていた。

 この状況なら、この女が何かしようとしても監視できる。

 自分の持つ情報をみすみす流す羽目になったとしても、この女が故郷リエハラシアの方へ下手に探りを入れて、消息が伝わるのは避けられる。


「……”スコルーピェン”。本名は知らない。コードネームを日本語で言うとサソリ。英語の発音と似てるだろ」

 故郷を離れて一年過ぎて、久々にこの名を口にした気がする。溜め息と同時に烏龍茶のグラスを呷った。


 フチノベ ミチルは眼を見開いて、ほんの数秒固まる。その時には、力を入れていた拳の力が緩んでいる。


「くっっっそダサいコードネームで、笑いそうになった」

 眉間に皴が寄ったと思えば、吐き捨てるように言うので、それも相まって盛大にむせた。


 各々につけられたコードネームをダサいとは、部隊のメンバーが皆思っていた。

 だが、コードネームは上層部が割り振ってくるので、どうにもしようがない。

 蠍をダサいコードネームと言うくらいだから、自分のコードネームは、もっと酷い言い草になるはずだ。


 むせて荒くなった呼吸を何とか整える。

「はっきり言うな」

「ダサくないですか? 蠍って、ちょっとイキってる感もあってイタいのが倍増してる」

 彼女は苦笑いを浮かべている。

 聞き慣れない単語が幾つか出てきて理解に苦しむが、雰囲気から考えると、あまり良い意味の言葉ではないのはわかる。


「で、あなたのお名前は?」

「John Doeとでも。好きに呼べばいい」

 むせたのを引きずって、まだ咳き込んでいる。

「どうしても名乗らないんだ」

 フチノベ ミチルは呆れたように、少し困った笑顔を浮かべる。

 

「じゃあ、ニコチン中毒って呼びますね」

「もっとマシな呼び方があるだろうが」

「ヤニカスとか?」

「絶対悪い意味しかない呼び方だな? 少しは敬意を払え」

 単語の中に含まれた悪意を嗅ぎ取って、苛つきながら提案を断る。この女、意図的にろくなニックネームを言ってこない。

 

「目つきの悪いおじさん」

 故郷でさんざん言われてきた目つきの悪さを、またここでも言われるのが癪に障る。

 

「敬意を払えと言った」

「敬意を払えおじさんと髪うねうねおじさん、どっちがいい?」

「どっちもよくねぇよ」

 どうせそんな名で呼ぶ気もないくせに、からかうためだけに悪口が飛んでくる。絡み方が面倒臭い。


「”サヴァンセ”」

 故郷の言葉で「梟」という意味の単語。その意味は知らせず、部隊で呼ばれていたコードネームを答えた。

 

「サヴァンセ……サバちゃん」

「なんでそうなる」

 ちゃん付けは、日本語だとだいぶ気安い呼び方だったはずだ。この女は、人をからかうのに全力を振るので、より腹が立つ。


 フチノベ ミチルは自らを指差して言う。

「私はみちる。渕之辺ふちのべみちる」

「知ってる」

「私、名乗りましたっけ?」

 特に答えなかった。だが、すぐに思い当たったらしく、

「サバちゃんの情報屋も今度紹介してほしい」

 ぼそっとつぶやかれた。聞いていないふりをしたが。


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