Track 004 SOMEWHERE IN SOUND



 見慣れた実家のリビング、誰もいなくとも、ほんのわず妙味みょうみの違い、自身の心の移ろいをそこにみ取っても、その名前をどう呼ぶのかは、辞書にはないかもしれない。いつかどこか、ぼくの書く曲の中で、その得体えたいを晒すのかもしれない。あるいは。

 ひとり、ドラムセットの中心にいて、ぼくの書いたぼくたちの曲、〈略奪者たち〉の曲の譜面を広げ、見つめながら、父の帰りを待っていた。待つというのは正確でない、父が日本にいることは確認したが、帰宅は夜になるという。このリビングには窓がないため実際には知れないが、まだ日没も迎えていないはずだ。今、父に向き合うということを、楽譜に棲む、絢人ぼくというものの世界オンガクに見ている。たぶんぼくは、やはり、ぼくを救うことができない。それでも、納得のいかないようにはしたくない。相手が父であれば、一谷いちたに史真しまであればこそ、なおさらに。悪いな、やはり帰るのは、ぼろくずの死体だ。

 ただ、もう、ひたすらに、

 逃げたくないだけ。

 思わぬところ、玄関よりの物音、まさかここで泥棒が来たなどと思わないが、果たして、リビングにスーツを着込んだ父が現れたのだった。やや暑かったのか、ネクタイのみならず、ジャケットも雑に放り、ジャケットは半分ほどソファから逸れて床にかかる始末だった。暑いならベストを着るなと、何度言ったか知れない。父に怒気どきはなく、あるいは興趣きょうしゅすら感じたのかとすら。「ぼっちゃんがいたので遠慮しました、だとよ。玄関先でお前の靴を見たらしい。他人ひとの仕事を邪魔するとは、いい趣味をしている。」代替わりしていなければ、ぼくとも面識があると、つまりは家の面倒を見に来た者が、しかしぼくの神経質に気を遣い、出直すなりすることにしたと。

 帰宅は夜ではなかったのか。「ぼくがもう来ていると知ったのはいいけど、仕事は。」父は根の深く、ソファに腰を下ろした。「キャンセル以外に何がある。夜に帰ると言って夜に来ないんだ、小遣いをせびりに来たわけじゃないはずだろう。俺はおまえの事情を知らないが、おまえも俺の事情は知らない。おまえの父親は、俺しかいないんだ。残念ながらな。」ふっと力を抜く息をして、父は付言ふげんした。「俺だって、まさかおまえが父親の愛情を欲しがってここに来たわけじゃないことは、わかるがね。」

 ぼくは首を振って否定を示した。「愛情それが存在してないなんて、ぼくは思っちゃいないし、むしろ今、それに甘えようとして、ここに来たんだからね。」父はソファに背を預け、目を瞑った。思わず、というところだった。ため息に似た。「ぞっとするね。」なぜか、窒息しそうに聞こえた。そうとしか。「このがきが、親にだなんて、並みの企みじゃないんだ。お前は誰で、俺は誰だ。ということを、もっとお互いによく知るべきだな。叶うならもっと嫌っていてほしかったね。」望まれたとて、父個人への憎しみなど、ぼくには向けようがない。

 父は力のもらぬてのひらをグランドピアノのほうに向けた。「あれ、ではないがね、お前に俺のピアノを、つまり、そこいらの物ではなく仕事用のピアノを初めて弾かせてやった時、お前は何て言ったか、覚えているか。」ふっと頭に浮かぶものではなかった。「どうだったか。幼稚園とか、そのくらいだろう。」父は意志を体に詰めると、立ち上がり、グランドピアノの蓋を開け、鍵盤のひとつを鳴らした。ただそれだけで、違いなく、一谷史真の音であるとは言えた。「ものの一分も経たないうちに、おまえは泣き出して、言うのさ。、だとよ。」具体的に言われれば、心象に描かれるものはあった。失望と、怒りと。「おまえは何日も繰り返し弾いては、そのたびに泣いた。」失意と、憎悪と――ぼくは父の話の、本来足されないはずの続きを引き取った。「父親をやるのが下手だな。油断して、肝心なところをぼくに思い出させてしまって。ぼくは結局それから、金槌かなづちで鍵盤を叩き割ったね。でもあんたは、小言のひとつも言わなかった。」父は苦笑するよりなかったというふうで、「むしろ俺が説教を食らった。子供の手の届くところに危ない物を置くなと。」そのまま話を終えて、ピアノの蓋を柔らかに閉じた。

 父はソファには戻らなかった。その立ち姿は、瞳に捉えられぬ敵影を透かし見て、よろうように。ここにいるのは一谷史真であると疑いようもなくも、生きることの全能に遠く及ばぬままにままならぬひとりの人間だと答えても、誤答にはならない。さあね、どうしようもないだろう。ぼくはぼくで、あんたは一谷史真なんだからさ。贅沢を言うなよ。ぼくは今これからままを言うよ。その不公平アンフェアにどうのこうの文句を付けても、ぼくらは進めないだろう。切りひらくのに、痛いよ、きっと。だから――

「あんたの本気をくれないか。それを全て、ぼくにぶつけてくれないか。戦わせてほしい。」

 ぼくに言い切られて、父は肩をすくめた。だから言ったことじゃない、と、わかりきっていた通りに、並みの企みではなかったな、と。父は視線を下げ、グランドピアノの黒の肌触りを撫でた。「お前の指を折ってやると、そう言われないだけましなのかね。これは。甲乙付けがたいな。どうだ、遠慮は要らないぞ。やってみないか。お前が犯人と、言うつもりはないからな。」あんただって、ずいぶんなことを言うじゃないか。今さらここに人倫じんりんなんて、採択の余地はないにせよ。なあ、あんたの息子に、それっぽっちの度胸もないという話ではないんだ。「一谷史真の弾くピアノは、この世から失われてはいけないものだと、きっとぼくは誰よりも、それを信じているよ。だからこそ、その本気をくれ、ぶつけてくれと、そう言ってる。」父はぼくのもとへ歩みを始めて、ひとつ文句をつけた。「そんな嬉しくない褒め方があるか。馬鹿野郎。」歩むことを決めればこそのなじりだった。

 父の表情は締まり、ゆるがせにあるところなどないように見えた。「まあ、いい。息子の死刑執行の書類にサインをして、その執行人になるだけだ。どうということのない仕事だ。」そうとしか言いようがないだろう、これから起こるであろうことは。ぼくは、ぼくの無事でいられないことを信じているよ、あんたに。父は、ドラムセットに広げていた譜面を見据えると、「それはおまえの曲か。」と、端的に訊ねた。「ぼくが書いた。」短く応じるや、父はその譜面全てをひったくった。のある瞳でぼくを射て、「二時間よこせ。待ってろ。」と、告げるなり、ついと背を向けた。

 リビングから出ようとする父の背に問う形となった。「二時間とは?」ドアに手をかけながら、顔をこちらにいくらか向ければ、父のそこに、慈愛か、憐れみなのか、ほの見える気もしたのだ。「十五分じゃ済ませてやらんと言ってる。楽団オケと合わせることはあってもな、、だなんて、言ってきたやつはいないよ。俺にだって何がどうなるか、わかったもんじゃない。心配するな。望みのものは、ちゃんとくれてやる。」それきり、何を惜しむでもなく父はリビングを出て、ぼくはひとり残された。

 もともと夜まで待つつもりであったが、こうも案外な形でぽっかり時間が空いてしまうと、どうにも所在ない。今になって、ようやく手が震えるというのは、その止まる気配がまるでないというのは、それは無論、実態としては父のげんの通り、ぼくから処刑を求め、それを待つばかりなのであるから、精神が覚悟をっても、ずいまで言うことを聞くかと言えば別で、そりゃあ、怖いだろうさ。怖いよな。

 ちっぽけだよ。

 不幸もしあわせも正しさも過ちも、結局、ぎ取られるまでのもの。

 失うかもしれないものばかりで、どうにか、自分をやっている。

 ままならないこと以外、しっかと、わからなくて。

 今これより、

 なあ、〈略奪者たち〉よ、呼んでくれるな。ぼくを。

 そこに戻りたいからと、いつかの未来のライヴのために戦いたくなんてない。

 たった今これから、見事に殺されてやることだけが、ぼくがぼくを懸ける全てなのであって、相手が一谷史真であれば、なおさら、なおさらに、

 ぼくは知りたい。

 今この瞬間――在る、と。

 PHSピッチを取り出して電話をかけた。ろくな呼び出しの鳴らぬうち、待ちかねていたとばかりに、コールは取られた。発声してみれば、指と変わらない、震えを帯びたものが出た。「何でもいいから、声が聞きたかったんだ。本当に、何でもいいから。」確かめる。在るのか。伝うのか。そのオトは。聞かせてくれよ。今、絢人ぼくがここにあるうちに。

『飽きっぽくてすぐ捨てるからアキホじゃなくてだ、なんて言われてたことがありましたよ。』

 本当にどうでもいい逸話をまず振ってくるのであるから、ぼくは震えながらも、笑いをこらえるはめになった。

『今回、もしあなたに飽きたって、これ捨てられるものですかね。なにせふたり分も愛することになってしまい、つまり人間の持てる限界なんぞ大きく超えるわけでしてね、こんな形で年貢の納め時になるのは大変心外なのですが、これも人生ってやつかもしれません。イニシャルのA・A、ちょっと気に入ってたんですが、御父様おとうさま知名度ネームバリューを考えれば、Iに変えないって手はないですねえ。』

 思いもよらぬ速度で話が進むので、瞬刻しゅんこくだけ、恐怖も覚悟も裸足で逃げるじゃないか。

「おいおい、どうしてぼくが何もかもに同意する前提になってるんだ。」

 まるで当然と、むしろどうして疑問なのかと、その調子で返されたというのは、確かにぼくも納得させられてしまうところだったのだ。

『あなたは死体になって帰り、私が生き返らせるんですよね。私が生き返らせた命を私が好きに扱って、何か悪いことありますか。』

 なるほど、アクマに魂を売るというのはこういうことか、と、余計なことを思いもした。「ぼくは自分の名字が好きじゃないんだが、ぼくがA・Aになるチャンスはもらえないのか。」と、抵抗らしい抵抗もせずに確認だけしてみれば、それで返る声には、どこか微笑みの調子が含まれていたように思うのだ。

『大丈夫。そんなに嫌いじゃなくなるよ。そのうち。私がいるから、きっと。』


 二時間きっかりで、父はリビングに戻った。その目はこの世に実存する何かを捉えるではなく、見るにおいて形を結ばぬ音という領域における、自らのピアノの在りようを映し、また宿すのみと、瞳の虹彩こうさいが示した。弾くための虚空こくうに立ち、俗世から遊離ゆうりするかのようにあって、ぼくへ向く眼差しひとつが、天頂へのしるべとなると共に、塵埃じんあいさえ問わずに及ぼす引力として働き、那辺なへんであれ、すっかりと――無論ぼくもそれに応えることをのぞみ、立つということだ、間違いなくこの世の一隅ひとすみにありながらも、それと同じには重ならない、音が実像をさやかに得るが如くの、まじろぎが意味をなくす、鳴らすことが何よりも全てであるところに、立つ、すればぼくは、命を音でう、不遜な挑戦者でしか、もはやない。

 父は約束をたがえるつもりはない。ぼくの願いを余すところなく叶える。言外げんがいのものをみ取ってまで。、ここにいるぼくは、父にとって、対等以上の敵対者でしかなくて、そうだな、容赦の余地だなんて、あってもらっては困る、抵抗の証と残るならよかろうが、しかしものがあるならば、そんなもの、認められるはずがない。今ここで、そんなもの。父は無言のまま、ピアノの前までは進んだが、しばらくそこで立ち尽くし、それは黙考であったものか、ピアノの蓋に手が伸びるではなかった。

 ようやく蓋に父の手が伸びるところ、指がその黒のつやに触れるところ、しかしその先へ動くことなく、すっかりと整え終えて、ドラムセットの中心に座するぼくを見据えて、父は極微きょくびさえ揺らがぬ存在のあるがままにおいて、言う。

「その一、こんな俺を絶対に許すな。」

 指がかかる。鍵盤の蓋が開く。視線を正面へ差し戻し、いかにも自然に、父は自らがもっともいるべき場所に腰を下ろす。話の続きを言う前に蓋を開けてしまったのは、少しばかり、ずるい気もするよ。

「その二、いくら親子だからって、こんなこと、ただの甘えでやられちゃやりきれん。お前は曲を書け、俺のための曲だ。ただ働きくらい、喜んでやっておけ。締切は特に決めないが、間違っても、他のやつに弾かせるなんて、しけた真似まねをしてくれるなよ。」

 許すなと言った側から、大概なことを言う、文句を言えるような立場ではないけれど、ついと緊張がゆるむほど、それは戦意の満ちる余地になる。純粋にやり合いたくて、そこに悪意の入り込む余地なんてないものだから、よっぽど、悪気なく言えてしまうな。なあ、ぼくだって、は苦手なんだよ。

「ただ働きくらい要求しても、ばちは当たらないだろうけどね、いいよ、かまいやしないよ。結局、今まで言わずじまいだったけれど、そりゃあ、息子としてはね、見るに見かねるから、なんたって――。」

 ピアノの正面から視線は逸らさなかったが、父の口許くちもとゆるみ、その端でにやけるのだ、もっと早くに言ってくれてもよかったんだぞと、そのように。世の誰が賞賛したとしても、ぼくは父の曲を褒めない。あんたしかし得ない技巧を前提にすれば、これまで、いくらだって誤魔化せただろうね。仕方ない、あんたの息子はぼくしかいないんだ、少しくらい頼られたって。

 取引は無事に成され、言うべきことは言い尽くし、

 ならばギロチンのを落とせ。

「俺が弾くものに、潰されないように合わせろ。俺の弾くものを否定しろ。シンプルだろう。文句はないな。」

 まったくもって単純で、酷く理解しやすい。

 父の指が、そのかむなる十指が、彝倫ひとのみちを踏み破るほどのあまねあめを求めんがため、澄清ちょうせいとして、波濤はとうとして、しなやかに鍵盤を流れく。傷も濁りも無垢も閃光も、聴く者の祈りを無慈悲なまでにさらい尽くし、そのことごとくを叶えて、天離あまさかる孤高のくうより、蹂躙じゅうりんの如くに降り増さる、ただただ、音だ。音。これが音というものなのだと。一谷史真にしか与えられなかった真実なのだと。一谷史真が畢生ひっせいらすまで、逃れられぬ咎と。

 すぐにわかった。

 なぜ、二時間という時を必要としたのか。

 即興でやるつもりはなかったのだと。

 

 高鳴りのとどまらぬ演奏プレイは、カタチとして充ちる旋律メロディは、他のどの曲でもなくて。父の弾くのは自身の曲ではなく、古典クラシックでも無論なく、〈略奪者たち〉のためにぼくが書いた、ぼくの曲で――

 

 そこにある絢人ぼくを、薙ぎ払おうとする。

 根こそぎ、だ。

 いくら何だって吃驚びっくりするよ。息子に甘えられたからと、ぼくの願いをまるでそのまま、こうまでもやってしまうなんてさ。そうだよ。望むべくもないほど、望み通りだよ。あんたが、その通りの。心配するなよ、あんたはやっぱり父親だ、どれだけ下手でいても、そのことだけは疑いないよ。

 ああ、すっかりわかったよ、あんたは本当に、本気で――

 

 




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