Track 007 LET ME SAY ALL RIGHT, PLEASE



 ホテルを出て、そこからの交通機関はタクシーを選んだ、その代金はあるからと。復路もあるのだから、どうやら、父からもらったタクシー代は、すっかり有効活用できてしまえる。連れられて行き着いた先は、立派な店構えのライブハウスで、ごく一般のものと比べて、明らかに規模がひとつふたつ違うのであれば――なにせ店の前の敷地も大きく取られ、開場前、客はここでそろって待つものと、ならば分類上、別物なのかもしれない。すでに消灯されているようで、看板がほのく照らされるのみで、ぼくがベッドでしばし休んでいた分の時間と、車での移動のうちに、すっかりそのような時刻となり、今日の営業は終えている様子だった。もっとも章帆あきほとしては織り込み済み、店を閉めた後に来ないでは、話が始まらないという。

 章帆はバッグから鍵を取り出し、「実家がライブハウスとスタジオをやってるって、前に言いましたが、ライヴハウスのほう、つまりここなんですよ。」と、地階ではなくきちんと一階にあるいかにも頑強そうな正面のドアを開けて、時計の針からして関係者以外立入禁止であるところ、その関係者にあたる特権を活かした。「自分で使ったことはないですけどね。家族割引してやるぞって言われても、こんなところのキャパ、半分どころか四分の一も埋められないだろっていう。」残しておいてもらったのか、ロビーから通路、最低限の照明はいていた。ライヴに特化しようという狙いか、不健全な雰囲気をあえてかもそうという内装でも、安っぽさが見当たらないでは、格好かっこう良いと類別するよりない。

 このライブハウスがいつ開業したかは知れないが、それでもひとつ納得があったというのは、ぼくも章帆も、同じく、その性質は大きくかけ離れたものであれ、生まれた頃よりずっと、ごく当たり前のように音楽に馴染み、わかたれることなく、生きることの連れ合いのうちに在ったのだと。ぼくが呼んだスタジオで、章帆が自然に、多彩にドラムを叩いたことが、今そのことと繋がるのだ。きっと、その時にはそれと気付かぬまま、ぼくたちの母国語でのやりとりがされていたのだと。

 内心に混濁を覚えないではなかった。オンガクのための空間に、オンガクの死んだぼくが這入はいり込む。居心地が悪いというのではなく、ここにある物の全てに、現実の見れない、唯一、ぼくにとって確かさのある章帆が先導していなければ、どこに行くにも覚束おぼつかなかったのではないか。ちらと見える章帆の横顔は苦しげで、悔悟かいごの窺えるようで、ここにぼくを招き入れることに、葛藤がなかったとは思えない。それでも章帆は導く、まだ謝らないと言った、そのために進む。願いにじずに。たとえそれが、自らの無力をさらすことであっても。

 ならば回り道などなくて、すぐにフロアに出て、座席のない広々とした空間に――音の鳴りさんざめくはずの領域に、ぼくは放り出される。やはり最低限の照明だけ残されていて、舞台ステージのほとんどは暗がりに潜んでいる。舞台ステージは見上げる位置にあり、であればその前に柵はなく、しかし広さをぎょするために、フロアの中程なかほどに断続的に、客を仕切る柵がしつらえられていた。ぼくはぼくが自らに感じるより、見るにえぬ状態だったと思われ、ならばぼくは今、自身に覚える知覚さえも朧気おぼろげなのだと、章帆はぼくを、フロアのちょうどなかばにある柵にもたれさせた。なるほど、もう立つことも難しいのか、章帆をどうにか見やれば、そこに悔悟のる余地はなく、瞳の虹彩こうさいは、ぼくと戦おうとする直前の父にも重なるような、あるいはぼくも、このような光をたたえていたか、逃げるな、何よりもまず、自らの無力から決して目を背けるな、足りぬままにしかいられぬことから逃げるな。

 今、生き返らせてもらう目的が薄れて、別な気持ちが噴く。ぼくが、ぼくだけがいるここで、章帆の戦うことを、見届けてやらなくちゃあ、聞き届けてやらなくちゃあ、それができなくて、いくら何だって、辻褄つじつまが合わないだろう、もしか、こんなねがいが愛というものの一端であるというなら、今だけでもいい、ぼくはそれを知りたい。

 章帆はぼくの肩にそっと触れた。「ここに。このままでいいですから。セッティングがあるので、少しだけ、待たせますけど。」章帆は苦笑を混ぜた。「ビジホ、あんまり留守にしていたくなかったから、全部一発録りの、練習時間なしの、それはもう素晴らしい出来ですよ。ええ、もう。」そうか、スタジオについても、実家の家業か。ひずむ世界にあっても、なるほど、それは大いに期待できそうだと、そのくらいは思ってやれるさ。なあ、構わないよ、楽しみに待たせてくれ。

 章帆は指のひとつを、涙腺るいせんに添えた。思わず、か。視界さえ空漠に呑まれそうなことを不確かに覚えながらも、まだたもてと、ぼくは自分に言い聞かせる。「愛って、ほんと、不自由ですよね。」思わず、の正体は、章帆自身の力足らずに波源はげんがあるのだというよりは。「思うんですよ。もし、テレパシーみたいな何かで、私の愛がそのまま直接、全部何もかも、絢人あやとクンに伝わるんだったら、こんなの要らないって。そりゃもう、すぐにでも絢人クンは生き返りますよ。死んでなんて、とてもいられないですよ。それ絶対ですから。」わずか、気のせいかと思えるような角度で、章帆は目を伏せる。「でも、私もあなたも、ただの人間だから、何かを伝って届けるしかなくて、その非効率の、極まりないったら。やり方だって、いくらもない。私にはこうするしかなかった、いいえ、こうであることしか、残っていないでほしい、絢人クンを余計に苦しめることになるかもしれなくても、これだけであってと、私が願いました。私も大概、ままなのかも。」章帆は眼から指を離し、些末さまつだけ胸をくのを顔に浮かべて――きっとあなたが大好きなやつです、と。不幸にあって、つゆで好き勝手を選び、ああ、そうだな、ぼくの好みを憶えてくれていて、ありがたいな。

 章帆は言いたいことを言い終えて、ぼくのそばを離れた。ぼくは視界を巡らす余裕はなくも、中途ちゅうと、その足音は立ち止まることなく、おそらくは振り返ることもなく、音響なり照明なりのブースに向かったものと。

 信じてみたって、いいんじゃないのか。

 目に見えぬものを。

 音としてさえ、聞こえないものを。

 サンタクロースを否定したぼくたちが、それでも望んでしまうものを。

 その結果ではなくて、

 これから起きることを。

 そこには章帆だけじゃない、ぼくがいて、まだ崩れてくれるなよ、柵にもたれるくらいにしておけ、倒れ込むんじゃないぞ。まさか息を止めるなよ、意識をたせて、見つめる視界を残して、耳を澄ませて。いいさ、喜んで、殴られなくたって、いくらだって付き合う、付き合わせてくれ、おのれのねがいを押し通して、そしてその後どうなるかなんて、ぼくらにとっては、これまでずっと、知ったことじゃなかった。それでいいんだ。やってくれ。

 あれこれと、優しさの見本を言ってやれたらよかったな、なんて。

 思いたくはない。

 ぼくはぼくのままで、受け取りたい。

 ステージに光がともる、全体を最低限に染める単色シンプルの白と、また、さらに、中央をさやかとするための一点スポット。その光の可視によって舞台ステージにあることを、待っていることを誇示こじしたのは、立てかけられた章帆のベースと、いつもなら用のないスタンドマイクで、光のぼくの身にも及ぶことが滲みるうち、微少、聞こえ始めるのは空白ブランクによる雑音ノイズ、何も録られていない範囲にあるだけ、音源は回ることを始めた、もはや章帆から、引き返すみちは失われたのだと、そう思えば自分の不格好ぶかっこうにほとほと呆れる、だから、立った、ぼくは意志を拠り所に、あるいは章帆の決意に支えられて、背で身を預けることをやめ、自分の体のみで、立った。ふらつくなよ、少しだけ、体の生存を喜べよ。

 計算尽くの空白ブランクは、章帆がステージに着くまでの移動時間なのであれば、今はどこぞを駆け足だ、ぼくの聴力みみを舐めないでもらいたいな、そんなに急いで、本番前に転んだらどうする。まさか、その天資てんしの身軽さで、今さらそんなこともなかろうが。勢い任せに進んでいく足音、近づく、舞台ステージに迫っていく。舞台そででそれはつと止まり、それは今さらの心の準備とは思えず、いいんだぞ、大いに息を切らしたまま出てきてもらっても。

 ついに章帆が舞台ステージに姿を現し、一点スポットの向く中央に、ぐに歩みを止めないなら、放光ほうこうはそんな章帆を照らせばこそ、月明つきあかりとして、夜天光ほしあかりとして世界に映る。そうあるべくして、章帆は自分のベースを――愛機、章帆いわくアンジーを、手にして、ストラップを肩に回す、人工物に囲まれたこの場所で、人為的な音ばかりを好んで響かせる箱の中でなお、いかに世界の美しくあるかを思い知る。

 スタンドに差されたマイクを通して、すっかり聞き慣れたはずの、しかし拡声かくせいによって妙味みょうみの質を変えた章帆の声が、フロアに響く。これをひとりで聞ける贅沢も、ずいぶんと悪くない。マイクテストがてらなのか、章帆は名乗った。「えー、ご存じ、芦崎あしざき章帆です。〈略奪者たち〉の一員の、とは、ここでは言いません。近々きんきんのうちに絢人クンの婚約者になる予定のしがない一般人ですので、そこのところ、よろしくお願いします。」どさくさに紛れないでくれ、考えるとは言ったが、待たせないとは言ってないぞ。章帆はベースを鳴らし、チューニングという程のこともないが、自分の音感で少しだけ直した。これで万事、整ったと。音源の空白ブランクの時間は今さら動かしようがないのであるから、迫るのみであって、辿り着けば、あとは懸けることをやめないだけと。

 空間の、そこに立つひとり、ぼくだけに向けて、章帆の声音にあるものは祈りだった。「作詞作曲はできないので、借り物コピーですけど、でもきっと、私はこれがよかった。」そして、オンガクを喪失したぼくへ、オンガクを届けるしかない、そのことへの痛切な懺悔ざんげでもあって、罪深い祈りとしてあるままに、それを認めるよりなくて、知りながらなお、それをする。章帆はまだ謝らない。

「聞いてください。」

 音源から打たれ始める間隔クロック、いたわりの在処ありかまで、あと一歩。

「お願いですから、帰ってきてください。どうか、どうか――」

 いかに罪深くあろうとも、祈りを受けてめてやりたい、だなんて、それを愛と呼んだら、きみはそれに及第点をくれるだろうか。

「どうか、道案内になりますように。」

 鳴ることの始まる。すでに用意されていた音源から、章帆の本来の軽やかなドラムは、しかしどこまでも誠実で、地に足を着けることを決して忘れず、一歩一歩を、確かに一途いちずなものとして。進むことの正しさを求めるのではなく、行きたいという意思を抱くことをめてしまわないように、と。

 一歩の意志に合わせるように、あるいは、進む景色の風の流れのように、まだ耳にしたことのなかった章帆の弾くギターは、先へ導くものでありながらも、その役目を果たしながらも、目立とうということのなく、手を引くことを、たとえ気付かれなくたっていい、と、それでも、寄り添うことはやめない、と。繋ぐ手は離さないと。

 原曲オリジナルを厳密に再現するのではなく、多分に、章帆の編曲アレンジが込められていた。もともと、キーボードのパートなんてない。それが今、ここにはある。ピアノとは違っても、それは鍵盤で、さらには、幅広く選べるはずの音色さえ、ピアノに近しいものを、それをこの場で、一谷いちたに史真しまにやられてきたぼくに、一谷史真の息子として育ってきたぼくに聞かせてやろうという、そのことにこそ、章帆の願いの、かくい強さのあるものと。逃げられるわけがないものな、真っ正面からこそ向き合いたくて、そうあればこそ、ここに鍵盤の旋律がないでは、話が合わないんだよな。

 用意された音源に、章帆は自らの指を動かして、柔らかな、生きているベースを重ねた。イントロを過ぎれば、精一杯に、祈りの限りを尽くして、歌声を響かせた。

 誰も、何も混じらない。

 鳴る音の、その何もかもが、章帆と。

 初めて聞く章帆の歌、音程をたがえるなんてないとは思っても、まさか歌声で、その歌詞にらず声のみで愛を伝えてくるなんて、よくやるよ。始まりからオンガクと連れ合って生きてきたぼくたちの、だからこそ伝わる言語で。ああ、そうだな、辞書に載っている言葉の意味を調べるより、ずっとわかりやすい。まったく、こんなにぼくを愛してしまって、章帆の人生、この先が思いやられる。もっとも、ぼくでよかったな、歌詞は日本語ではなく英語で、ぼくは聞き馴染んでいるからいいけれど、その発音は拙くて、下手をしたら聞き取れないぞ。

 些細ささいな力足らずだって、

 今この場では、小さな奇跡のひとつに思えてしまうよ。

 こぼれたぼくの世界にあって、そのままに、透き通るまま、ぼくを貫いていく。

 章帆はばくされることなく指をさばいて、ベースを弾いた。繋ぎ目の色めく程に、滑らかに。それは愛を裏返し、大切な玩具を壊したいとする、奔放ほんぽうなうねりを持つものではなかった。あるのは表ばかりの、あるいは裏返すのだとしたら、愛の裏にあるものはやはり愛だった。技巧に頼ることなく、穏やかな命の根本もとでありたいと、忠実に、一意いちいなずんでオトを守る。大切に扱い、生かして、こいねがうことが寸秒たりと、絶えることのないように。

 編曲アレンジが加えられているとして、原曲もともとのところの何らも損なわれているわけではなく、なにものであるか、すぐに知れる。ああ、まるで嫌いじゃないよ、何度だか知れないくらい、繰り返し聞いた程だよ、それはぼくのみならず多くの人に、耳に深く馴染む、長くの時を経てもきらめきを失わず、幾人もによって、歌い継がれてきた名曲ポピュラー

 カントリー・ロード。遙か故郷に連れて行ってくれよと願う歌。みちの繋がりは確かにあるのに、届きようの知れない歌。自分のいるべきところ、在るべきところ、帰属するはずところに、それを知り尽くしていながら、今まさにそこから離れているひとつきりの命に、自らで問いかける、帰れるかい、帰ってもいいのかい、まだ、間に合うか、なあ、連れて行ってくれるだろうか。今、自分のいない故郷がある、戻る道があり、思いを馳せればこそ、真に温かい涙に値するものはきっと、今、見つけられない。祈りの歌。何もないではない、みちがあればこその。章帆は信ずる。そのことを。

 帰ってほしい。

 許してください。

 これしか、選べなくて、選びたくなくて。

 オンガクで、あなたを縛ることをいとわない、愚かな私を許して。

 ごめんなさい。

 生き返らせるなんて、本当は無理なんです。

 私にはできないんです。

 どんなにあなたを愛したって、それはやっぱり、愛でしかないから。

 約束を守れなくて、ごめんなさい。

 それでも、届けたかった。伝えたかった。願いたかった。

 って、思ってほしい。

 あなたの望む場所へ。

 戻りたいところへ。

 みちがあると信じて。

 大切なものをなくして、生きていくことを求められずに、どこへも向かえなくなっているあなた。

 望んで。お願いだから。願って。

 もう、どこだろうとかまわない。

 見当たりませんか、探せませんか、それなら私が、私こそがみちになるから。

 だから、帰りたいって、言って。

 そんなところに、ひとりきりでいないで。

 私があなたを連れて行くみちになる。行き着く先がどこであっても。

 見つけてほしい、気付いてください、信じて。

 みちになる。だから――

 帰ることを願ってください。

 ぼくは切望に包まれ、内奥おくに月光の降り積もるようで、静謐せいひつな奇跡としか成り得ず、伝わって、受け取れて、全ては真実そのものに違いなく、心は震えることをやめない、温もりは優しくあることを恥じない、感じる程、触れる程に、ぼくの精神はむしろ、涕涙なみだへと近づいてしまう、なぜ、なぜ今、ぼくは、。死体のままで、この歌を聞いているのだろう。どうしてぼくはぼくのオンガクの在ることなしに、このオトを受け取っているんだ、それでも章帆の願いは鳴りまない。確かに感じる。何から何まで届いて、ぼくを叶えていく。生まれないわけもない、願い――

 ああ、帰りたいな。

 どこに?




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