Track 003 BESIDE SAD SONG
行き着いてみれば、一分一秒を争うと、そのような様相は見て取れなかった。
少し、息を整える。失態のうえに失態を重ねるでは、何をしに来たのか、わかったものではない。なあ、父さん、ぼくも思い知るべきだ。自らの無力を。できることとできないことを。いつかではなく今を
そこは〈
音楽の世界なら、それでもいい、
ブランコに座り、
いっそ世界の終わりと、無論それは大袈裟でも、ぼくはそのような心持ちでここまで来たのだが、ブランコを囲う柵の内側とは落差があって、哀しみの濃くはなく、怒りは
声音さえ、平静の色合いが強かった。
「こっちに来てくれたことは、気分いいですよ。そりゃあ、もう、素直に。来なかったら、危うく格下げにするところでしたしね。でも、思うんですよ。こっちは今回、あくまで舞台裏で、主役は向こうなんだろうな、って。」
少なくとも、来たことを拒まれるではなかったので、安堵は深かった。
「言葉ではどうせ、ぼくはうまく言えない。だからせめて今は、全部正直に言う。頼むから、格下げだけは勘弁してくれないか。」
微笑みすら、返ってきた。
「私の愛を甘く見ないでもらえますかね。格下げって言ったって、『是非ともお嫁さんにしてほしい人』から、『世のため人のために私の旦那に迎える人』になるってぐらいで、実態は変わらねえんですよね。隣、せっかく空いてますし、座りませんか。」
ブランコはふたつ並んでいて、残る一方を目線で示すので、ぼくは素直に従い、腰を下ろした。わずか、揺らしてみる。童心に、少しだけ
「ぼくが来たのは気分がいい、としても、来ない方が良かったのか。つまり、
と、ここまで言って、悪い酒を足さねばならないと気付いた。
「――つまり、好きなのももちろん、迷わず大切だと思えたのが、章帆だったから。なんだか、まったく、中学生から色恋をやり直している気分だな。」
章帆は嫌がるではなかったが、強い反応はなく、大きくブランコを漕いだ。
「それ、嬉しがるの、ちょっと後回しにしてもいいですか。大丈夫です。大丈夫ですから。
無論ながら、章帆が大活躍の果てにぼくを蘇らせたというのは記憶に新しいところで、ただ、まだ、舞台裏というものに、ぴんとくるではなかったのだ。間が悪いとのこと、平身低頭してここで許しを乞えば、むしろ失態を重ねることになるのだろう。章帆はぽつりぽつりと話し始めた。
「少し、後悔やらに
どうも調子外れだ。ぼくは怒られるなり謝るなり、そのために来たはずなのだ。
「わからないな。その言いよう、まるで章帆が、何やら過ちをしでかしたってふうだ。」
「実際、そうなんです。私が捨てたんです。」
「絢人クンが盛大にやらかしたのは本当で、私はもう頭が真っ白で、何か考えたら負けてしまいそうで、そのまま逃げて。でも、でもね、正直言って、心のどこかにはあったんですよ、ちょっとした、確信みたいなもの。絢人クンはきっと来てくれるだろう。どこかで待っていれば、すぐに会える。そう、ちょっと
今この場で、章帆もまた、正直だった。
「――怖かった。もし、万一、絢人クンに捨てられたらどうしよう、それが怖くて、すごく。あったはずの確信は、いつの間にか祈るみたいな気持ちに変わっていって、結果、絢人クンは来てくれましたよ。それどころか、好きだ、大切だと、ちゃんと伝えてくれた。ねえ、わかりますか。」
章帆からぼくに向く笑み、
「絢人クンはやったんですよ。私がやらなかったことを。」
章帆の視線は地を向く。古びたブランコの、その下は土であっても、
「問題児、恋愛のいざこざで脱退を繰り返してきた、飽きっぽくてすぐ捨てるからアキホじゃなくてあきぽ、と。だから、何回も、何人も、私は追わなかった。きっと、私のことが好きだった人たちを。そのままにした。別れるのは仕方がなくたって、それがたとえ愛の言葉じゃなくても、本当に大切なことを、せめて追って、せめて伝えて――」
章帆はブランコから立ち上がり、ぼくの正面に回ると、不意に口づけを交わした。
「捨てないで。せめて、本当の気持ちを聞かせて。あなたが好きだから。」
章帆はただ、肩を
「もしかしたら、誰かがきっと、こう言いたかった。追ってきた私に。そりゃ、色恋なんて綺麗事だけじゃ成り立たねえですけど、だからってそれで無罪って話でもなく、でも今となっては、私にできるのは、絢人クンと向き合って、大切にしていくことしかないわけで、今後ってやつのためにも、少しここで、自分をおさらいしておこうと。」
章帆は自分の側のブランコに戻り、今度は立ち漕ぎで、勢いを付け始めた。「そういえばスカートでした。しかも案外短いな、これ。」
「
ぼくが話を切り出して、章帆は体から力を抜き、成り行きのままに、ブランコはその速度を鈍らせていった。章帆がぼくのことをよく理解していて、ぼくのことを好きで、愛して、その大前提のもとではあれど、ぼくからすれば、自分で言って、手応えがないではなかった。悪くないことが言えたのではないかと、それは正しくもあり、奇想天外な誤りでもあって。
喜色満面、とはいかなかった。
「ええ、嬉しいです。すごくすっごく。その相手に私を選んでくれるのなら、喜んで。ふたりだけのユメを――でも、でもですね、それ、私が絢人クンから離れられないのは、どうぞけっこうでいいんですけど、私、〈略奪者たち〉からも抜けられなくなりませんか。いや、意図的に抜ける意思はないですけど、不測の事態というか有測の結果というか、〈略奪者たち〉って、産休制度あります?」
ブランコが揺れるのをいくらか残しながら、ぼくに向く章帆の瞳は、おまえはまだ十九でも私は二十二だし、もうじき二十三になるんだぞ、と、痛烈に訴えかけてくるので、
ここは舞台裏なのだと。
全く
「制度
ブランコに立つまま、章帆の目線の角度が上向く。「あれま。私、視力はかなり良いものを持ってるんですけど、あれ、
話の筋と関係なく、章帆が「うげえ。」と言った。「絢人クンとの新婚生活怖すぎ。何から何まで聞かれるじゃん。」実際に聞こえてしまうだろうので、無難に無言を貫いた。「それで、絶対に泣かないはずの鉄の女を、どのような裏技であっさり陥落させたので? 聞こえてたんでしょう。どうせそれも。」聞いてしまっていたし、章帆は盗み聞き
雑居ビルの外階段は金属が剥き出しとなっていて、駆け上がる足のひとつごとに、独特な目立つ音を響かせた、手入れの行き届いていない
央歌が必死だったというのは、思わずという具合で、屋上のフェンスに行き当たり、ぶつかる音がしたからであり、「なんでこんな、あたしにこだわる。相手を間違えてるんじゃないか。放っておけよ。優しくされても救われないあたし自身なんか、自分で見届けたくなんかないんだよ。」と口を
もとより悪徳の極みで、うちのバンドに加入したのだったなと、その時ぼくは、今さらのように思い返したのだが、八汐には、優しくしてやろうなどという気は
八汐は相手を間違えなかった。
「選んでいいよ。そこから飛び降りるか、それとも、私に許しを乞うか。」
そして、突き詰めればこそ、結局それは、優しさの形を取るのだと。「ねえ、絶対に、誰にも秘密にするよ。だからせめて、私の前でだけくらい、弱くいなよ。私みたいな、こんなコドモの泣き虫に
ついに央歌を泣かせるに到り、それで央歌の気が晴れて、万事解決というのであれば、美しい結末だったのかもしれないが、ぼくは少々、余分に聞き過ぎたのだ。程なく、八汐の昂揚があった。「やっべぇ。」それは人を救ったという誉れではなく、「あんなにいっつも強い人が、私の前でだけ、そんなカオしちゃうんだ。そんなふうに
八汐は認めなかった。相手を間違えなかったと言うべきか。
「そんな強がりは要らない。言いたいことを言いなよ。」
だから、央歌は屈したのだ。
「行かないで。捨てないで。」
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