Track 002 GAZE YOUR BEAUTIFUL STORM



 加入当初でもなし、央歌おうかとぼくが余所よそのバンドに興味を寄せることなど、滅多にあろうではないと、章帆あきほは思い知っているはずで――央歌はその傲慢プライドにより、ぼくはかねてより、意識する相手というなら、一谷いちたに史真しまという最高峰であったために、八汐やしおにせよ作曲家としてのぼくに異質のこだわりを見せるのであるし、それを重々承知で、ぼくが煙草から戻るまでの時間さえ待てずに、その身震いのため、ことが凶事であると通告するというのだから、尋常じんじょうの一線を凌駕する滅法めっぽうが待つと、それは明白で。

 しかしながら、だ、今現在の一場面ワンシーンを映写として捉えるとすれば、酷く平和な、ライヴのための場所でバンドとバンドが出会うところの、ごく日常的な、当たり前に過ぎるものとなろうと。

 間に合わせを隠す気のない、素っ気ないフロアの灰皿、というよりこれは、使い古したドラムの練習用トレーニングパッドの上に灰皿を固定しただけと思われるのだが、それを三條さんじょうとふたりで囲み、それぞれの煙草に火をけた。そしてぼくは、すぐに顔をひそめることになった。三條が懐から出したのがちまたでは見られぬ煙草の箱だなと、そこまではいい。

 三條が漂わせる紫煙からは、くゆらすほどにバニラの香りが流れ、つまりはフレーバーが足されているということなのだが、それが、ぼくとしては中々に許容しにくかった。「三條サン、よしみを通じようって趣旨で並んで煙草をんで、そんなにバニラを振りまくのは、無頓着むとんちゃくを越して横暴じゃないかと思うよ、ぼくは。」ぼくの苦情申し立てを、三條は理解しないではなく、嫌な顔もしなかった。「ああ、ウツクシイ友愛のために、どちらが何を差し引くかって話になるか。これは。」三條はただちに、火をけたばかりの煙草を灰皿で揉み消した。

 バニラのかざは途絶えるのだが、それは一服を諦める意志ではなくて、三條はぼくに向けて手を伸ばした。「一本寄こしてくれよ。生憎あいにく、こいつしか持ち合わせがない。」どうやらぼくは、ウツクシイ友愛とやらのために、煙草を一本差し引くことになるらしい。だとして、より割りを食うのは、三條のほうと思われた。ぼくから受け取って、喫するなり、三條はしかめっつらこらえようとした。「人の好みにをつけたくはねえけどよ、おまえ、よくこんな。軽くないのは助かるが、古臭い味しかしねェぞ。」これはこれで巻き添えの道連れか、少しばかり、愉快ではあった。「そりゃ、古いんじゃないか。ぼくが小学校に上がる前、うちの父がっていたのをたまたま覚えていて、それで選んでいるだけだから。」三條はぼくが渡した一本を諦めなかった。「おいおい、やめろよ、そんな話。親父さんと同じのをってるなんて聞かされたら、俺はどうしても、こいつを美味しくわなきゃならねェだろ。友愛的には。」ぼくの父と一谷史真は一致していないはずで、三條の認識ではあくまでただのなのだろうに、わざわざ立てようとする。悪人ではないどころか、という話だ。

 うちのヴォーカル――章帆を除いたふたりのうち背が高い方、つまり央歌が煙草の煙をいとうために、フロアまで連れ出されて都合が良かったと話したところ、その点、向こうも事情は同じで、話に出ていたギター氏が煙草を嫌うために、やはり楽屋でうことはないのだとのことだった。ただ、三條が興味を示したのは、ぼくらがどのパートをになうかだった。「そうか。あの姉ちゃんが歌うんだな。いいねェ、華があって。かっけえ服、何でも似合いそうだな。悪いな、〈略奪者たち〉のこと、何も知らねえみたいなもんなんだ。あいつに話を聞こうにも要領を得ねえし、調べなかった。後に取っとくんだよ、全ては今夜のお楽しみってワケさ。俺に言わせりゃあ、ケーキのいちごを最初に食べるやつなんて、限りある人生ってものの味わい方を分かってねえんだ。」まさか人生にまで飛躍させるとは。ちなみにぼくは真っ先に食べる。央歌も同じくだ。理由も全く同じで、苺を避けて食べるというのが単に面倒なのだ。

 苺を主題テーマに人生を語ろうという気にはならず、しかし気になることはあった。「せっかくのお楽しみ、その一端は、リハで見ちゃうんじゃないの。」三條は煙をゆるく吐きつつ、納得の至極しごくというふうで。本心より、苺を残さないのは悪徳と。「興醒きょうざめってやつだ。仕方ねェな、おまえたちのリハの間、メンバー連れて外で缶蹴りでもしてくるか。裏手に公園あったよな、確か。」何とも、風変わりな男だった。全くぼくに言えたことではないのだが。「せっかく決めた服を、わざわざ公園の土で汚すって?」ぼくの疑問は珍しく真っ当だったと思うが、三條は意に介さない、いや、三條、と言うべきなのか。「うちのファン連中にとっちゃ、別に珍しくもねえんだ。なんなら汚れ具合で、何をしてたのか当てるくらいだ。うちの缶蹴りな、決まって俺が缶を守る役をやるんだが、連敗記録がまた伸びたか、あるいは奇跡が起きたか、連中の間で話に花が咲くだろうなァ、まったく、ファンサービスってのはつれェよ。」そう、捉えようによっては微笑ましいものだなという話、しかしぼくの心身を迅雷じんらいの一瞬で巡った怖気おぞけそら恐ろしさは、何らの間違いでも錯覚でもないと、先の章帆の通告が、裏打ちとしてその確かさを認めていた。三條、ではなくて、〈Worstワースト Hurtsハーツ〉でもなく、きっと、三條


 ぼくたちのリハは無事に終わった。リハそのものは。ぼくの手に、スティックを握っていたそれに、やわく痺れに似たものが残る。それはリハといえど、惜しみなく、今夜ここで死ぬものと、くたばるものとして叩いた結果ではなく、そうしたかったのに、そうならなかったからだ。

 今夜のライヴ、その直前まで波濤はとうの果てで漕ぎ着けて、今さら、何をためらう。

 ぼくの打音ドラムまつわりついて引き裂けぬ一縷いちるとしての違和感、凶弾たまから沙塵埃ナノレベルにぶる決意、そうさ、死ぬつもりで、しかしどうしても、意志をたして足掻いても、完遂されない。ぼくの内奥ないおうを遙か見下ろし、ぼくからでさえ、その小さな一点に在るか無いかを、違和感としてしか覚えぬものを、余人よじんが感じ取るとしたら、到底、そこまでの精緻せいちを求められるものではなく、だから聞こえていたはずだ、ぼくの打音ドラムと。ヒトゴロシのサウンドを担う一角であるものと。さあ、今夜これでごまかすか、できるはずもない、よりによって身内に、ただひとり、そうと聞こうにも聞いてやれないのがいるんだよ。

 分からないはずがないよな。

 ぼくにも分かったさ。おまえだけは、ぼくの打音ドラムに足りぬところがあると、欠けている一点があると、それに気付いていると、ぼくは、おまえの歌から聞いていたよ。

 楽屋に戻るなり、ぼくは謝罪ひとつする間も与えてもらえず、央歌に壁際へと押しやられていた。狭苦しい楽屋だ、他の共演者が今ここにいないことは幸いと言えたか。〈略奪者たち〉の中で起きることとしては、つまりぼくが怒れる央歌に詰め寄られるのは、スタジオやらで同じ時を経ていくうちに、現状お馴染みの光景ではあって、章帆と八汐は気にも留めず、置かれた紙コップをそれぞれ取って、サービスとして提供されているほうちゃいでいたりなどしたのだが、それに口を付けようという段になって、ふたりともが、いつもとは様相が違うと――央歌の切なる激情が、そしてぼくに根付く自己への困惑が零れ、これは異形いけいを伴った衝突であると、気付いた。

 央歌の眼光は光波こうはの鋭く、力のままの憤然ふんぜんとしてつかねられても、放たれず、ぼくに向かわず、ぼくを貫くことのない。央歌の口調は冷ややかでも、どこか憐れみにも似る。なぜ突こうとしない。なぜ。「絢人、自分でさ、わかってるよね。どうするつもりだった。今夜これで叩いて、騙そうと思えばさ、できるんじゃないの。」わずかだけ、央歌の眼からせめて逃れない程度、顔を伏せた。「できるものか。肝心のヴォーカルに、打音ドラムが足りてないのがすっかり知れていて、何をどう騙せというんだ。ぼくよりよっぽど、分かってるんじゃないのか。」ぼく自身より、ずっと隣で聞き続けてきた者のほうが、きっと分かる。おまえ、リハでは一応、素知そしらぬていで歌おうとしたろう。そしてすぐに諦めた。他には隠せても、ぼくにはどうせ見破られる。

 央歌の返答は、ぼくにとって、慮外りょがいの極まるものだった。「そうだね。分かる。でもいいよ。かまわない、大人しく騙されてやっても。それでもいい。」まさか央歌が、音の不足を認めようとは。「ぼくは、そうしたいわけじゃない。」そうと言うので精一杯だった。

 央歌の怒りはたけるとも、の知れず、少なくとも正面、ぼくではない。

「教えてあげようか。どうして絢人の打音ドラムが、つまんなくなっちゃってるのか。でも、ただの親切ってわけじゃない。あたしの質問にひとつ答えてくれる代わり、それだったらいい。言っておくけど、騙されていいと言ったからには、その時は、ちゃんと最後まで騙されてやるから。」

 今ここで、本当のこと以外を、央歌が言うものか。

 央歌が、ただ質問に答えないだけで、オンガクを、譲ると。

 その意図が読めずにためらっていたところ、楽屋のドアが勢い良く開いて、〈Worstワースト Hurtsハーツ〉のメンバー五人がそろって闖入ちんにゅうした。いくらか服を汚してきた三條は気を良くしていて、「な、タイミングぴったりだったろ。いいんだよ三連敗で。奇跡は起きねえし、四敗したらきりが良すぎて連中が喜びすぎるだろうが。」と、実際に外で缶蹴りに興じて、余計な一敗をこうむらずに帰ってきたということらしいが。章帆が三條に、幾分かは申し訳なさそうに声をかけた。「こっちの都合で悪いんだけど、ちょっと今、シリアスだから、静かにお願い。」見るのみで雰囲気を読み取ったか、三條たちから文句が出るではなかった。

 ここで退けるか。退けない。

 央歌が教えると言うからには、きっとそれは正しい。

 ぼくは瞳の角度を上げて、睨み返し、抗することを選んだ。

「聞けよ。好きに聞け。このままじゃ、仮に央歌を騙せたとしても、ぼくがぼくを騙せない。」

 こんな時に妙ではあるかもしれない。やはりぼくは取り戻してはいるのだなと、息を吹き返し、オンガクにじゅんじて生きることを、今、どうやってゆるがせにできようか、と、それを自覚した。央歌は意を決したという目つきで、「それじゃ、遠慮なく。」と、わざわざ前置きをした。オンガクの事柄であれば、何と引き換えにするでなく、躊躇ちゅうちょなく、叩きつけていただろう。

 央歌は少なからずためらった。

 ぼくも、央歌も、ただの弱さに過ぎないから。

 違いなく央歌の声音でありながらも、そのありのままの、存在そのままのだった。

「ここのところ、あたしとセックスしないね。そう、ちょうど二晩、帰ってこなかった時から。それはどうしてか、聞かせてもらっていい?」

 意外な問いだと言えばそうだし、こんなことさえ、正面から撃ち合おうとするのだから、央歌らしいと言えば、そうでもあると。

「それは、わざわざ聞くまでもないことを聞いていると、そう解釈していいのか。」

 央歌が何を得ようとしているか、まるで知れないよりは、気持ち程度だけであっても霧を晴らし、明瞭に近づけたかった。央歌はうなずく。端的に肯定する。

「そうだね。そうなるね。」

 一連の流れにあまりにえかねたのが、思わず口を差し挟んでしまったのが誰かというと、風変わりではあっても人がくて、そして十二分に勘の鋭い三條だった。「おいおい、まさかだろ。とんでもねェ。わざわざ本番当日に修羅場やんのか。おまえたちは。」章帆が三條を睨みつける。「とにかく、黙っててってば。こんなの、うちのバンドにとっちゃ、日常業務の一環なんだよ。」三條は言われておとなしく従ったが、央歌の怒りが、ついにひとつの矛先ほこさきを得るには、「?」そう、十分に過ぎたと。

 央歌はぼくより離れ、歩み寄る。力をまとい、怒りを帯びて、詰め寄って、相手がベーシストでさえなければ、あざの残るほど、肩を掴んでいたかもしれないと。本来の矛先ほこさきであるか、そうと思えない。それならば央歌は迂回などしない。りっせていない。央歌が。自らの怒りを。

 あふれ出る。とどめ置けない。本来あるはずのところより。そうだ。理解する。央歌の牙が真に向くのは、きっと、央歌自身で。自らの、自らへの、こらえきれぬ苛立ちと。燃え立つものを、央歌は力の限りに抑え、しかし間に合わない。

「一番の当事者が。まるで他人事ひとごとのように。なめるなよ。なんであたしが、わざわざここでこの話をしてると思ってるの。ああ、いいよ、絢人をさ、あたしは恋愛で見てるわけじゃないから、くれてやるのはいいんだよ。だからって、人のことを何も知らない馬鹿はすぐ染まるんだよ。章帆が思ってるよりずっと、もっと、この馬鹿はとっくに章帆にこだわってる。絢人の世界オンガクを生かすのも殺すのも、章帆ひとりが握ってるのが現状なんだよ。とうに、戻れる地点は過ぎてるんだ。」

 圧力が一方を潰すことを、現実は認めなかった。人と人として相対し、拮抗することを選んだ。章帆の眼差しは、純粋な直線で、央歌に向く。

「ええ、そうですね。自覚が足りなかったというなら、それは認めます。でも、言わせてもらっていいですかね、、とは、よく言えたものですね。誰より絢人クンにこだわって、すがって、必要としているのはのくせ。絢人クンが変わってしまったとして、一番困るのはこのバンドじゃない、あなた自身でしょうが。」

 央歌は眼光こそ揺るがさずとも、言葉に詰まった。ぼくがわからないばかりだったというのは、つまり、近すぎたということなのか。章帆は知ったのだ。ぼくを通して。

「結果的に、ですけどね、分かるんですよ。分かっていったんです。絢人クンと央歌ちゃんって、似たもの同士とか、馴れ合いとか、そういうの通り越して、半分くらいというか、もう重なっちゃってるというか。長らく、結果でそうなったのか、わかりませんけど。」

 ぼくの半分は央歌で、央歌の半分はぼくで、と、そのように言われているも同然で、しかし、どうしても、否定の心持ちが湧かない。

「このふたり、基本的にふたりだけで完結してて、私が言うのもどうかと思うんですが、芦崎あしざき章帆という余所者よそものが、絢人クンの愛を獲得してるって、壮絶な不規則イレギュラーだと思いますよ。」

 ぼくも央歌も、何も言うでなかった。返せる言葉など、ありようがなかった。

「絢人クンのことを知ると、央歌ちゃんのことも同時に分かるって、そんな具合ですからね。だから私は何も言ってません。何も。だって、ねえ、強いのは本当でも、けっこう弱虫だったり、するでしょう。人と向き合うのに、臆病で、怖がりで?」

 央歌というものは、やはり央歌ではあった。それとはつまり、ぼくではない、残りの半分にいて。力のままに立ち、折れることを自らに赦すことができず、しかしそれでも、現実をありのままに、逃れずに認めるならば、その声で紡がれる言葉というのは、弱くあるしかなかったのだ。

「そう。そうだね。震えてた。絢人が二晩、帰ってこなかった時。思い知らされたんだ。あたしには絢人しかいないし、今となってはさ、生きることを預けすぎて、絢人が絢人でなくなったら、それでもう、だめなんだって。イヤだな、認めるしかないってのは。」

 つらさを噛むような苦笑と共に、章帆は補足を加えた。

「面倒くさがりなんですよ。大概。ふたりとも。ひとりいて十分なら、それでいいやってなっちゃう。」

 結果、弱音を央歌から引き出して、章帆は深く息をいた。

「一応、繰り返しますけど、だから、私は何も言っていません。まあ現実問題、他に帰るところはないでしょうけど、帰れとも帰るなとも、帰ったとして、ああしろともこうするなとも、何も言ってませんよ。まあ、恋心じゃないと分かるからできることではありますけど、とにかく、迂闊うかつに立ち入れないんですよ、あなたたちふたりに。」

 央歌も息はいた、でも、わかる、まだ、終止とするはらはない。

「配慮には感謝しなくちゃいけないし、あたしが弱い立場なのも分かるんだけどね、絢人と同じく、やっぱり馬鹿なんだとも、承知のはずでしょ。それで、絢人の自由意志だって言いたいの。悪いね。そんなんで納得できるほど、どうでもいい存在じゃないんだ。ねえ、絢人、答えなよ。理由。いいんでしょ、取引、するんでしょ。」

 そう。すると言った。自分が騙せないから。

 オンガクで。

 だから何だというのだろう。

 それでも、ぼくは答えたのだ。

「ぼくが章帆を好きだからだ。他に理由はない。」

 ぼたりと、即座に音がしたというのは、床にほとんどが零れ尽くしたというのは、章帆がその手に持っていた紙コップを、ほとんど全ての中身の残っていたそれを、力任せに握り潰したからだった。床が濡れ、広がりを見せる。章帆の顔つきから、何らの表情も窺えない。肌が、服が濡れて汚れようとも、気にもしない。何も、そこにありはしないかのように。何も。受け入れるなど、できなかった。

 結果、嫌な役回りを負うことになったのが八汐だった。「ひょっとして、だけど、一谷サン、章帆さんに対して、まともにって言ったことないんじゃないの。だったらまあ、自覚がないのも納得というか。これ、さすがにやべぇ事態というか。」紛れもなくそれが事実なのであって、まがいなく禍根かこんで。

 本人のために、本人に向けて、言えずにいて、オンガクのためには言うから、始末に負えないと。あるいはそうでなくば、央歌のためと。ぼくがぼくを騙せない? それはそうだ。だからって、馬鹿を言うな。ぼくが章帆を騙していたんだろう。そこにあったのに、言わなかったんだろう。伝えなかったんだろう。とっくに、あったというのに。

 央歌は約束を守る。

「絢人の打音ドラムがつまんなくなったのは、死にきれなくなったからだよ。絢人はさ、死ぬってことが何を意味するか、まだ分かってなかったんだ。それが分かるようになった。なってきた。章帆のおかげで、さ。どういうことかって、もし、あたしが今夜死んでしまったら、。じゃあ、絢人が今夜死んでしまったら? そうだよ、。それが、死ぬってことだよ。イヤでしょ。」

 三條が、章帆の手にあるままの潰れた紙コップを受け取り、「しゃあねえ、床は拭いといてやる。」と伝え、章帆は端的に「ありがと。」と告げた。章帆の表情に生色せいしょくは戻らぬまま。

 央歌は寂しくも諦めた顔を浮かべ、章帆へ声をかけた。

「ごめんね。馬鹿で。」

 章帆は、唇だけを動かして応じた。

「ええ。本当に、ふたりとも。」

 ぼくから逃れるように、そして章帆と央歌が今、互いに顔を合わせられるはずもなく、どちらからということもなく、ふたりともが楽屋を出て行った。いくらなんでも、追うだろう、こんなぼくだろうが、うまくいこうがいくまいが。追って、それで、どうするのか、それでも、弱さにあるままでも、生きていて、気持ちはあるのだから。なあ、ぼくがいなければ起こらなかった事から、逃げられないのではなく、逃げたくないのではなく、せめて、追いたいから。

 それでもぼくはひとりしかいないので。

 どちらかにはそむかねばならないので。

 見かねる八汐に、また損な役回りを押しつけた。

「おばか! 素直に、大切だって思うほうを追わなきゃ、何の意味もないでしょ! もうひとりは、一応私が何とか、慰めてみる。だから早く。」

 駆ける。

 オンガクだけに生きられないなんて、そんなの、当たり前だった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

略奪者たち 香鳴裕人 @ayam4

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画