6.
*
BGMは交響曲第六番「悲愴」。
言わずと知れたチャイコフスキーの名曲だが、聴き入る余裕もない。
「“クルネキシア側には、俺は通訳かガイドだと説明してくれ。付き添いであって亡命希望ではない、と”」
亡命すると伝えてしまうと、書類だなんだと手続きを踏まなくてはならなくなる。
それよりも、自分は一分一秒でも早く第三国まで逃げ落ちたいのだ。
助手席に座る女は、しっかり一回頷くと、
「“私は母親の仕事について来て、武装集団に襲われて逃げてきた”」
暗唱するように言う。発音は悪くない。
「“母親とは逃げる時にはぐれた”」
母親、と発音するたび、毎回僅かに声が震えているが、あえて触れない。
何を思い出しているか、虚ろな黒い眼が如実に語っている。
「“俺がそう説明するから、検問所の人間や大使館の人間にも同じように言え”」
そう言いながら、所持金や今後の逃亡ルートを考える。
気が重くなる一方だが、それは隣の女も同じだろう。
血の気のない女の顔を横目で見て、意図せず預かったままだった
「“持ってろ。お前のものだ”」
大統領府の応接間で拾った、この女が使っていた拳銃は、ずっとベルトに挿したままだったのだ。
そのを、女の膝の上に半ば放り投げるように渡す。
「“私の?”」
女はしっかり両手で受け止めると、左手で拳銃を握る。うすうす気づいていたが、左利きだ。
「“俺が手首を捻り上げたら、お前があっさり手放したやつ。拾っておいた”」
「“棘のある言い方するのは、この国のマナー?”」
明らかに苛立った切り返しだった。
「“俺の性格のせいだな。あと、これだけは言っておく”」
名前もよく知らない日本人との最低最悪の逃避行も、もうすぐ終わりだ。
最後にしっかり釘を刺す。
「“今まで見たこと聞いたことは、全部忘れろ”」
女が体ごと、こちらに向けてくる。
醸し出す空気が一瞬にして殺気立ったのがわかる。拳銃を返すタイミングを誤った、と思った。
「“覚えていても何の役に立たない。日本で何事もなかったように暮らせ”」
女の指先が渡した拳銃の引き金にかかったが、すぐに離れた。
そして、急に口元を笑う形に動かした。
「“わかりました”」
眼は笑っていない。
こちらを睨みつけているのに、口元だけは笑っている。表情のアンバランスさが、納得していない
「“って嘘でも言った方がいいんですよね”」
思わず睨み返した。
「“前見て”」
苛立ちもない平坦な声音で、前を見ろと注意してくる女。
目が合えば、こちらを威圧してくるような佇まいを見せながら、その次の瞬間には興味をなくしたように、窓の外に視線と体を向けている。
この空気感は、記憶のどこかで知っている。
自分の手で葬ってきた敵か、死んでいった仲間のうちの誰かか、思い出せないが。
「“国境だ”」
適当なところで車を止めると、そこで降りる。女も慌てた様子で車を降りた。
国境付近の町の景色は、殺風景極まりない。
民家だったはずの建物の跡は無残で、残っているのは瓦礫と死臭だった。
ここはつい数日前、クルネキシアと交戦した場所だ。
「“この前、ここで市街戦があった”」
民家だった場所の瓦礫を退かしながら、簡単に経緯を説明してやる。
「“日にちがそんなに経ってないから、服や日用品がまだ残っている可能性が高い。だから、ここで着替えの調達を”」
目の前の景色に言葉を失っている風の女に、暗に手伝うように伝えた。
女の視線がこちらを向くと、民間人のふりをするには無理がある、戦闘服姿の自分の出で立ちにやっと気づいたらしい。
「“わかりました”」
この女は物分かりが早いので、何をするべきか分かれば、すぐに動き出した。
瓦礫を退かして衣服か布かの端切れが見えれば、引っ張り上げる。
何が悲しくて略奪者の真似事をしているのだ、とぼやきたくなったが、言葉は喉の奥に押し込めた。それを言いたいのは、瓦礫の隙間から見える布切れを探して回る女も同じだろうからだ。
瓦礫同士がぶつかる音は、鈍かったり甲高かったり、灯りもない暗闇の廃墟の中で、やかましいほど響き渡る。
「“めぼしいものがなければ、そこら辺に埋まってる死体から剥ぐしかない”」
自分のその言葉に、黙々と瓦礫を拾い上げていた女は一瞬、険しい表情を見せる。目が合ったが、お互いに何を言うでもなく、視線が逸らされるとまた作業に取り掛かる。
「あ」
驚き交じりの声がした方を向くと、血まみれになった熊の人形を右手に、左手に瓦礫を持った女が、瓦礫の隙間を覗き込んで固まっている。
何を見たのか察しがついたので、駆け寄りはしなかった。
肩を揺らした女がそっと、熊の人形を丁重に瓦礫の隙間に戻すのを見て、予想通りだったと、苦々しい気分になる。
「ごめんなさい」
女は、そう日本語で呟いていた。
その言動が芝居じみている気もしたが、それは自分がこの状況に慣れすぎているからだろう。
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