Track 003 BESIDE SAD SONG



 行き着いてみれば、一分一秒を争うと、そのような様相は見て取れなかった。

 少し、息を整える。失態のうえに失態を重ねるでは、何をしに来たのか、わかったものではない。なあ、父さん、ぼくも思い知るべきだ。自らの無力を。できることとできないことを。いつかではなく今をわきまえるべきと。粗悪酒カストリ一九九九、いい合言葉じゃないか、似合いだよ。いっそ、曲の題名タイトルにしてやろうか。

 そこは〈A's NYCアーサーズ〉の裏手にある公園で、三條さんじょうたちが、ぼくたちのリハの間に缶蹴りをしたはずのところ。いくつかの遊具は申し訳程度に置かれているものの、さして広くもなく、わびしい限りで、遊ぶ子供の姿もない、こんな潜むところの見当たらぬ場所で、よくもまあ、難なく三連続で缶を蹴られてしまうものだ、と、そのように所感が湧くなら、やはりぼくはひねくれている。

 音楽の世界なら、それでもいい、ねじれたものをねじれたままに、それを激情に、切愛に、堕落に、見事に仕立ててやることができるさ。あるいは、偽善を貫き通すことだって、嘘をくことなく、やってみせるよ。それでも、もし音楽を通して通じ合うことができたとしても、ぼくは誰かの前では、隣では、結局はただのぼくでしかなくて、未熟に過ぎて、ものを知らぬ子どもで、思い知るしかないだろうさ、いくら曲がりくねっても、辿り着く先にだけは、ぼくという存在の向かう行方ゆくえにだけは、ぐでいなくちゃあ、粗悪な酒だって、呑む機会を失ってしまうよ。

 ブランコに座り、ゆるく漕いでいた。それを見つめた。

 いっそ世界の終わりと、無論それは大袈裟でも、ぼくはそのような心持ちでここまで来たのだが、ブランコを囲う柵の内側とは落差があって、哀しみの濃くはなく、怒りは一抹いちまつも取りまくでなく、生色せいしょくの彩りは確かで、しかし命の無音の中にあって、必ずしもそれは望まぬ空漠くうばくとしてあるのではなく、ただあえて、静けさのままにひたしているだけ、と。

 声音さえ、平静の色合いが強かった。

「こっちに来てくれたことは、気分いいですよ。そりゃあ、もう、素直に。来なかったら、危うく格下げにするところでしたしね。でも、思うんですよ。こっちは今回、あくまで舞台裏で、主役は向こうなんだろうな、って。」

 少なくとも、来たことを拒まれるではなかったので、安堵は深かった。

「言葉ではどうせ、ぼくはうまく言えない。だからせめて今は、全部正直に言う。頼むから、格下げだけは勘弁してくれないか。」

 微笑みすら、返ってきた。

「私の愛を甘く見ないでもらえますかね。格下げって言ったって、『是非ともお嫁さんにしてほしい人』から、『世のため人のために私の旦那に迎える人』になるってぐらいで、実態は変わらねえんですよね。隣、せっかく空いてますし、座りませんか。」

 ブランコはふたつ並んでいて、残る一方を目線で示すので、ぼくは素直に従い、腰を下ろした。わずか、揺らしてみる。童心に、少しだけ揺蕩たゆたってみる。

「ぼくが来たのは気分がいい、としても、来ない方が良かったのか。つまり、章帆あきほのところに。情けない話だけど、八汐やしおにどやされた。素直に大切と思う方を追えってさ。もう一方は自分が慰めに行くからと。」

 と、ここまで言って、悪い酒を足さねばならないと気付いた。

「――つまり、好きなのももちろん、迷わず大切だと思えたのが、章帆だったから。なんだか、まったく、中学生から色恋をやり直している気分だな。」

 章帆は嫌がるではなかったが、強い反応はなく、大きくブランコを漕いだ。

「それ、嬉しがるの、ちょっと後回しにしてもいいですか。大丈夫です。大丈夫ですから。絢人あやとクンが心配すること、何もないですから。ちょっと間が悪くてですね。いやしかし、そうなると、本当にこっちは舞台裏そのものですね。主舞台メインストーリーはあっち、主役ヒーローも、少女ヒロインもあっち。さんざん主役だか何だか、張らされてた気がするので、たまにはいいですかね。」

 無論ながら、章帆が大活躍の果てにぼくを蘇らせたというのは記憶に新しいところで、ただ、まだ、舞台裏というものに、ぴんとくるではなかったのだ。間が悪いとのこと、平身低頭してここで許しを乞えば、むしろ失態を重ねることになるのだろう。章帆はぽつりぽつりと話し始めた。

「少し、後悔やらにひたっていたくてですね。あの、決して、悪いばかりの意味ではなくて。でも、身に染み込ませておかなくちゃいけないなって、思ったものですから。反省としては似つかわしくないですが、まあ、ひたす感じで、こうしてブランコに。」

 どうも調子外れだ。ぼくは怒られるなり謝るなり、そのために来たはずなのだ。

「わからないな。その言いよう、まるで章帆が、何やら過ちをしでかしたってふうだ。」

 ゆるくなく漕いでいたブランコを、章帆はしんでぴたりと止めた。身のこなしはさすがだと言えた。

「実際、そうなんです。。」

 かれた事で、ぼくは何であれ差し挟む余地を失いつつあった。

「絢人クンが盛大にやらかしたのは本当で、私はもう頭が真っ白で、何か考えたら負けてしまいそうで、そのまま逃げて。でも、でもね、正直言って、心のどこかにはあったんですよ、ちょっとした、確信みたいなもの。絢人クンはきっと来てくれるだろう。どこかで待っていれば、すぐに会える。そう、ちょっとずるくて、どこかではそう思いながら、出て行って、でも一方で、どうしても消えないがあって、結局、すぐに取って代わられて、逃げながら、それに支配されてしまって。」

 今この場で、章帆もまた、正直だった。

「――。もし、万一、絢人クンに捨てられたらどうしよう、それが怖くて、すごく。あったはずの確信は、いつの間にか祈るみたいな気持ちに変わっていって、結果、絢人クンは来てくれましたよ。それどころか、好きだ、大切だと、ちゃんと伝えてくれた。ねえ、わかりますか。」

 章帆からぼくに向く笑み、内訳うちわけは、ぼくが偉く、誇らしいもので、比して自ら、章帆自身へは、もう自らを憐れむことすら、どうしようもない、と。

「絢人クンはやったんですよ。。」

 章帆の視線は地を向く。古びたブランコの、その下は土であっても、ありの通り道になるでもない。章帆はそこに何を見るか、何を思うか、思い返しているか。

「問題児、恋愛のいざこざで脱退を繰り返してきた、飽きっぽくてすぐ捨てるからアキホじゃなくてあきぽ、と。だから、何回も、何人も、私は。きっと、私のことが好きだった人たちを。そのままにした。別れるのは仕方がなくたって、それがたとえ愛の言葉じゃなくても、本当に大切なことを、せめて追って、せめて伝えて――」

 章帆はブランコから立ち上がり、ぼくの正面に回ると、不意に口づけを交わした。

「捨てないで。せめて、本当の気持ちを聞かせて。あなたが好きだから。」

 章帆はただ、肩をすくめるのみだった。やりようがないというのだ。

「もしかしたら、誰かがきっと、こう言いたかった。。そりゃ、色恋なんて綺麗事だけじゃ成り立たねえですけど、だからってそれで無罪って話でもなく、でも今となっては、私にできるのは、絢人クンと向き合って、大切にしていくことしかないわけで、今後ってやつのためにも、少しここで、自分をおさらいしておこうと。」

 章帆は自分の側のブランコに戻り、今度は立ち漕ぎで、勢いを付け始めた。「そういえばスカートでした。しかも案外短いな、これ。」濃紺ネイビー橙色オレンジのワンポイントのあるスカートはステージ衣装としてのもので――いわく、央歌ちゃんのせいで安易に黒が選べない、上に着ているのは大学の学園祭でのTシャツで、こちらは、舞台ステージに上がる前、しかるべき物を上に着込むのだという。「バンドのリーダーで、年長だっていっても、私だって発展途上の大いなる未熟者だってことです。絢人クンに来てもらえたことで、ありがたくも格好は付きましたけど、結局その格好って、何の劇的ドラマがあるではなくって、単にちょっと痴話喧嘩ちわげんかをしただけのカップルが、ブランコで童心に戻りつつ、今後のふたりのためにおのれの未熟さを今のうちに味わっときましょうねっていう。」ぼくはブランコを漕ぐ章帆を見つめて、章帆の体で勢いづくブランコは次第次第、その動きから遠慮を消し、速く、奔放ほんぽうさでくうを切り、しかし一回転してやろうというではなく、律儀に行きつ戻りつを繰り返す。ぼくはそれを眺めていたくて、眺めていたいがために無言でいたら、、ということでもあるのだが、けれど今ここで、章帆をブランコから降ろしたくもなかったので。

劇的ドラマ、かは知れないし、結局はぼくの言うことだから、オンガクと一挙両得で申し訳ないんだけど、頼みがあるんだ。ぼくらのライヴで、ふたりで、一緒に、ユメを見てくれないか。同じユメを。章帆が死ぬなら、ぼくも死ぬ。ぼくが死ぬなら、章帆も死ぬ。ライヴで心中するって、そういう約束。ふたりきりの。それを共にユメとして。ライヴの後、どちらかひとりが残される明日は決してやってこない、そんなユメだよ。」

 ぼくが話を切り出して、章帆は体から力を抜き、成り行きのままに、ブランコはその速度を鈍らせていった。章帆がぼくのことをよく理解していて、ぼくのことを好きで、愛して、その大前提のもとではあれど、ぼくからすれば、自分で言って、手応えがないではなかった。悪くないことが言えたのではないかと、それは正しくもあり、奇想天外な誤りでもあって。

 喜色満面、とはいかなかった。

「ええ、嬉しいです。すごくすっごく。その相手に私を選んでくれるのなら、喜んで。ふたりだけのユメを――でも、でもですね、それ、私が絢人クンから離れられないのは、どうぞけっこうでいいんですけど、私、〈略奪者たち〉からも抜けられなくなりませんか。いや、意図的に抜ける意思はないですけど、不測の事態というか有測の結果というか、〈略奪者たち〉って、あります?」

 ブランコが揺れるのをいくらか残しながら、ぼくに向く章帆の瞳は、おまえはまだ十九でも私は二十二だし、もうじき二十三になるんだぞ、と、痛烈に訴えかけてくるので、藪蛇やぶへびとはこのこと。いったん話を切るのに、都合の良い口実はとうに知っていた。

 ここは舞台裏なのだと。

 主舞台メインストーリーは別にあり、相応ふさわしき配役で繰り広げられているのだと。

 全くもって本当のことで、並んでブランコに乗るだけでぼくらというバンドが成り立つのなら、苦労なんてないという話だ。

「制度云々うんぬんについては、リーダー権限でどうとでもしてくれよ。さて、そろそろ場所を変えないか。たまにはブランコも悪くない、けど、そのせいで、万一にも主役たちの邪魔をしては悪い。斜向はすむかいのビルの屋上、人影が見えないか、ふたり。」

 ブランコに立つまま、章帆の目線の角度が上向く。「あれま。私、視力はかなり良いものを持ってるんですけど、あれ、央歌おうかちゃんと郁杏いあんちゃんじゃないですか。というか央歌ちゃんらしきほう、半分、泣き崩れるみたいになってませんか。」人生ずっとこれでやってきているからとうに慣れてしまったが、なかなかに厄介なのだ、ぼくの聴力みみは。「ぼくの視力はそんなでもないけど、声で識別できる。間違いなく央歌と八汐だよ。それでもって、央歌は本当に泣いてる。というより、泣き声が聞こえる。ぼくは知らないぞ、央歌が泣くところを見たやつなんて、ひとりも。ぼくだって。」今までは。これからは、八汐がたったひとりだけの例外、一人目だ。

 話の筋と関係なく、章帆が「うげえ。」と言った。「絢人クンとの新婚生活怖すぎ。何から何まで聞かれるじゃん。」実際に聞こえてしまうだろうので、無難に無言を貫いた。「それで、絶対に泣かないはずの鉄の女を、どのような裏技であっさり陥落させたので? 聞こえてたんでしょう。どうせそれも。」聞いてしまっていたし、章帆は盗み聞き云々うんぬんを咎めるより興味を先に立てたので、「じゃあ、一部始終、ひとまずそのあたりでも散歩しながら。これ以上はさすがに悪い。」と、ぼくはブランコから立ち、章帆もそれに続いた。


 雑居ビルの外階段は金属が剥き出しとなっていて、駆け上がる足のひとつごとに、独特な目立つ音を響かせた、手入れの行き届いていない音色おんしょくだ、きっとさびも目に付くだろう、重い音の打つ方、つまりは体格のある央歌の方が速くはあって、次第、追う八汐との距離は開いても、行き着く先は屋上でしかなく、空を飛ぶのでもなければ袋小路ふくろこうじだ。どうやら、年中走り込んでいる央歌に対して、単純な駆けっこでは勝てないと、八汐は最初から踏んでいたらしい。あたしに構うなとの主張を繰り返す央歌に対して、どれ程の駆け引きを繰り返したのか、その数は知れずとも、ようやく、ついに、という執念は、八汐の足音から伝わってきた。

 央歌が必死だったというのは、思わずという具合で、屋上のフェンスに行き当たり、ぶつかる音がしたからであり、「なんでこんな、あたしにこだわる。相手を間違えてるんじゃないか。放っておけよ。優しくされても救われないあたし自身なんか、自分で見届けたくなんかないんだよ。」と口をく激情に縛られているからだった。また、対する八汐も無我夢中の直中ただなかにあった。それはただ、慰めてみる、との役目から大きく逸脱したところに、自らが今この場にいる価値を見出していたからだ。

 もとより悪徳の極みで、うちのバンドに加入したのだったなと、その時ぼくは、今さらのように思い返したのだが、八汐には、優しくしてやろうなどという気は一欠片ひとかけらもなかったのだ。「一谷いちたにサンとおんなじ。ばかの見本。ばぁーか。そうやって、強くありすぎるのが悪いんだろ。腹が立つよね。弱くあれないってのが、かえってもどかしいわけ。結局、今、何か期待してたくせに。私は一谷サンのファンだよ、あなたは央歌さんだよね、相手、間違えてないよ。優しくするわけないじゃん。」業腹ごうはらだと。万全に強く在り続けるならば、むしろ強慾の大罪と。八汐の言葉は続いた。「慰めて落ち着くなら、私も人の子だから、そうするよ。それができないのは、だって、わかんないの。」央歌は苛立った。フェンスを拳で叩いた。しかしそれは、何も言い返せないということでもあった。

 八汐は相手を間違えなかった。

「選んでいいよ。そこから飛び降りるか、それとも、。」

 そして、突き詰めればこそ、結局それは、優しさの形を取るのだと。「ねえ、絶対に、誰にも秘密にするよ。だからせめて、私の前でだけくらい、弱くいなよ。私みたいな、こんなコドモの泣き虫にひざまずくなんて、もうとびっきり弱いじゃん。負けちゃいなよ、弱くなって、それですっきりして帰ろうよ。誰にも言わないよ。約束するよ。」央歌から返る言葉はなかった。ただ、鳴ることを始めた央歌の涕涙ているいの声音が、応じた心だった。

 ついに央歌を泣かせるに到り、それで央歌の気が晴れて、万事解決というのであれば、美しい結末だったのかもしれないが、ぼくは少々、余分に聞き過ぎたのだ。程なく、八汐の昂揚があった。「やっべぇ。」それは人を救ったという誉れではなく、「あんなにいっつも強い人が、私の前でだけ、そんなカオしちゃうんだ。そんなふうにすがっちゃうんだ。それでいて嬉しがってるんだ。えっ、やば。するっていうか、正直言って、めっちゃ興奮する。」悪徳と言うべきか、不健全とするべきか。すっかりなみだに濡れた声音で、央歌は話を持ちかけた。「郁杏さ、あたしはもう十分すっきり帰れるし、今すぐ、ここを降りるべきだよ。あたしが依存するたちだって知ったはずだし、このまま長居すると、あたしはとんでもないことを口走るよ。いいの。」

 八汐は認めなかった。相手を間違えなかったと言うべきか。

「そんな強がりは要らない。言いたいことを言いなよ。」

 だから、央歌は屈したのだ。

「行かないで。捨てないで。」




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る