DISC-02《WAY CALLED SCARS》

Track 001 HEARTBEAT REMAINS



 なにせ煙草をむことくらいしか手持ちの札がないのであるが、春の夕日は冬の頃を忘れ、視界に錆朱さびしゅを差し、まだ幾らかは宅地の屋根の向こうで粘ろうとみえる。こんな狭苦しい庭にあっても、なかなかに光というものは平等だ。作曲の悪業あくごうの、それに呑まれ、放ち尽くした後の空虚でぼうっと見ても、世界の綵色さいしきのどうということもなく、色は色だ。それでいい、すっかりと、何もれたくない気分。生きるということをやったのだという実感がうろをまるで悪くないと感じさせても、ここはアパートであってライブハウスではなく、それに、書き下ろしが一曲だけというのではな。煙草の味が、何やら不味まずい。それでいてすがるのは、不道徳だな。

 それでも根元近くまで吸ってしまって、室内に戻ったところ、デスクに転がしたままになっていたPHSピッチが鳴った。八汐やしおの加わったライヴの後、央歌おうかはなかなか寝つけなかったらしく、ぼくのPHSピッチの着信メロディを手遊てすさびにして、ホテル・カリフォルニアを入力したというのが初めて鳴った――ぼくも央歌も、結局聞くことがなかった。相当にやることのない夜だったとされ、単音しか鳴らせぬものを、ずいぶんと凝っているな。おまえそのうち、これを稼ぎにできるんじゃないか。

 白黒の液晶画面を見て不意をかれたのは、ライヴでの一件があったので、糸原いとはらが何か持ちかけてくるのではと予期していたところ、潰れた粗いドットの黒で表示されたのは八汐郁杏いあんとあったからだ。別段、抵抗を感じるものでなく、ぼくは素直に通話ボタンを押した。『えっと間違えてないよね。これ一谷いちたにサンでいいんだよね。』と八汐にいきなり不安に出られたので、ただぼくは、なだめてやるつもりがなかったのみなのだが。「さあ。一谷はひとりじゃないから。ぼくの父も一谷だ。」八汐の声はにわかにたかぶって、『あっえと、絢人あやとサン!』と言うので、間違い電話ではおそらくない。何をそんなに声を上気のぼせさせるのかと思えば、『いきなり名前を呼ばせるとか、何そのテクニック。えっこれ効く。学びたい。』ぼくが対応を大いに間違えたことが原因のようだった。

 デスクチェアに腰を落ち着けるも、さっきまで睨めっことなっていたデスクそのものに向く気にならず、椅子を反対へ向け、視線は宙に浮いた。実家に置いてあったものを取ってきた央歌のギターが、もうすっかり無用だが、まだ室内に鎮座しているのを、目のはしで捉えた。八汐がぼくに連絡を取る用件は、見当がつかなかった。「それで、どうかした。」加入してまだ日が浅いとなれば、なにがしかあっても、連絡先がぼくでも不自然はないと思われた。おもいのほか、なら適切ではなく、単にぼくは見くびっていたのだろう。『あー、正直に言うなら、これ、抜け駆けとしか言いようがないんだよね。』幾分いくぶん、八汐は困った様子でもあった。抜け駆けというのが音楽用語にないなら、ぼくはぼくで対応に困るところではあるが。

 ぼくの問いに答えたとはまるで言えず、八汐はどこか嬉々ききとした困りようで、話をずいぶんと足してくれた。『その、ライヴの後、その時の六曲を私のギターに合わせて直して、ついでに新曲ひとつ書くって話、章帆あきほさんにリーダー命令で、体調管理しろ、せめて三日かけろって言われてたの、一谷サン、絶対言うこと聞かないなぁと思って。でも自分が言い出した手前、章帆さんは三日間、連絡取ることないだろうなって。』なるほど、それで言えば現在は二日目の夕刻だ。章帆の言うことにそむこうとしたわけではなく、これでも、最大限に緩慢かんまんにやるにはやった。『それでその、恋ではないって、そういう好きとかじゃないってはっきり言ったんだけど、女子のみんなとしては、それは押せる時に押しておけって、もううるさいったら。明日、私のPHSピッチの発信履歴をチェックするって。』とりあえず納得したというのは、前科を持ち過ぎている章帆としては、そもそもが、こうして身軽に誰かを押すということは、おそらく、決意を固めるまでは難しいのだろうと。個人的な連絡を受けたことが、いまだ、ぼくも央歌もないのであるから。

 我が身を振り返ってみれば、悪徳まみれで、メンバーのひとりと同居するにとどまらず、からだの関係まで長らくあるので、うちの面子メンツに限って言えば、今の八汐の行動を咎められる者は誰も残らない。「まず言っておくと、章帆の指令は尊重した。作曲はもう全部済んだ。」PHSピッチ越しで、それを聞いた八汐は安堵しているようだった。ぼくの予定の空きではなく、もし作曲の邪魔をしてしまったらと、それは過敏に怖れるところではあったらしい。


 女子高生という生物イキモノを甘く見てはいけない、それはそれはとてつもなく限りなく馬鹿の見本なのだ、と、ぼくも少し前までは高校生であったに違いないのだが、とにかくも、落ち合ってまず八汐がぼくに与えた訓辞はそれだった。八汐はぼくへの発信履歴を残すことには成功した。実際に会うか会わないかでいえば会うほうが望ましいらしく、どうせならプリクラでも撮って友達に自慢してやりたいとのたまいだしたので、どこへなりとも行こう、ただし、プリクラの機械が置いていないところと、ぼくのほうから条件を出して応じたのだった。

 本当なら、きみのギターをじっと聞いてやることはできないと、それも注文をつけるほうが正しかった。今、八汐のギターケースは彼女の隣にあって、それは幸いにも弾くためではなく、学校帰りにそのまま来たから背負っていただけ、それを睨みつけてしまうかというと、何やら、八汐の朴直ぼくちょくな気風に毒気を抜かれてしまうところはある。

 八汐の通う高校は私服なのだから、服装はデニムのスカートにパーカーという気軽なもので、今朝それを着た時点では、ぼくに電話をかける予定はなかったという。先日見たのと同じ学生鞄スクールバッグかたわら、ベンチに座る隣にギターケースと並べて置き、手にあるのはたい焼きで、どうも、頭でも尾でもなく、丁寧に手で二つに割ってから、つまりは腹から食べるならいのようだった。頭から堂々とたい焼きをかじるぼくの視界に入るのは、特に見た目に奇妙なところのない、いて言えば色合いの多彩カラフルらしき、滑り台やらブランコと、つまりは公園の遊具だが、使う者はない。すっかり陽は落ちて、照明の光量は頼りなく、園外の街灯のほうが明るいほど。

 どうも、ぼくのほうが不安を覚えてしまう。手狭てぜまな児童公園のベンチに並んで座っているだけとなれば。「もういくらか、場所は選べたんじゃないのか。自慢にならないだろう、これで。」八汐は気に留めない。「そうでもないよ。高校生なんてさ。このたい焼き、うちの女子のお気に入り。」確かにあん美味うまいには美味いが、何分なにぶん、美食家ではないところ、無粋ぶすいとしては、たまにぼくに押しつけられる父への差し入れだのの味を知ってしまっていて。

 だとして、たい焼きの品評をするほうがずっと気楽だったろう。八汐は公園の遊具の何よりも遠くを見つめるようにして、くのだ。「真面目な話もしたかった。だって〈略奪者たち〉で、もし私が壊しちゃうとしたら、それは一谷サンが最初だと思うから。」困るな、聡明というのも、のらくらかわそうというのもできやしない。最初からそのつもりで、人気ひとけのないところを選んだというのだ。


 スタジオの一室に――今回ばかりはさすがに狭い部屋に、響いているのは打音ドラム低音ベースであったのだが、いつもとはずいぶん様相が違った。スネアが、タムが、しっかりと撃つ音でありながらも軽やかさが際立ち、跳ねたうえに跳ねると、そのような。一方で低音は、動きに乏しいわけではなくも、あくまで生直きすぐに、裏方でいることを好み続けた。

 即興のセッションが果てると、章帆は毒を含んだ物言いをした。「夜に呼び出しを受けて、ちょっと期待した私が愚かでしたねぇ。動きやすい格好で、って、ボウリングとかバッセンとか、一瞬想像しちゃったじゃないですか。絢人クンに限って、まさか。」バッティングの方なら、最上サンに何度も付き合わされたのでそれなり。ベース持参と、指定を付け加えた時点で理解したろうに、章帆のショート丈のジャケットなり、キャミソールなり、それに合わせたカーゴパンツなり、少なくとも、高校ギター部のTシャツは着てこなかった。ぼくとしては、抵抗はしたかった。「章帆が言ったんだぞ。ドラマーの憂さ晴らしはドラムを叩くことと。」まるで説得力がないというのは、ドラムに座するのが章帆で、章帆のベースを抱えているのがぼくだからだ。

 ぼくが床に座り込んでしまっても、章帆はドラムセットから動くことがなかった。「実家がライヴハウスとスタジオをやってるんですが、裏メニューがあって、そこの末娘すえむすめを助っ人に呼べるくらい、ひと通り、心得こころえはあるんですよ。」ドラムを叩いてくれよと、たわむれに章帆に持ちかければ、このさま、ぼくのほうが、追いつくのがやっとというところ。

 にしても、章帆は不満を露わにしている。明らかにむくれているというふうに。楽器をやらされて嫌に思う性分ではないだろう。「何も言わなかった。章帆に相談することを先にして、その当夜に連絡した。何が悪い。」つまりは、今のままでは、ぼくはライヴはおろか、練習さえまともにできやしないのだと。八汐の弾くギターは、ぼくに父の神性ピアノを呼び起こさせ、傷をえぐり、はらわたを散らし、せいぜい五分保たせるのがやっとだと。そのことを今、章帆だけが知る。

 章帆からして、一定の満足がないではないようなのだが。「相談の順番が、リーダーが先だったのは、信頼が厚くて大変けっこうなんですが、片思いの相手に、若い子とデートしてきたなんて言われて、喜べるものですかね。私は無理です。」返答に詰まって、本気になるという予告はされていても、確定的な言いようをされたのは初めてなのであるから、結局、天井を見上げて、「なんだ、今日はそういう日なのか。」とぼやいた。章帆は追い打ちで、「そのようで。郁杏ちゃんが恋とは思ってないっていうのも、ちょっと怪しい気もしますしね。」と、しっかりとどめを加えることをためらわなかった。

 急に呼び出した詫びと、章帆好みの甘いコーヒーを買ってきて渡せば、その好みを覚えていたことに少し気をよくして、そして今度は章帆が床に座り込み、息をいた。「私は私で、自業自得ですから、しょうもないみたいな。これは。嫉妬で自覚したのがそもそもなので。」ぼくはぼくで、自分の分として買った無糖のプルタブを開け、なるほどこの部屋は狭く、ひとりが床に座ればドラムのほうに座るままになる気がわかる。缶コーヒーは開けてしまい、それでドラムに陣取るのは無作法と、結局、章帆と隣り合って座る形となった。章帆の息遣いがわかる、落ち着いている。そういえばよいの頃、隣に腰掛ける八汐の息遣いは、平静からわずか、逸れていた。「ライヴで、絢人クン、あまりにも強く郁杏ちゃんを呼んでいて、強すぎて、ギタリストとして呼んでいるのがわかっているのに、だめでしたね、その時はもう。これは嫉妬だなと。私を呼んでほしいんだ、人として呼んでほしいんだ、って、気づくよりないじゃないですか。それ。」今ここで嫉妬するにしても、相手が八汐というのはとりわけ都合が悪く、不満にもなろうというのか。

 ふっと空気が、半端な室温の揺蕩たゆたいが、無音に静まる。音の鳴らぬままにいられなかったのが章帆で、声音は震えの気振けぶり。そして、常ならばあったものが失われる。「ごめん、機嫌悪くて。絢人クンは悪くないよ。最初に相談してくれてありがとう。」そのように言われればこそ、不出来なぼくは、どこより正解を見つけ出せばいいのか、わからなくなる。

 章帆は缶を置いてすっくと立ち、ドラムセットへと勢い良く座した。「ベースで憂さ晴らししようって気分じゃないですねえ。」そういって、思い切り良く叩いて、踏むのだが、ついさっきとは音が重ならない、一発を重く撃ち、しかしめり込まずに、跳ねる、おいおい、あっさりとぼくのお株を奪うなよ、その技巧、そんなに簡単じゃないんだ。音の響きに、決して八汐のことだけではない章帆の憤懣ふんまんが覗ける気がした。バンドの行く末の責任もそう、そして、好いたやつを余計に困らせようと思うたちでもあるまいよ。実情、音楽オンガクしか取り柄のないぼくは、かねてより望んだ、やっとの思いで成り立たせたバンドに加わることができず、そうだな、ぼくの感性で感じるより、よっぽどけわしく覚えるだろうな、ぼくのことだけをとっても。

 打音は手数を増していく、増すほどに、ぼくの出す音に近づく。手練てれんを尽くすものかは知れないが、折悪おりあしくぼくから悩みを相談されていなければ、章帆はぼくに熱烈に求愛なり何なりしていたのだろうが、あるいはそれで、少々の抜け駆けなどものともせず、ぼくを落とす見込みも十分にあったのかもしれないが、今まで色恋いろこい沙汰ざたでバンドを転々としてきたというのは、おおよそ、好いた相手を口説き落とした実績と捉えていいのだろうしな。がらにもなく船を沈ませないなんて宣言しなけりゃあ、少しはましだったものを、不自由を迫られて、言えない、押せない。片思いの相手と言ってしまい。

 まさかぼくから色恋がどうのと言えるはずもなく、ぼくもまた立ち上がり、章帆のベースを借りた。打音ドラムで憂さ晴らしなんて、最初からできないんだ、ぼくは。ぼくの鳴らしていく、章帆に合わせて乗せていく低音ベースは、知れず知れず、いつも章帆が奏でる奔放ほんぽうさに似た。さっき苦労して弾いたのが馬鹿を見たように思えるほど、ずっとうまく弾けた。


 眠りをくしようとするためか、央歌は白湯さゆを飲んでいた。と言ってもそれを見てはいなくて、背後よりの物音でそうとわかったのみなのだが。もう日付は変わっているはずだった。帰宅した時、ベッドの上にタンクトップとジャージのショートパンツが放られていて、央歌自身は濡れた体を拭きながらユニットバスより出てきたので、バイトから戻って後、長い黒髪をまとめて、たっぷり外を走って汗をかいてきたのだろう。振る舞いの物音からすれば、央歌は今、ぼくとの共用になってどちらのものか知れなくなったTシャツのうちの一枚を着ているはずだった。白湯さゆを体に染み入らせる間で、央歌が何気なにげなく聞いた。「直しも新曲も、終わってないわけ。泉井シゴト?」昼間、すでに仕上げた譜面は転がっている。央歌はいち早く目を通した。ぼくはデスクにっさらな五線紙を広げてから、淀みなく鉛筆を走らせ続けていた。「仕事の予定はある。これは、どこのだれでもない、架空のバンドの曲だよ。なんたって、ピアノのパートがある。アパートメント・カリフォルニアとでもしておけ。」央歌は真面目に付き合って、「曲名、バンド名、どっちが。」というので、「どっちもだよ。どっちもカリフォルニアだ。」と、ぼくは投げやりに答えた。

 書きつけていく、ピアノの音符、本当はどれよりもぼくに馴染んだそれ。些少さしょうはらが喚かないではないにせよ、バンドで鳴らすというなら、父の弾くことが永遠になかろうと思えるので、この譜面スコアから、紙の上から鳴るのは、ぼくのピアノの音で。「いつもの憂さ晴らしだよ。初めてじゃないだろう。」そんな物言いで通用すると本当に思ったなら、ぼくは動揺を抱えていたか、もしくは馬鹿なのだ。「じゃない。あたしは今、服を着てる。いつもだったら着てない。帰ったあんたを、あたしが誘ったから。今夜、あたしじゃ気晴らしにならなかった。」背から、鋭角えいかくの声で刺されれば、鉛筆を握る指の強張こわばって、書けない。お互い、つれなくしたからどうということはない、日頃と違うのは明白と、ぼくは誤魔化したのだと。

 観念するのがいっそ潔いと、鉛筆をデスクに転がした。いつもでないことの明らかな証左しょうさで、書きかけの五線紙を見放して、ごみ箱に棄てた。「そう、普段通りじゃない。ちっとも。でも結局、ぼくが帰ってくる場所はここだった。」頭の中で、書こうとした続き、音符が鳴り喚く。「渋々しぶしぶってわけじゃないんだ。すっかり疲れちまって、それで、とはっきり思ったのは、ここだった。呑気のんきに裸で部屋に出てくる央歌を見て、ずいぶん、ほっとして、まともな賭けにならなくて、困るな。明日、ぼくがここに帰りたいと思うかどうか、賭けてみるか。倍率オッズはどうする。」央歌は央歌らしく、深く受けとめようとはしなかった。少しずつ飲むのに飽きたか、白湯さゆあおって、それから賭けに乗った。「倍率オッズには興味ない、明日は無理にでも誘惑ユウワクに付き合わせてやるから。体を貸しなよ。」そうだな、別にそれを嫌とは思わないから、おそらくのところ、ぼくはまた帰る。




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