Track 003 WRONG TRUE LOVE WAYS
バイト上がりの
章帆の表情は乏しかった。「私の場合、クラシックは飽き飽きなんですよ。なんか、形式張った気がして。子供の頃の習い事の話です。こうして叩いてやれば、絢人クンはジャズにするしかないと思いまして。」クラシックが不自由なものでは全くないにせよ、幼い章帆には合わなかったのだろうな。弾くものはジャズでもかまいやしないが、
力を
ギターを置いた。ただ弾きに来たわけではない、少し落ち着きたかっただけ。思わぬジャズとなってしまったが、それでも、ひとりで弾いているだけで、気の休まることはきっとなかった。
ぼくがぼくのまま生きゆくのだとしても、何も変わらぬままではいられなくて、それを八汐に対して思い知ると同時に、章帆に対しても。
いつしか、章帆には気を許せるのだと、甘えられるのだと、それがあまりにも
ただ衝動だけで、ぼくは小声として、「不快、というよりかは、」ふっと、何やら思われたことを、自然のままに口にした。「章帆が相手だと、今、急にいたぶりたくなる。」章帆はまさかと
戦慄や覚悟を通り越して、ぼくはいかにも平静で、父を相手に、そんなもの、まるで役に立たないということは思い知っているので、今さら
「章帆もおおよそ、答えとしては見えているだろう。今回の件、八汐のギターの何かが原因なんじゃない。ぼくが父に対して抱えるものが原因で、敗れて逃げたのが問題で、よそで治したりするような傷ではなく、あるいはそこで治っても意味はなく、結局は、ぼくが父と向き合う
章帆は首を否定で振ることはなく。動きの乏しいくちびるで、そっと話した。ぼくが平静のままあるにしても、さらに砂の一粒だけであっても、足して落ち着くようにと願って、そう見えた。話の内容はいかにも物騒であることだしな。
「だいたい、そのようなことを思ってはいましたよ。でも、言えやしません。
変わっていくぼく、それでも父に向き合うには足りない、だからと、成算は本当に積めないものだろうか。ひとつ奇跡が起きて、ならばもう二度と起きないか。
こんなぼくが、ついにバンドを組み上げたのであれば――それを一度目の奇跡と数えるならば、二度目は、それがあるのならきっと、こんなぼくが、人に救われるという奇跡。
「なあ、ひとりではそうだ。死ぬよ。ひとりなら。だから助けが要る。ぼくを支えてくれて、本当に、本気で、自分で言うのもどうかと思うけど、相手が相手だからな、何をなげうっても、ぼくを蘇らせてくれるような、そんな助けを、わがままだけど、ぼくは必要としている。」章帆は静かに、ゆっくりと、深く
そんな章帆を見れば見るほどに、ぼくの
もっと章帆の潤む瞳を見つめていたかった。いずれ、ゆっくり眺める機会もあるかもしれない。あればいい。今、これ以上は、さすがにな。すでに大概としても。さあ、話を正そうか。
「八汐が好きと、それは冗談では言ってない。初恋ってのも、案外、真実味があると思うよ。でもぼくは、どちらか選べるなら、幸福になるより不幸になりたい。そして、ぼくの色恋以上に、そんなことはどうでもいいほどに、なにより耐えがたいものがあってね。」
ぼくは無理に章帆を立たせて、肩を掴んだ。最初、章帆は視線を逸らしたが、強く、痛みさえ生じてしまいかねないほど強く、掴んで、こちらを向かせた。似合わないな、ぼくには、こんなこと。おまえがそうさせてるんだぞ、なあ、章帆がこれをさせてるんだ。ちょっとは嬉しく思ってくれたって、勘違いとはならないからな。
「頼む、頼むよ。不自由でいるな。縛られてくれるな。ぼくは章帆が自由でいられないということが、今、自分のことより何より、耐えがたいんだよ。章帆が自由でいられないくらいなら、いっそ沈ませてやれよ。ぼくはそれでもいい。道連れにしろよ。他の連中のどうとかは知れないよ。けど、好きにやってくれ、道連れはぼくだ、それで何が悪い。」
章帆は
「
言うだけ言い募って、肩に込めた力を緩めた。このまま抱き締めてやるような色男ではないので、残念だったな。
「章帆がいいんだ。」
喜んで一緒に沈んでやりたい。章帆が章帆のままでいられないくらいなら。
逆もまた、願いだった。不幸になってくれよ、ぼくで。
「ぼくの道連れにして、一緒に不幸にしてやるなら、他の誰でもない、章帆だ。そういうことなんだ。章帆を選びたいんだ。そりゃあ、章帆の道連れにされることも、いくらだって付き合うさ。なあ、好きにやってくれよ。」
章帆は指で涙を拭った。力のない笑みでも、十分に柔らかかった。
「えっと、もうこれ、騙しとかないですか。信じていいんですか。絢人クンなりに、絢人クンの言葉で、つまり、交際を申し込まれていると。だってあなた、好きとか愛してるとか、絶対に言いそうにないもので。」
もうそろそろ、ぼくの精一杯の色恋というものも打ち止めで、それでも嘘は言わなかった。「そうだよ。いたぶってやりたいと言った時から、そうだったよ。それを愛してると変換してくれてもかまわないぞ。」泣いて笑って、さらにげんなりして、章帆は自然な章帆としてそこにいた。久しく会っていなかった章帆と再会した、ぼくにはそのように感じられてならなかった。「あー、私相手だと、さんざん不幸にしても罪悪感ないし、なんなら泣かせてみてちょっと興奮するみたいな――愛ですよね。愛がそう感じさせるんですよね。あっこの質問だめだ。興奮するだけだこいつ。」まったくもって散々な言われようで――間違いだとは言わないが、
「恋よりも愛を選んだ。それでいいか。」
章帆は思わず、両手で顔を覆ってしまうのだ。涙か赤面か、知れないが。
「結局、泣かせるじゃん。」
ぼくとしては納得できたので、ギターを手にして、座り込んだ。本来ギターなんぞ、立って弾くほうがおかしいのだ。さて何を弾いてやろうか、今の章帆はとても叩けやしない、この隙にクラシックを選んでしまおうか、弾こうとして、ふとつまらないなと思った。「章帆、本当であれば、こんな事態になっていなければ、ぼくはきっと、恋心を自覚した章帆から熱烈なアプローチを受けていたよな。」章帆は目を赤くしつつも、そこは主張を我慢できなかったのか、胸を張った。「イコール破局回数なので自慢にはなりませんが! 幼稚園の頃から幾多の恋を成してきた私の恋愛テクはちょっとすごいもんですよ!」と、自信満々なので、ぼくの
明日の天気の話のように言った。「章帆、三日後に別れよう。」あまりのことに、返事がなかった。そりゃあそうだ。「復縁しないとは言ってない。ぼくから交際を申し出て終わりじゃつまらないんだ。章帆は不自由なままだったろ。だから三日後に別れた後、自由に、好きなだけ、思いっきり、よりを戻そうとぼくに迫ってくれよ。章帆らしく、とんでもないやり方で頼むよ。」涙も枯れて、
章帆は簡易なルームウェアで裸身を隠し、夜景としての街並みでも望むかというと、まったく目もくれず、湯を沸かし、甲斐甲斐しくふたり分の紅茶を用意していた。裸でうろつくなんてのは央歌のやればいいことだが、そもそも焦るようにルームウェアを着たのは、央歌ちゃんの立派なカラダを毎日のように見てるやつに私の貧相なカラダなんぞ見せられるか、というもので、そうと言われても、行為の最中には散々見たのだし、明かりを消そうという要望はまるでなかった。
乙女心とは難儀で、よくよく考えれば、ぼくはまともに男女交際をした経験がないのだった――全くないというわけでもないのだが、毎度ぼくは音楽にかまけ、漏れなく愛想を尽かされた、ゆえに央歌に行き着いたところはある。その居心地の良さを
ふたつのカップに放り込んだティーバッグに湯を注ぎつつ、章帆に
紅茶が滲みるのを待って、バッグを脇にどけ、口をつけつつ、やはりぼくは平静でしかなく、またこれについては、いたぶろうというものでもなかった。
「これは、はっきり言っておくよ。」
純然たる、明白な、結実。
「生きて帰ることなんてない。死ぬさ。帰ってくるなら、ぼくの死体だ。」
章帆はどうにか、
「明日、婚姻届出しませんか。せめて未亡人になりたいので。」
カップを持とうとした章帆の指は震え、結局、持ち上げられなかった。話をこのまま終わらせるつもりはなかった。どうしても、どうしてもぼくには章帆が必要で、章帆によってこそ、救われる必要があった。
「いたぶろうとしたんじゃないんだ。帰るのは間違いなく死体だよ、それを章帆に、どうにかして、蘇らせてくれないかって。死者蘇生だよ。無茶苦茶を言ってるのはわかってる。それでも愛の力とか、そういう奇跡とか、あるだろ、そういうものでさ、どうにかやってくれないか。不幸だからって、愛がそこに分類されないとだれが決めた。」
もっとも大事なことを、ぼくは言い足した。こればかりは、断言したかった。
「必ず帰る。いくら死体だろうと、章帆のいるところへ帰るから。頼む。」
章帆は見た。自分の思っている好意と愛情の、向ける先の、偽らざる姿を見た。そしてそれを見ることができるのは、ただひとり、章帆だけだった。
「そういう奇跡って、両者ともに愛を知り愛にあふれてこそなのであって、いたぶりたいとか言ってみたり、未だに愛のなんたるかも知らずにいて、なんと贅沢な。いいです、けっこう。私がふたり分愛を知ってあなたをふたり分愛すれば、計算だけは合うんですからね、何とかしますよ。愛の奇跡ってやつ。」
不安を押し殺して、ぼくの
「でも知りませんからね。さんざん我慢して、余計に育まれちゃって、暴発寸前にまでなってたのに。そりゃ泣きますよね! そんな状態で、頼むから好きにしてくれよなんて言われたら! 絢人クンが世界一かっこいい男に見えましたよ。こんなろくでなしが。」
あまりにも評価の落差が酷いので、むしろこちらが呆れる始末なのだが、それでも、募った好意の減ることはなかったと。
「私自身の気持ちももう持ちきれないのに、これからさらにひとり分追加なんて、何がどうなったって、責任持てませんよ。いいです、けっこう、三日後に別れましょう。きっと後悔することでしょうよ。よりを戻させようなんて愚かだったなと。お望み通り、道連れです。好きにやりますから。」
つらさを押し隠しているのは本当でも、見たかった章帆がここにいる。そりゃあ、人の支えがどうあろうとも、無事にことが済むなんて誰にも約束できない。それでも、よかったな。今この時この瞬間の今が、そう、
ぼくが十二分に満足しているところ、章帆の不意打ちは、それも今という生きる瞬間のうちのひとつでも、危うくぼくはカップを取り落とすところで、やはりぼくはまだコドモだ。
「ちゃんと言ってなかったね。愛してるよ。絢人。」
いくらなんでもこの
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