Track 006 LAMP TO THE MOON
すでにちぐはぐな調子外れという格好ではあった。本人がいくら最悪な酒と言っても、あまりに安酒の値段にしても悪かろうと、ぼくは子供のお年玉程度にはもらっていったのだが、まさかタクシー代が駅二つ分とは思っていまい。ずいぶんと釣りがくる。
近いのは良しとすべきなのかもしれないが、いくらか、タクシーの中で揺られていても、悪いではないように思われた。不規則に揺られることの体感が、あるいは安寧と思えると、それは、音ではないから。対比を受けてしまっていたから。タクシーに乗り、実家から戻るところ、運転手に頼み、少し窓を開けておいてもらった。何でもよかった、音を耳に入れることを、滑らかな心地の座席を背にしながら、求めようとした。景色をぼんやりと見るともなしに目に入れながら、止まるなり曲がるなり進むなり、車中にあって、様々に聞く。信号待ちの際に届く話し声もあれば、隣を行き過ぐバイクの動的に駆動するのもあれば、走る車はそれぞれに違うエンジンの働きを響かせて、車が空気を切るか、あるいは風が車を撫でるのか、犬が吠える、人の足音、街が暮らす吐息、いくらだってさんざめく、命と世界が在るということの音、息づく
それら全てが、ぼくのオンガクが空白しか持たぬことを際立たせた。音は音として聞こえるばかり、それだけ、聞こえるだけ、ぼくの
そうか。救いを求めて帰ろうとしているのか。
今さらながらに、滑稽とも言えるかもしれないと。ぼくはぼくのオンガクの
約束した。帰ると。
ビジネスホテルの部屋に入るなり、ぼくはベッドの
ようやくのことで、章帆はぼくに声をかけた。「おかえりなさい。」はっきりとした声で、でも強がりと容易に察せられてしまう声で。ぼくは戻ったのだと、約束通りに、それが確たるものとなれば、心中に空いた余裕で、どうにも
目を
聞こえる。心にはっきりと。前よりずっと、鮮烈に。
あんたのピアノの響きが。
成層圏だって見下ろすつもりか、なあ、注ぐのは
ごめんよ。辿り着けなくて。
あんたにそれを教えてやれなくて。
最初から、いつまでも、あんたは、あんたしかいない世界にいて。
行けなかったよ、そこまで。行きたかったよ。響く。どれだけ手を伸ばしても届きようのない神域から、
逃げなかった。
逃げないよ、それだけだよ。
死んだよ。ぼくは死んだし、今も死体だよ。それでも、願ってもいいかい。こんなピアノ、腹が立つばかりで、聞いちゃいられないよ。なあ、願ってもいいかな、今度は全員で、あんたと同じ場所まで辿り着きたいと、そのようにさ。だから、認めてんじゃねえよ。ひとりでいるな、傷つかずに弾くな、あんたのピアノは、もっと生きられるんだ!
腹が立つよ。
あんたのピアノを聞いて、苦しんでなんていられない程にさ。
なあ、ひどく、あまりにも、腹が立つじゃないか。
今さら、傷ついてなんて、いられないよ。
潤むに反して気丈な瞳が、ぼくに向く。「今さら。私があなたを好きで、全部、納得
人が人に救われるということの、何と重いことかを。
微笑む。章帆がぼくを見る。章帆の視界にいるのはぼくで、章帆の思う相手で。そうだな、まるで、嫌に思えるものじゃないだろうけど。「愛に理屈なんて要りますかね。本当は私、それしか言えないですよ。そういうものですよって。でも、
そうだな、下手に褒められるより居心地が良いよ、続けてくれよ。甘えておくよ、それでいいんだろう。
「
涙を拭っていたはずの手が、その役を終えて、そして、その指が柔らかく、優しく、ぼくの首筋を撫でていった。
「こんな不幸な人、このまま殺してしまいたくなるよ。今ここで、首を絞めてしまいたいよ。私がこの手にかけてあげたい。その役目は譲らない。誰にも。絶対に。でも私はそれをしない。絶対にできない。たとえ愛を知っても、やり方を学んでも、オンガクがこの世にある限り、きっとあなたはシアワセにはなれないね。私はそんなあなたを、不幸なあなたを見ながら、そばにいる。それが私の、あなたを愛すること。」
指が離れていく。触れた温もりがあった。そこに確かに。
それで
「あー、やだやだ。もう。こんな話はやめですよやめ! これだから年下の彼氏は困るんですよ。コドモで、
ぼくは敗北を宣言する他はなく、大変な
髪をそのままにしたいわけもなかろうが、章帆は
章帆の分の缶コーヒーもあって、それに口をつけて、好みに反して無糖と。「正直言って、」章帆の、重みを帯びる真剣な声音、章帆の言うところのど阿呆は、ようやくのことで気づいたのだが、ぼくは戦うのを終えた後でも、章帆は今これからまさに、懸けることになるのだと。「私、絢人クンのお父さんがしたことと、全く逆のことを、これからしなくちゃいけないんです。それって、絢人クンのお父さんと同じだけの力がないと、本当はできないことなんです。私に、それがあるなんて、夢にも。私だって、愛の力とか信じたいですよ。でも、一谷史真がしたことは、そんなに
もとより、何も謝る必要なんてない。「道連れだって、ぼくは言ったんだから。何も構うなよ。それと、電話をかけた時のように、
ぼくは珍しく機嫌を取ろうとしたのだが、やはり慣れないことはするものではないらしく、あるいは繰り返し失敗して学べという話であるのかもしれないが、とにかくも、章帆は非常に、明確に、お決まりのげんなりを隠さなかった。
「あのう、それ実質、
恋人と間違えて
「十文字以内で何か考えておく。あんまり長くすると
ぼくは自分というものを
「いっそ五文字にしてください。十文字でも長すぎて怖いんですよ、あなたの場合。」
章帆は胸の奥に無力を秘めながら、明るく笑った。
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