Track 002 DEPTHS WHERE YOU BELONG
ぼくと
土を踏み、傾斜のあるところをさらに降れば、そこを通る用水路に行き当たり、結局いまだに、何の用を為すものか知れないのだが、水流の絶える気配はない。ぼくが高校に通っていた時分から。
今やぼくの、おまじない程度の
用水の微細なせせらぎは、
思考が逃げ道を探そうとしているの自覚すれば、これ以上は臆病になるだけ。ただ
ぼくなんてものは、もう、父のピアノを聞こうというのに、何も、何ひとつ要らないんだ。CDもレコードも、父さえ、ピアノさえも。すっかり刻まれてしまっているよ。
純然の
傷には違いない。
そうであるものしか、もう残っていない。
思うだけで、父のピアノはぼくのうちで鳴る。
何ひとつ欠けるところもなく。
ああ、間違いのない、
ぼくであればこそ、聞こえてふさわしいと、ぼくは思う。
響く。ここで。他の音の一切の
俺が弾いてどうなる。
わかっちゃいるのにな。
いつもながら、こんなところで、独りぼっちだ。
誰かが来てくれるなんて、
ありのままさ。そうだろう。
ここにいて、なぜ息の苦しいかも、俺にはわからないんだからな。
何か言ったか、まるで聞こえやしない。
ありのままでいるとは、ただそれだけのこと。
降り注がせるには、こんなに造作もない。
足掻くのならば、這い上るなら、息もまともに
曲を聞くことを始めてから、すぐに立つことなど適わなくなり、
「一谷サン、一谷サン! 救急車呼ぶから! いいよね!」
視界はまだ濁りを消し去れていなくて、そんなに深みにまでいたか、ぼくは。しかし
「知らなかったかもしれないが、ぼくは作曲の天才なんだ。内側で鳴る音に集中するあまり、周りの音とか、景色とか、一切、意識に入らなくなることもあるし、
八汐はバッグからタオルを取り出して、ぼくの口許を拭った。つまり、
きみが否定しても、きっときみは泣き虫だよ。だからって、決して、弱いなんてことはないんだ。ここで満足にならぬ我が身を無防備に任せて、
ぼくがある程度まで落ち着いた頃合い、八汐は神社のほうまで赴き、ぼくのためのスポーツドリンクを買ってきてくれたのだが、竹林の地べたに
今回に限っては鳴っても気づかなかったろうが、このちょっとした隠れ家に来る時は――逃避で来ることも多いために、
八汐は緑茶のペットボトルを手に、素直に首を傾げた。「確かに央歌さん、ラブな雰囲気出しそうな人じゃないけど、同居。男女の関係ではないってこと?」変に言い訳をするから、また新たな解釈を重ねるはめになる。「恋愛感情はない。お互いに全くこれっぽっちも。それは言える。」世間様からしたら、同棲と定義して違いなかろうよ。
八汐としては、別な世界の倫理観の話か、最初に出たのが「うわぁ。」で、いっそ異国の慣習を知るかの如く、「どろっどろぐずぐずの、すっきりさっぱりでもだらしねえオトナの世界だぁ。」こうまで到って、誤解されている要素はもう残っていなかろうと思われた。
央歌との馴れ初めなぞ語ってもぼくが不利になるだけなので、「ありがとう。ずいぶん助かった。この礼はまた、改めて必ず。」と謝意を示してから、ふと気づいて、「そういえば真っ昼間だな、平日じゃなかったか。」曜日感覚のない暮らしだが、いや、央歌が家にいるなら、およそ土日祝日ではあるまい。八汐は朗らかだった。「そうだよ。私は今、生理痛がとてもつらくてつらくて、ギターも部室に置きっ放しで早退して、家で寝込んでまぁす。あーオナカイタイ。」
八汐は立ち上がり、身を伸ばして、青竹の合間から差す光を浴びるのを、ぼくは一種そこに、何らかの神々しさを認めながら見つめた。「なんだか、私、ギターがうまいって他は、普通の高校生の普通の感性をしてると思われてるんだとしたら、ちょっと聞くね。私にとってギターは、というより私が鳴らすギターの音は、私の命そのもの、と、一谷サンになら、こう言えばいいよね、これは。」厳密に言うなら、命と定義するのがもっとも近しい、というもの、自分というものの中核の支配的なところより
八汐はぼくを指差した。
力強い意力を
「私の弾くギターは、今、そこにあるの。一谷サンの持つ
指を降ろし、八汐は笑った。
「あはっ、そっか。あげちゃった後だから、実は私、今は普通の高校生なのかも。ここ、一谷サンの母校の近くなんだよね。美味しいお団子屋さんとか、知ってたりしないの。知らなかったらプリクラだからね。」
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