11.
*
春の夜は生温い。
アスファルトの上で人々は夜でも昼でも行き交う。
その中で人間が一人増えたり減ったりしたところで、誰の気にも留まらない。
集団の無関心は便利で、誰にとっても都合がいい。
誰の記憶にも残らない代わりに、防犯カメラが記録している。だが、それも新しいデータが増えれば消えていく。
それでも確実に、距離を離しても食らいついてくる存在がいる。和食料理の店を出てから、ずっと尾けてきている。
繁華街の細まった路地をジグザクに進みながら、身を隠しやすそうな雑居ビルを探す。栄えているビルと寂れているビルが隣り合っているのを見ると、商売とは立地だけの話ではないのだと思う。
寂れている方のビルに入り込み、廊下に何故か散乱している段ボール片を踏みながら非常口のドアに向かう。ドアノブを回した瞬間、ビルの入り口に気配がした。もう追いつかれたのだ。思わず舌打ちが漏れた。
非常階段を二段飛ばしで上り始めると、背後にカンカンと甲高い音が聞こえてきた。ヒールの高い靴の音。歩幅は一段飛ばしだったのが疲れてきたのか、一段ずつ上る音に変わっていく。
上には逃げ場がないのに登ってくるのは、待ち構えられても構わないのか。
さすがに無策でここまできているとしたら、浅はかすぎる。
屋上につながる階段の、残り最後の五段目で足を止め、ステップに腰かける。
息を切らして、気配を殺すのもままならないヒール音の主は、自分が腰かける階段の手前の踊り場で、両膝に手をついて地面に頭を下げている。息苦しそうに。
そして、自分が思うにはゆっくりと、当の本人からすれば急いでだろうが、頭を上げてこちらを見た。
一年と少し前に見た姿とさほど変わらない、その佇まい。
長い黒髪と血色の悪い肌、街の明かりを反射する真っ黒い瞳の若い女。
フチノベ ミチル。
この姿を二度と見たくないと思っていたのに、結局こうなったか、と溜め息も出る。
目が合ったとわかると、フチノベ ミチルはにっこり笑って見せた。
「”お久しぶり”」
そして一年ほど前と同様、英語で話しかけてきた。
「”前、会ったんですけど、覚えてます?”」
顎にまで汗が垂れて落ちてきても構わず、顔をしっかりこちらに向けて、一挙手一投足を見逃さないようにしている。これは警戒ではなく、情報を掬い取ろうと必死な眼差し。
居心地の悪い視線に苛立ちながら、胸ポケットから煙草の箱を出す。
「”ご無事で何より。お会いできて良かった”」
覚えていると答えていないのに、フチノベ ミチルは覚えている前提で話を続けている。
否定も肯定もしなかった自分が元凶なのだが。
「俺は会いたくなかった」
煙草に火をつけ、吸い込んでから日本語でつぶやいた。
「日本語の勉強、してたんです?」
こちらが日本語を喋ったのを聞いて、フチノベ ミチルは目を見開いて、驚きを隠さない。
「もともと喋れる」
「おん? あの時も?」
フチノベ ミチルは気の抜けるような声を漏らす。
「そういうのは早く言ってくださいよね、そしたらもっとスムースに」
「うるせぇ」
ぶつくさ言われているのも面倒なので、適当にあしらうしかなかった。
「どうして追いかけてくる」
語気を強くするつもりはなかったのだが、この言い方は質問ではなく詰問だった。
フチノベ ミチルはスッと真顔になると、小さく息を吸い込んだ。そして口元を笑う形に歪める。作り笑いするための所作だ。
「あなたが逃げるからですよ。とりあえず、今は再会を喜ぶところでしょ」
追いかけるのは尾行をまこうとしたからだ、と女は言うが、こちらが聞きたいのはそれについてじゃない。
試行できるありとあらゆる手段を使って、自分の行方を探ろうとしている理由を聞きたいのだ。
「俺の忠告は忘れたか」
フチノベ ミチルには、
少なくとも、何もしないように釘を刺したはずだ。
女は目を細めて、柔和に微笑んだ。
「忠告ですよね、命令じゃない」
瞬間、ピリッとした空気に変わる。表情はとても穏やかなのに、漂うものはあまりにも重たい。口を開くなと言わんばかりの圧力すら感じる。
「詭弁だ」
何を言っても聞こうとしない女の頑固さに、煙草のフィルターを噛む。
まるで自分の方が、余計なことを言ってしまったと錯覚するような空気になる。完全にペースを巻き取られている。
「忘れたいんですよ、私は。でも、忘れられない」
街の光が反射する、虚ろな黒い瞳。この女が発する、淡々とした言葉。
煙草の灰を手摺の隙間から振り落とすと、風に煽られた灰が街の上に散っていく。
真っ直ぐこちらを見つめてくる瞳から視線を逸らそうと、フチノベ ミチルの向こう側にある雑多な街並みへ目をやる。
湿気混じりの夜風。
無数の車列の灯りが光の道を作り、背の高いビルが煌々とそびえ立ち、地面と夜空の境目は光に照らされて白んでいる。
当然だが、あの車の窓から見えた夜空とは、別物だった。
寒くて、空気が澄んで星が綺麗に見えていた。何の星座の、どんな名前の星なのかも知らない光が、点々と連なっている。
思い出と言えるほど古くもない記憶。焦げ臭い臭いと死臭混じりの光景。
自分がもう二度と見る機会はないだろう、故郷の空。
「あなたは日本に、何をしに来たんですか」
フチノベ ミチルの言葉は疑問形ではなく、問い詰める語尾。
先ほど自分が女に対して発した言い方と同じで、責められなかった。
ごく真っ当な質問に、どう答えようか、頭を巡らせた。そして出した答えは、
「観光」
「びっくりするほど悪びれなく嘘つく」
一瞬で切り捨てられる。
フチノベ ミチルが纏わせていた重苦しい空気が緩んだのを察して、こちらから話を切り出してみる。
「俺は今でも故郷のために尽くしたいと思っている。だから、余計なことをされると困る」
「あなたの国に、何かしようとは思ってませんよ」
その言葉が本当かどうか、自分には判断する術を持っていない。
「
この女とその母親があの日、大統領と会食していたのは、軍の装備品横流しの交渉をするためだ。
任務前のミーティングで、その情報は共有されていた。
「そこまでご存じだとは、さすが。でも武器屋は廃業したんで、もう物騒なものは持ってません」
フチノベ ミチルは両手を広げてひらひら見せる。「何も持っていない」アピールの動き。張り付いたような笑みが嘘臭い。
「そうか、無職か」
「バイトで生計立ててますよ、失礼な」
「安定した職にも就かずに、怠惰に任せた将来性皆無な生活」
「日本語流暢すぎません? あと、めちゃくちゃ酷い言い方しますよね」
フチノベ ミチルは苦笑いして受け答えしているが、目が笑っていない。
さっきからずっとそうだ。
「多方面の情報屋に対して、お前がバイトで払える額じゃない金を払っているのは、クガの金か?」
「それ、どこ情報?」
クガの名前が出ると、苛ついた声音になる。余程触れられたくないのだと見える。
「知り合いの情報屋」
「その情報屋は有能だね、的外れだけど。家にあった在庫を売って、家を売って資金にしたんです。玖賀の息はかかってない」
和食料理店で隣にいた、赤毛のうるさい情報通の男の顔を思い出しつつ、煙草の火種を階段のステップに押し付けて消す。その流れで、煙草をもう一本手に取る。
「何が目的だ」
女は答えない。笑いもしないで、じっとこちらを睨むように見つめている。真っ黒な、光をはじき返す暗い瞳。
「リエハラシアで復讐
「用があるのは、大統領とその取り巻き」
今は武器商人ではない、一介の民間人が、一国の大統領やその取り巻きを殺そうと? 馬鹿げた話だ。
「何を言いたいかは、わかりますよ。私だって無理だと思ってる。だから、必死で取っ掛かりを作ろうと」
フチノベ ミチルがこちらに向かって一歩踏み出す。
そして音もなく軽やかに、自分の目の前に顔を寄せてきた。
「どんな小さな取っ掛かりでいいから、あなたが持っている情報が欲しい」
目の前に、感情の見えない真っ黒な目がある。この不愉快な距離感に、猛烈な殺意を覚え、思わず母国語が出た。
「”今すぐ下がれ、でないと殺す”」
意味はわからなくとも声のトーンで察したらしく、フチノベ ミチルはすぐに一段下がって距離をとる。
「あなたは、あの時現場に居て、生き残った貴重な人物」
一段下のステップからこちらを見上げているのに、獲物を目の前にして襲い掛かろうとしている獣みたいな視線を送ってくる。
「生き残る? 死に損ねた、の間違いだ」
自嘲しながら、フチノベ ミチルに銃口を向ける。日本では使わないだろうと思いながら、念のために用意していた
「お前には残念な話だろうが、俺も、あの大統領も、危惧していることは同じだ。政府の監視も届かない状況で、あの日の生き残りがこの世にいる事実が恐ろしい」
自分の言葉を聞いて、フチノベ ミチルは少しだけ首を傾ける。
唇の端が微かに歪んでいた。困惑が見て取れる。
「アヴェダ大統領の味方みたいな言い方しますね。反体制派なのに」
反体制派、と言われるのは納得できないが、現状、自分の立場はそう言われる側なのだ。反論の言葉は喉の奥に抑え込んだ。
「俺は、自国民を害する存在ではない。
お前がリエハラシアに災いを
そう言いながら、引き金にかけた指の力を、少しだけ強めた。
フチノベ ミチルは口を開いたものの、喋るのを躊躇った様子で唇を噛む。
お互い黙ると、街の喧騒のボリュームが大きく感じる。
この喧騒が気にならないくらい、会話に集中していたのだろう。
数秒ほどの沈黙。それを破ったのはフチノベ ミチル。
「あの建物には」
喧騒が遠くなるほど、しっかりとした声音で話し出す。
「民間人もいましたよね? それでも、綺麗事を言う?」
引き金にかけている指の力を緩めた。痛いところを突かれた。その事実に反論の余地はない。
「それでも、あなたの国の人たちがそんなに大切なら、私に協力してほしい」
向けられた銃口など気にしない素振りで、こちらを見つめている真っ黒な瞳は淡々と語りかけてくる。
熱心に説得してくるのではなく、奇妙に思えるほど静かに。
取り出したはいいものの、持て余してしまった拳銃を、ウエストにしまい直す。
「協力はしない」
はっきり断ると、溜め息の後にくぐもった笑い声が漏れ聞こえてくる。
「じゃあ、協力とかナシで、友達になりませんか?」
「……何を言われているのか理解できないんだが」
この女が何をしたいのか、わからない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます