Track 002 DEPTHS WHERE YOU BELONG



 ぼくと央歌おうかの通っていた高校の裏手にある、寂れた、しかし狭くない神社のふちの目立たぬ石段を降りると竹林となる。竹の青々と鮮やかに映える季節なのは、ぼくら人間が季節を好きにできないというだけに過ぎず、要はたまたまで、太陽が高くにあるというのは、すっかり早くに目覚めてしまっても、長く踏ん切りがつかずにいたからだ。

 土を踏み、傾斜のあるところをさらに降れば、そこを通る用水路に行き当たり、結局いまだに、何の用を為すものか知れないのだが、水流の絶える気配はない。ぼくが高校に通っていた時分から。今日こんにちに到ってもそれは変わらず、巧遅こうちを良しと流れる。細い流れを挟んでその先には、見上げる形で、確かないしずえの上に公民館があり――小さなコンサートホールが併設されているために、母校の生徒に無関係ではない、しかしここから見えるのはその背面であって、ならば、公民館むこうからぼくの立つ位置を見下ろすというのも、めったにあることではない。

 今やぼくの、おまじない程度の聖避所アジールだよ。などと格好をつけてみたこともある場所だが、目的は多岐で、なんとなくぼくが逃げ込む場所と、自らに取り決めているに過ぎない。かつて央歌が気に入らぬ授業をさぼるのに好んで使っていたのを、いつしかぼくが乗っ取ったのだった。

 用水の微細なせせらぎは、心做こころなし、泡沫ほうまつの程度に、ぼくに安堵を与え、常ならばそれはここに佇むぼくの濁りの一抹いちまつく役を果たしてくれても、たった今のここにあって、その水音は、ぼくの聴覚みみの意識において、音の感性において、これからまるで存在をなくすのだと。だから目的は多岐というのだ。ここに慰められにきたのではない。まさか。面倒くさがりが、場所を使い分けようとしないだけ。小流しょうりゅう湿しめきに限らない、世界のざわめきは全て、何らであれ消え去るのは明白で、ふと、死に場所を自分で選べるのだとしたら、連中はどこがいいと言うのだろうな、と。ひょっとしたら、ぼくはここがいいのかもしれない。だからここを選んでしまったのかもしれず。

 思考が逃げ道を探そうとしているの自覚すれば、これ以上は臆病になるだけ。ただまぶたを閉じる。いいさ、差し出そう。どうなりとも。運が良ければ致命傷で戻れる。

 ぼくなんてものは、もう、父のピアノを聞こうというのに、何も、何ひとつ要らないんだ。CDもレコードも、父さえ、ピアノさえも。すっかり刻まれてしまっているよ。

 純然の憧憬どうけいで、埒外らちがいの戦慄で、音の尽くことのなく、塞ぐことなどあたわず、穿ぐままにある情愛の数多あまたの否定のできぬまま、いたみにそむくことなく強く念じたぼく自らの理想に、、その帰趨きすう螻蟻むしけらとしては息もできぬ天の極限に見た致死に。からたちに座し、いばらに棲み、むほどに遠く、、ぼくが願ったのだから、、刻みつけられた傷痕のどうあるにせよ、ぼくの六骸からだを八つ裂くかのようなあがないを今なお求められ、霊峰れいほうの先の天路あまじより落ち延びてもなまぐさまとわり、こうして逃れられぬほどに、だからと、なにものにも譲りはしない。それはぼくだ。この痕はぼくだ。ぼくほどに、父の弾くピアノを真に聞いた者があるか、千尋ちひろの果てまで及ぶほどに抱いた憧れの全てが、見るにえぬ生傷なまきずに濡れるまで、聞き続けた者があるか。

 傷には違いない。

 そうであるものしか、もう残っていない。

 思うだけで、父のピアノはぼくのうちで鳴る。

 きらめく。

 何ひとつ欠けるところもなく。

 ああ、間違いのない、一谷いちたに史真しまの音だな。

 ぼくであればこそ、聞こえてふさわしいと、ぼくは思う。

 響く。ここで。他の音の一切の劫奪こうだつをありのままに。

 簷滴あまだれほどに、密やかにいろうところを鳴りの端緒たんしょとしても、どれほどにたおやかにあろうと、それは天水あまつみずとして落つのであって、誓言ちかごとを忘れたりはしない。これから鳴るのは、星芒せいぼうの旋律、ゆものは和魂にきみたまでも羅刹らせつでもなく、一谷史真の神性ピアノであり、そして、それでしかないのだと。無極むきょくにあれば、天聳あまそそるでは足りぬそれに、いったい他のなにものが至れようか。弾くのは古典クラシックではない、父の作曲オリジナルだ、そうだな、そうだろう、普段まるで弾かないではないにせよ、古今東西、いつの時代においても、一谷史真の存在を認めた曲など、書かれることはなかったので。そんなものは、お前には合わない。作曲オリジナルだからと、事足りるというものでもないがね。あるいは、、たぶんぼくなら、あんた以外で唯一、。あんたは嫌がらないだろうな、その貪欲さで、屈託なく弾くのだろう、、だからって、真っ平御免だよ。

 あやなす音階の縷縷るると続くいくつもの綜糸あやいとることることをためらわず、散らばりをいつくしみ、その残片ひとつひとつで人の世の憂いを射中いあててから、糠雨ぬかあめの音の連なりより、やがて反乱のための糾合、孱弱かよわいままの糸はいつしか甘縒あまよりの結い目、今生こんじょうの祈りの心許こころもとないつかであっても、天柱てんちゅう逆取ぎゃくしゅせんとする暴戻ぼうれい殉情じゅんじょうに音を捧ぐのに、一谷史真にとって、それでいったい何の不足があるか。峻烈しゅんれつ願意がんいのままに、神域たかみを余さず。むごく激しくきずつけ、しかし憐惜れんせきさえ、天外てんがいでなお余すところに、滲ませてみせるというのだから。く天地の相逢あいあうより早く、恣意しいに弾くまま、諸共もろともに突き落とす。

 俺が弾いて

 わかっちゃいるのにな。

 いつもながら、こんなところで、独りぼっちだ。

 誰かが来てくれるなんて、ついぞ思っちゃいない。

 ありのままさ。そうだろう。

 ここにいて、なぜ息の苦しいかも、俺にはわからないんだからな。

 何か言ったか、まるで聞こえやしない。

 ありのままでいるとは、ただそれだけのこと。

 降り注がせるには、こんなに造作もない。

 足掻くのならば、這い上るなら、息もまともにけるか知れない遙か高みで、らぬものとばかりに鳴り渡るのは、その神性ピアノは、一谷史真のしょうであり孤独で。誰が行ける。共に在れる。弾くほどに、おまえは孤独だ。その音色が誰にどう届こうとも、反響はおまえにまでかない。高すぎる。それでもおまえは、一谷史真は、その存在を高め続け、飽くなきまでに、自らを孤高な神に仕立てていく。もっと遠くであれ。もっとひとりで、音と自分だけで。のぞむものはその高みだけであるというのに、結果としておまえは。勘弁してくれよ、昨日より今日、今日より明日、おまえはまた高くなる。

 簷滴あまだれほどに、秘めやかにいろわれる後奏に、誓言ちかごとだけは守られても、そこにあったはずの世界は、千五百ちいおの日々の過ぎたように、果てて、一谷史真のほか、生き残れるものでもない。

 曲を聞くことを始めてから、すぐに立つことなど適わなくなり、いになって、そこで、用水路に沿ったコンクリートにさっさと胃液を撒いたのは覚えていても、そこから先、どうしていたか、かむつ父のピアノにぼくの意識自体もまるで奪われていたというなら、むしろそのほうが自然と思えるが、気づけば横臥おうがていで――ただし、体は酷く縮こまって、震えているのを知覚する、曲は終わったぞ、もう、口の周りが不快な臭いでぬらつき、横たわったまま、ずいぶん派手に吐いたらしいな。父のピアノとぼくの聴覚みみ、その意識だけの領域より戻ったのが今なのだとなれば、聞こえる音、今ここにある世界の音も蘇っていく。そこでようやく、必死にぼくに呼びかけていた者がいたことに気づいた。

「一谷サン、一谷サン! 救急車呼ぶから! いいよね!」

 視界はまだ濁りを消し去れていなくて、そんなに深みにまでいたか、ぼくは。しかし清粋せいすいの声音、悲痛に過ぎる狼狽ろうばいを負っても、芯は変わらない。何より、一谷サン、なんて、今や、そう呼ぶのはひとりくらいのものだからな。喉に何やら絡むのが邪魔でも、そう大事おおごとにされては困るので、強がりは多分にあっても、声は出た。「八汐やしおだろう。こんなでいて、呼ぶなとは言えないが、少し待ってくれないか。急病じゃない。」八汐は指の震えを抑えられないまま、ぼくの肩に触れる。揺すぶることさえためらわれている。「だって、一谷サン、こんなひどい。さっきまで、呼びかけても返事なくて。」客観で見て、確かに抜き差しならないな、ぼくだって一一九に助けを求めるぞ、これは。力はゆるんでも、身を起こすには到らず、横たわって嘔吐へどまみれ、あるいはよっぽど、ぼくのぼくらしいことを言うには向いているのかもしれないと。

「知らなかったかもしれないが、ぼくは作曲の天才なんだ。内側で鳴る音に集中するあまり、周りの音とか、景色とか、一切、意識に入らなくなることもあるし、極稀ごくまれに、大失敗すると、感受性が強すぎてね、こうなるんだ。どうだい。」

 八汐はバッグからタオルを取り出して、ぼくの口許を拭った。つまり、PHSピッチのテンキーには指を伸ばさなかった。「こんなふうに言えば納得するかって、言いたげ。見つけたのが私でよかったよ、ほんと。もう黙って休んで。そっとしておくからね。」ぼくの言うのに疑問の余地なしとなるのは、最高の介抱を提示してもらえるのは、八汐自身の経験が根底にあるようだった。あるいはぼくの感性への信頼とでも言おうか。「もらったMDで初めて一谷サンの曲を聞いた時、ギターが違うのがわかったって、私は泣いたよ。泣きじゃくった。ほんとひどかった。吐かなかっただけ。きっとそういうことなのかなって。私、泣き虫じゃないんだって!」

 きみが否定しても、きっときみは泣き虫だよ。だからって、決して、弱いなんてことはないんだ。ここで満足にならぬ我が身を無防備に任せて、安穏あんのんしか染み渡ることのない、きみの生命イノチの強さは、ぼくには持ち得ぬものと思えばこそ、焦がれてしまうな。


 ぼくがある程度まで落ち着いた頃合い、八汐は神社のほうまで赴き、ぼくのためのスポーツドリンクを買ってきてくれたのだが、竹林の地べたに胡坐あぐらをかくぼくにそれを手渡す八汐の顔つきは、眉根まゆねを寄せていたのであるから、はっきりと機嫌を損ねていた。ただ、それはぼくの精神的な遭難とその救助によるものではないようで、「まったく、央歌さんと同棲してるならそうと言ってくれたらよかったのに。乙女の純情は安くないんだよ。」と、怒りではあるのだろうが、たわむれの調子が混じる。少なからず誤解があるだろうことは明らかだったので、「同棲ではなくて、同居という扱いで頼みたい。」と、言うだけは言った。

 今回に限っては鳴っても気づかなかったろうが、このちょっとした隠れ家に来る時は――逃避で来ることも多いために、PHSピッチの電源は切る。今日もその慣例のままに切ってあったのだが、昨日、ぼくが八汐に何も言ってやらなかったことで、八汐としては、知り合って間もないのに踏み込んだことを聞きすぎたかと心配になったらしい。謝罪しようと電話をしたら繋がらない、章帆あきほはバイト、央歌に訊ねると家にはいないがPHSピッチの電源が切れてるならあの場所だろう、と、そのような経緯で八汐はここに現れたらしい。ぼくがどこにいるかの問いに、央歌はまず自宅を確認するのだからな、そりゃあ。

 八汐は緑茶のペットボトルを手に、素直に首を傾げた。「確かに央歌さん、ラブな雰囲気出しそうな人じゃないけど、同居。男女の関係ではないってこと?」変に言い訳をするから、また新たな解釈を重ねるはめになる。「恋愛感情はない。お互いに全くこれっぽっちも。それは言える。」世間様からしたら、同棲と定義して違いなかろうよ。

 八汐としては、別な世界の倫理観の話か、最初に出たのが「うわぁ。」で、いっそ異国の慣習を知るかの如く、「どろっどろぐずぐずの、すっきりさっぱりでもだらしねえオトナの世界だぁ。」こうまで到って、誤解されている要素はもう残っていなかろうと思われた。

 央歌との馴れ初めなぞ語ってもぼくが不利になるだけなので、「ありがとう。ずいぶん助かった。この礼はまた、改めて必ず。」と謝意を示してから、ふと気づいて、「そういえば真っ昼間だな、平日じゃなかったか。」曜日感覚のない暮らしだが、いや、央歌が家にいるなら、およそ土日祝日ではあるまい。八汐は朗らかだった。「そうだよ。私は今、生理痛がとてもつらくてつらくて、ギターも部室に置きっ放しで早退して、家で寝込んでまぁす。あーオナカイタイ。」溌剌はつらつとそう言うのであるから、むしろ天晴あっぱれと。

 八汐は立ち上がり、身を伸ばして、青竹の合間から差す光を浴びるのを、ぼくは一種そこに、何らかの神々しさを認めながら見つめた。「なんだか、私、ギターがうまいって他は、普通の高校生の普通の感性をしてると思われてるんだとしたら、ちょっと聞くね。私にとってギターは、というより私が鳴らすギターの音は、私の命そのもの、と、一谷サンになら、こう言えばいいよね、これは。」厳密に言うなら、命と定義するのがもっとも近しい、というもの、自分というものの中核の支配的なところよりいびつり絡み合い、経るごとに、他の心域までしばきずなとなって、もはや不可分のものと、何にせよ、ぼくも同質のものを抱えているのだから、八汐の期待に応えて理解しておけばいい。

 八汐はぼくを指差した。裏面りめんなく、天道てんどうの如く、笑顔で。「ソレ、もう一谷サンにあげちゃったよ。そうじゃなかったら、〈略奪者たち〉で弾く私はいないよ。アクマに魂を売ったって言ったらわかりやすい? アクマってよりか、私には神さまだけど。たった一曲をどうしても弾きたくて、そのために、喜んで自分の一番大事なものを差し出しました。後悔もしてない。これって、まとも?」命そのものと言うのが近しい、自分そのものと不可分に違いないもの、それら正しくっている者であれば、言葉を失うだろう。驚愕でない、言うべき適切な言葉がない。それでもあえて言葉にするならば、と。そんなこと、及びもつかない、うちの他の面々でさえ。どうやったらそれができるのか、そのことから、わかるまい。

 力強い意力をあらわにぼくを指差すのをそのままに、八汐のそれは宣告に似た。

「私の弾くギターは、今、そこにあるの。一谷サンの持つ世界オンガクの中に。べつに大した理由じゃなくてさ、なんとなく、早退して今すぐ行きたいなって思ったからそうしただけだよ。かつて私のだったものが、そこにあるんだし。」

 指を降ろし、八汐は笑った。爛漫らんまんに。ごく当たり前に。まるでに。

「あはっ、そっか。あげちゃった後だから、実は私、今は普通の高校生なのかも。ここ、一谷サンの母校の近くなんだよね。美味しいお団子屋さんとか、知ってたりしないの。知らなかったらプリクラだからね。」




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る