Track 008 I'M YOUR SWEETEST TRAGEDY



 やわふかしい残燻ざんくんとして、音色はくうに溶け込む遺響いきょうと果てて、演奏は止まった。一曲が終わったらしい。臓腑ぞうふはなおもうずくが、もはや、ここでよどんでれているなど。

 ぼくはこれから、教室へのドアをノックする。引き返せるわけがないのだから。その前に言うべき事はあり、ギターの鳴りにかき消されなくなったため、潜める声を求められた。「ふたりとも、離れているか、帰るか、同席してくれなくてかまわない。不審者として突き出されてもつまらないだろう。」聞いて、もう諦念ていねんの抱きようも忘れそうだと、章帆あきほゆるく肩をすくめるのみだった。

「今さら。バンド単位でここまで来てしまって、すっかり聞いてしまって、知らぬ存ぜぬであれと。球場のビジターとホームで別行動するのと、何やら同じに考えてませんか。いいですよ、小火ぼやの後始末くらい、しますから。ほうられるのは虎を応援する時だけでけっこう。」

 やはりHとTの野球帽は思い入れゆえのものらしく、ぼくも央歌おうかも熱心に野球を観るというたちではないにせよ、東京生まれ東京育ちとして率直に育ってきたのであるから、つまりは相容れそうにない。

 央歌はひとつ、「鬱陶うっとうしい。」と吐いた。無論のことと退かず、むしろ誰より先に、教室へやの入り口へと、く。央歌は自分をごまかさない、その苛立ちは隠されることがなく、あるいは実直すらほのめくものと。

「ここにきて一番びびってんのは誰だってハナシ。」

 誰に聞かれてもかまうところはないと、威風ある声音をぼくに向けて、央歌は教室への戸をノックする、強く、二回、はっきりと。わずかの間の後、「はい。どなたでしょうか。」との返事が室内よりあった。女の声だ。ここからはあたしじゃない、行きたいのはおまえだろ、と、央歌は炯眼けいがんもってぼくを見つめることで表した。章帆は目深まぶかに被った野球帽のつばに手をかけつつも、そこまで。まったく、ずいぶんと手間をかけさせてしまうな、何とも面倒見のいい連中メンバーだ、そのうえ、よりによってあえてぼくに先を譲ろうという、そうだな、ぼくが途方もない愚か者だからって、他がまるで愚かでないという話にもならないか。

 央歌の隣を過ぎ、小細工なしに戸を開けるが、とはいえ、ここは今、弾くための空間として閉鎖されていたのであって、楽器の練習の時間を邪魔するというのは――相手が彼女だからということではなく、ぼくにとって不審のどうだというより、よっぽど、殊更ことさらに気が咎める。だから言った。「申し訳ない。きみの練習の邪魔を望んだわけじゃないんだ。きみは弾いていい、もし次を弾きたいのなら、すぐに出て行く。ただ、少し話をさせてほしかったんだ。」一歩二歩だけ、央歌と章帆を後ろに立たせる余地をつくるように中に入り、見やれば、机と椅子を脇に退かした教室の中心で、木目調のフロアタイルの上、たったひとりきり、あどけなさの十二分に残る学生らしき女が、ギターを抱えて立っていた。ギターが大きく見えるのは、彼女が小柄であるから。音を聞いてさえいなければ、何てことのない光景のはずだった。

 彼女のショートボブの髪は純黒じゅんこくとしてあるのではなく、栗色としての淡さを含んでいる。頬に薄くあるそばかすが、幼さをより印象づけてしまう。瞳の色素も濃くないのであれば、髪に潜む栗色は生来のものかもしれなかった。ぼくら三人を前にいぶかしんだ様子はあるも、どこかたわむれるような余地を残すと、彼女の声音はそうあった。精粋せいすいな、濁ることのなさすぎる、そして、自負心の捨てられぬ発声こえ

「軽音部の見学に来た新入生、には見えませんし、たぶん、OBでもないですよね。誰ですか。でも、ヘンなの。どこの誰かが問題なのに、そんな真剣なカオして、練習の邪魔かどうかって。うん、ヘンです。」

 どうも、すぐに教師なり何なりを呼ばれるふうではないようだった。すぐ後ろ、ちらと見ればすっかり帽子を脱いだ章帆が、「変、で済めばどんなによかったか。」と項垂うなだれていた。ギターの少女は、わずか強張った身体から力を抜く。いったんは抱えたギターを、ストラップによって肩から下がるままにする。

「いいかな。かまいませんよ。すぐに次は弾かないんです。ギターの弦を張り替えるつもりだったから。お店のひとに勧めてもらったものを試したくて。でも安くないから、気に入りたくないなあ。弦の交換の片手間で話を聞けばいいんですよね。きっと。」

 少女は教室の端に寄せたうちから、机と椅子をひと揃い中央のほうに動かし、そこに自らの学生鞄スクールバッグを持ってくると、中を漁り始めた。「あれ、どっちだったっけな、イチオシって言ってたほう。」彼女はにわかに渋い表情を浮かべ、どうやら、どちらが一でどちらが二なのか本当に失念したようだった。

 余計な話をする猶予は感じないが、名乗りくらいはせめてしてくべきと、「ぼくは一谷いちたに絢人あやと。他のことは、今は関係ないな。省略でかまわないか。」と話せば、彼女としてはおかしみが増したらしく、「たぶんこっち。コーテッドだった。」と、弦のパッケージを取り出してから、静かな笑みまで浮かべ、「私は八汐やしお郁杏いあん、ここの二年。以下省略です。」と、求めていなかったはずの応答をくれた。とうにわかって、覚悟のこととはいえ、おそらくは十六の少女が、ギターを弾いていたという事実、現実は、理法りほうそむ罪科つみとがであるとすら。この教室には彼女以外、誰もいやしない。エレキギターを弾くなんて酔狂は、人間しかやらない。

 省略を認められ、さらにはならって省略で応じられたとなれば、本題をもって、じかに、そのままに斬りつけるしかないというのだ。それがくうに泳ぐか、血が噴くか、噴くとしたらどちらなのか、導かれるところの何らもわからずとも、自らののぞみはわかる。そしてそれ以上に、ぼくが輪郭りんかくが光を発するほどに、その鮮明さに心火しんかを覚えるほど、わかる、わかりきる。

「足りないな。そう、きみにぼくたちのバンドに加わってほしいってことだよ。ここでひとりで弾いて、気分はどうだ。ここにいる限り、きみのギターは足りない。ちっとも半端で、半分にしか満たない。今はぼくにとって他人事でも、これをほうったら、人道にもとるじゃないか。だから誘ってる。ぼくたちのバンドに。ぼくらにとって都合がいい言い分には違いない、それは否定しない。」

 彼女は、ヤシオイアンは、ギターにすでに張られている弦をほどこうとしていた。そのひとつも満足に為すことのないまま、手が、細い指が、止まる。時の経過が、その一点のみき止められたよう。だからと、指先で拒んで、世界の速度がそれでゆるむはずもなくて、応じるよりなくて。彼女がうまく表情を持てなくなっていたって。

「今まで散々、好き勝手、と言えば聞こえは悪いけど、私の弾くギターは、そりゃあもう色々なことを言われてきましたよ。でも、初めてじゃないかな。って言われたのは。無責任に褒められるのはもうたくさんって思ってましたけど、あーあ、けっこうこたえるもんですね。おごれる人も久しからず。」

 重ねられてきた彼女への賛辞を嘘とするつもりはない。褒めるほかには何も言えないと、そうあるものには違いない。ぼくはただ、、という話をしているに過ぎない。だって、そうだろう、鳴りの絶えるまで、ぼくは嘔気おうきを耐えきってしまったのだから。じゃないか。ぼくを潰して、立ち上がる余地を塞いで、そうであってしかり、そうあるべきじゃないのか。

 もはや、彼女のギターの弦が交換されようという気配はなかった。静止した指先は、ひどく中途半端な形のまま、強張るのみで。「バンドに入ってほしい、と。」丁寧に確認するように、さもなくば呻吟しんぎんするように、彼女は繰り返す。「それは、そっちのほうは、何度だって言われてきたことではありますね。うん、ポール・マッカートニーに誘われたらちょっとは嬉しいかな。ポールが私のギターを意識して曲を書くってことですよね。Hey Judeヘイ・ジュードじゃなくてHi! Ianハイ・イアンになるかもって、ひゃあ、照れますな。それは。あー、でも、絶対に男だと思われる。その曲名。」何もかも嘘というわけでもなさそうだが、おどけて自分の調子を掴み直そうとしたのか、どうか、結果として、言うごとに、続けるほどに、その深みにおいて、声風こわぶりに痛みが浸潤しんじゅんする。逸らせない血溜まりがある。彼女はえかねた。なまぐさく香るとも、血漿けっしょうを言って放つよりなかった。

「大嫌いです。バンドなんて、ね。」

 清い声音であればあるほどに、いたむのならわびしい。

「あー、もしかしたら幼稚な保身かなあ。あは、実に面倒くさい。私はいいなって思いますよ。バンド。ポールの書く曲は、やっぱり、ビートルズで鳴ってこそだって、そう思いますしね。嫌いなのは、憎いのは、私がいるバンドです。」

 そうだろう。

 光が降り注ぎ、絶え間ない祝福としてそれがあっても、それを求めて、浴びて、無傷でいられると思う方がどうかしている。

 成層の彼方、そこから発されるというのなら、なおさらに。

 称えられ、求められ、その輝きを増すほどに、彼女の量刑は際限をなくしていく。

 浴びせかける。

 それもまた、ヒトゴロシには違いない。

「私は私のギターを弾く以外、何をどうしようもないんだから、困っちゃいますね。バンド、組んだことだってあります。何回も。一回、二回で懲りればよかったのに。迎えてくれた人、共にやりたいと思った人、大切な人を、気づけば私は、私のギターで壊している。傷つけて、苦悩させ、ともすれば、それはオンガクからの追放になって。最初は違っても、最後には罵られる、それももっともだなとは思いますけどね。私だって、ポールの隣で作曲したくなんてない。それがわかるまで、ずいぶんな時間を食ってしまって、とっくのとう、もう、憎くてしょうがない。」

 人々がもてはやす才能というもののいずれもが、密やかに撒く毒劇物は、誰が望まずとも絶えない。成層に辿り着くことでいたみが化けるというなら、さぞや良い景色が広がることだろうさ。隣に誰かが在れとするのであれば、高みにもることでつむろうとしないのなら、そうだな、ぼくが臓腑ぞうふを散らすところも、だ。

 だとして、ぼくは慰めてやりに来たのではない。

 欲しかっただけ。

 願っただけだ。

 鳴ってくれと。

「勘弁だな。絵空事をくれてやろうというんじゃない。きみがきみを憎まずにいられるバンドだなんて、ぼくは言っていない。憎め。泣き喚けよ。そうでなくば、きみのギターが本当の価値で鳴ることがないというなら、。ぼくは足りないと言ったはずだ。ぼくは何も知らない。知ったことか。それでも、わかりきってるじゃないか。きみがきみのギターを弾く限り、何も壊さないなんてことが、。」

 表情を失い、彼女は黙した。気づいた、と。ぼくは黙らなかった。

 たとえどんなに生かそうとしても。

 芽吹き、生きゆくのだとしても。それをしても。

「きみは壊す。自分を憎み、泣き喚く。人を救うだけで済むわけがないだろう! 自分のギターをわかっていないのはきみだ。それを弾かないのもきみだ。ぼくはただ、と言っているだけだ。そしてその場所を、ぼくたちにしてくれ、と。」

 願いをありのままに伝えれば、察せられたものはあるというのだ。

 彼女の顔に、生彩は戻らない。

 なんとなれば、喪失に他ならないから。

 ぼくは今、彼女のうちに生きていたサンタクロースを殺した。

 埋め合わせになるとはちらとさえ思わずとも、渡したいとは思った。それはある種、言い募った分だけの誠意なのであるし、それが愚かしさを固めただけの舟なのだとしても、道導チケットだけは、と。乗るも乗らないも、あるいは破り捨てるだけの自由さえ、与えてやらないよりは、と。「章帆、MDとチケットをくれないか。」章帆はしかめっつらをまるで完璧にしつつも、おとなしくバッグから、ぼくらの演奏プレイが録音されたMDと、先程先方から渡されたばかりの、ぼくらの出るイベントのチケットを一枚取り出した。バンド名が決まっていないということで、チケットには先方が出演者を管理するために入れている通し番号ナンバーしかぼくらを識別するものはなく、MDのラベルには当初、SO LONG, MAGGIEとだけ書かれていたものが、急遽きゅうきょ、〈一谷絢人が作詞作曲のバンド〉と書き足された。糸原も絡んでいる中、それが一番、通りが良かったのである。渡すついで、章帆は刺々とげとげしかった。「見るにえないですよこんなもの。どんなに破綻してる人だって、本気のことを言う権利はありますけどね。間違ってるとは言いません。自分がどんなバンドやってるか覚えてますか。思い出せるならけっこう。何をしたかは自覚してくださいね。」なるほど、疑いなくリーダーとして適任だと内心で章帆を褒め称えつつ、ぼくは彼女へと向き直り、一歩、二歩と、確かめるように歩み寄った。ともすればぼくは今、殺人犯になったばかりなのであるし。

 距離は次第に詰まり、ぼくはついに、MDとチケットを彼女に差し出した。ためらいといたみを溶け合わせつつも、彼女はそれでも、どちらともを受け取ってくれた。

「いいんですか。」

 彼女は言う。もはや嘆きに似る。彼女は断頭台に差し出して委ねる側にはなれない、執行する側の、そこにしか立ちようがなく、それを安寧と思えずとも、誰に責められることでもない。

「あなたたちのことはわかりませんよ、演奏オトの実力も、人としても、でも、なんで、とわかっていることを、自分のほうから。苦しみたいのだとしか。なんでそんなに、痛がりたいようにオンガクを求めるんですか。意味なんてあるんですか。そんなの、悲しいですよ。悲しい。」

 彼女は聡明だった。そうとしか言いようがなかった。喪う中でさえ。

「泣き喚くのは、私だけ?」

 返答する必要も、余地も、何らないと思った。知れたこと。それに、ぼくは言葉を知らず、何かしら累犯になろうとも思わず、であればもう、鳴らすものでしか。ぼくの信ずるオンガクでしか。もはや去ればいい、それだけ。それでも去り際、ぼくはどうにか言い足した。年長者ぶるつもりもなく、糸原のような世話もできやしないとして、神域そこより鳴らすということを、鳴らされるということを、肌でっているのはぼくのみなのだから、ぼくが望むことでしか、かけてやる言葉というものが、どこからも生まれないというのなら。せめて。それが何であったとしても、愚かさの上塗りにしか過ぎなくとも。

「きみの欲しがるシアワセは、そのカタチは、きみの自由だ。のぞむままでかまわないさ。それでも、きみはできるよ。きみだけではなく、どいつもこいつも、まとめて不幸にしてやることが。たとえ願いと一致しなくても、。するかしないか、鳴らすか鳴らさないか、それもまた、きみの自由だ。かまわない、鳴らしてしまったって。そのための場所ならば、きみが泣くのにふさわしい場所なら、ある。そう言ってる。」




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る