5.
*
警備部隊が本格的に乗り込んでくる前に、さっさと大統領府の敷地を抜けた。
同僚だった男なら、大統領府内の隠し通路が何処に繋がっているか知っているはずなのに、そこに現れなかった。
思い出したくもない顔の男から、温情を差し向けられた事実に、反吐が出そうだった。
だが、今はそこに頼るしかない。
大統領府の周辺には、入り組んだ路地が点在している。
破壊されるたびに、修復と同時に新たな通路が作られて、自然に網目状の道が出来上がったのだ。
その路地に入って、キーをつけたまま停められている黒い欧州メーカーの車に乗り込む。諜報担当が用意していた、予備の車両だ。
女は、大統領府で「クソが」と呟いて以降、何も喋らなくなった。
ただ黙ってついてきている。
足手まといにならないように細心の注意を払いながら必死でついてくる様は、教官に見捨てられないように必死で訓練に食らいついていたころの自分を思い出して、仄かに苦い気持ちになった。
カーステレオにはチャイコフスキーの全曲集が入っている。再生を始めると、ヴァイオリン協奏曲ニ長調Op.35が流れ出す。
こんな状況でなければ、任務後の徒労感を癒してくれた音楽だったろうに、今や逃亡シーンのBGMになった。
「“寝たければ寝たら良い”」
助手席の窓に頭をもたげて、外を見ているように見せかけている背中に声をかける。
女は眠いわけでもなく、眺めているものは外の景色よりももっと遠く、虚ろだ。
この車は、舗装されていない道をさっきから走っている。申し訳程度に立つ標識は落書きされていた。
「“いっぱい人が死んでましたね”」
少しかすれた声なのは、久しぶりに声を発したからだろう。女が言っているのは、大統領府を抜け出すときに見た光景のことだ。
「“戦場の方がもっと死んでる”」
自分の返事に、女は天を仰ぐような素振りを見せた。
戦場で人を殺しているのは、自分たちが売る武器だとは一ミリも思っていなそうだ。
「“質問しても?”」
ぽつりぽつりと話し始めたのがきっかけで、女が会話を振ってきた。
「“答えを持っているとは限らない”」
女が何を質問しようとしているのか見当もつかないが、かといって質問を拒む理由もなかった。
「“私たちがいるタイミングでクーデターが起きた、って理解で合ってますか?”」
クーデター、と言われて、苦々しいものが胸に落ちてきた。
自分にとっては正式な任務だったのだ。だが、傍から見ればこれはただのクーデターでしかない。
「“クーデター未遂。大失敗した”」
こちらの返答に、隣に座る黒い眼はゆっくり瞬きを繰り返して、小さく呻いている。
「“あなたはクーデター未遂した側の人?”」
クーデター扱いには不服があるが、たまたま居合わせただけの人間に、それを説明する必要もない。
「“俺が逃げないとヤバい理由はわかったか”」
「“下手すれば私の身も危ういですね”」
物分かりが良くて助かった。
女が呟いた通り、運が良くて逮捕で、悪ければ名前も知らないクーデター実行犯と一緒に射殺されるか、だ。
そして、運が良くても悪くても、自分は真っ先に殺される。
「“お前が誰だか知らないが”」
日本から来た武器商人、という肩書しか知らない。
この任務の実行計画説明のミーティングで事前に確認していた名前も、今や薄っすらとしか記憶にない。
「"とりあえずクルネキシアに行って、日本大使館に保護してもらえ。政府軍と反政府勢力との戦闘に巻き込まれたとか、適当に言えばいい"」
日本大使館、と聞いた女は、眉間に皺を寄せて聞き返す。
「“なんで日本人だと?”」
「“今から乗り込みに行こうと思っている相手が、その時どこの誰と会うか調べずに行くわけがない”」
「あぁ……そりゃそうか」
女のよそ行きのキャラクターが崩れて、そこだけ日本語だった。
「“クーデターが起きた、って言わない方が?”」
「"それはこの国が一番漏らされたくない情報。お前の一言で戦況が変わるから一言一言、慎重に振る舞え"」
自分は日本語も喋れるのだが、いまさらだと思って英語で話し続ける。
「“クルネキシアに寝返るとか、クルネキシアに情報を売って戦況を変えようとか、そこまでは考えてないんですか?”」
女の発言は癪に障った。
どう見ても年下で、いかにも平和な国で生きてきたのがわかるが故に、何も言わずにただ耐える。
「“リエハラシアに害を及ぼすことはしない”」
「“あなたを追ってくるのに”」
「“それでも故郷は故郷だ”」
「“愛国心が強いんですね”」
女の言葉はどこまでも神経を逆撫でしてくる。
無意識に、ハンドルを握る手に力が入った。
煙草が吸いたくてしょうがないが、手元には一本もない。
「"今の軍や警察に、国境越えてまで追ってこられるような余力はない。お前がここから離れれば離れるほど有利になる。わざわざクーデターの話を持ち出す必要もない"」
「"この国って、お隣と延々揉めてますよね"」
何を言わんとしているのは大体わかっている。
次に来る質問は、クルネキシア以外に逃げた方がいいのではないか、だ。
「"それなら他に地続きの国があるじゃないですか"」
想像通りで、言い終えられる前に首を横に振る。
「"クルネキシアの国境検問所の係員は買収に乗ってくれる。うちからクルネキシアに出ていく国民もいるし、その逆もしかり。
他は難民問題が起きると面倒だから、なかなか受け入れない"」
「あぁ……なるほど」
この相槌も日本語だった。
「“金は出してやる。俺ができるのはそれくらいだ”」
「"私はどうにかなるにしても、あなたは?"」
「"何とかなる。さっき言ったように、金で解決出来る"」
資金は貯め込んできたから、ある程度まで逃亡生活はできるだろう。
その先の想像は、今の自分にはできない。
「"他人の心配の前に自分の心配をした方がいい"」
市街戦が起こった直後で、道は道でなくなっている。
強引にカーブを切ると、助手席から小さく悲鳴のような声が漏れた。
もうここらでは、後続の車も居なければ、対向車もない。
「“クルネキシアの人間は、あんまり英語伝わらないからな”」
この女は、こちらの言語を使えない。
さっきからずっと、英語で乗り切ろうとしている。
「“クルネキシアの公用語は? 英語がダメならロシア語なら何とか”」
「“クルネキシア語。英語とロシア語も話せる人間も、多少居るは居るけどな”」
「おぅ……」
女は淡々と、しかし残念そうなのは隠さない。
「“国境に着くまで、挨拶を教えるくらいの時間はある”」
せめてもの情けで、そう言った。
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