Track 007 LIGHTNING THAN THUNDER



「確かに鳴ってますね。」

「ギターだね。」

 路地をうねりく。音が場所を示す。少々入り組んだとて、大通りに回らずとも、何も迷うことはない。鳴っているから。本来行くべき道に目もくれぬぼくをやむなく追い、近づくにつれ、章帆あきほ央歌おうかがそれぞれ気づいたが、そこにある、見つめる眼居まなざしを潰そうかという光彩は、いまだ、ふたりの耳には届いていなかった。

 行き着いてみれば、宅地に囲まれるようにある、ごく普通の高校だった。校門にめいがあるところ、都立であるようだ。さして目立つところもない校舎は二棟に分かれ、都内にあるにしては十分広いと思える校庭では、いくつかの運動部が部活に励んでいた。始業式の後というあたりか、昼過ぎながらもう放課後ということだった。

 吹奏楽部か、譜面を追うのがようやくというトロンボーンのや、スポーツに対しての真剣な掛け声、それらに混在しながら、上方じょうほう、校舎四階よりの星雨せいう星爆フレア。震源に立てばあまりにもくらむだろう、しかしその鳴りは、拒むことを、排斥することを、高みから塗り潰すことをのぞむところがない。。無理だ。こんなに輝いてしまっては。光であろうと、尋常じんじょうを遙か過ぎるのなら、人は殺せる。

 ぼくの感覚のうえでは、もはや余白はわずか、ほぼ全てが明晰に聞こえると表現してもよかった。それは一閃いっせんに次ぐ一閃。鳴き尽くしてなお留まらぬ鳴り。確かに距離は多少なりある、その場の窓は閉めきられている、それでも濾光器フィルターのごとく、ぼくの認識の一区画で、音の漠然ばくぜんの部位は鮮明化が施され、聞こえる、そしてそれはきっと正しい――あるいは、もし誤りがあるとしたら、それを上回る。

 ぼくにとって、本当に遠くより聞こえていたのだと、章帆は確たる形で納得した様子だった。章帆は音の出所を探し、見上げる。鳴いた野鳥でも探すかのように。その何てことのない有り様に、章帆に何ら非はないと承知でも、苛立ちは募った。

「軽音部の練習ですかね。でも、たぶんですけど、これすごくうまいですよね。くぐもってて、音、ちゃんと聞こえないですけど。窓閉めてますよね、さすがに。」

 どうしても、黙れなかった。

? やめてくれ。。」

 技巧を物差しで計るようなものじゃない。から鳴りそそいでいるのかが問題なんだ。そして。その蒼昊あおぞらのいったい何であるかなのであり、いったい滄溟うなばらの深みのいずこまで、光を突き通しているのか。

 校門前で立ち話をしているぼくたちをちらと見やりつつ、それぞれ服装の違う、しかし共通の学生鞄スクールバッグを持つことの多い者たちが幾人、隣を行き過ぎ、下校していった。どうやら規定の制服のない、私服の高校の様子だ。

 たのむよ。

 鳴らさないでくれよ。

 そんなところから。

 

 あの男に棲みつく神性ピアノを聞くのと同じに。

 そして実際に、ぼくは嘔吐へど臓腑ぞうふより上に至ることに耐え、抑える。何の比喩でもない、身体が悪心おしんに満ちていく。声を発するのもここに至り、きわどい。「ぼくにはわかる、これは、一谷いちたに史真しまの弾くものと同じ領域から鳴っているというんだ。」章帆は大きくまばたきをした。「一谷史真って、ピアニストの?」ぼくはうなずくことさえない。「父親だよ。ぼくの。」央歌はとうに知っているので何がどうということもない、章帆は静かに驚いたようではあるが、符合ふごうをみるというふうでもあった。

 ギターのひずみの鳴動と、ピアノの汚濁おだくなき旋律を同列に比べるなど、明白に間違いなのであるし、父の弾くピアノの技量には、圧倒的で異質の経験キャリアが上積みされているのには違いない。何から何まで違うと言っても、あるいは差し支えない。芯にある光彩さえ同一とはできない。ただ、唯一――

 どうだ。

 鳴らしてみて。

 から。

 そこから何がわかる。

 聞かないという選択はなく、むしろ耳を澄ませ、そうするほどに嘔吐えずきそうになる。それでも、「ぼくは行く。」一歩を踏み出すしかないというんだ。歩み出そうとしたぼくの肩を、咄嗟に章帆が掴んだ。その手にあったのは疑いでなく確信であると、容易に読み取れるほどに力は強く込められて。「行くって。中にですか。不法侵入っていいます。そういうの。」正誤など、もはやかまわない。向かわなければ掴めない。「逃げられるものかよ。ここで今さら。こんな音を聞かされたら。」章帆が手を離すはずもなく、むしろ込められる力は増した。痛いとさえ、それで嘔気おうきが紛れるとさえ。

「音があるから問題行動を黙認しろと。ライヴの日取りを決めた帰り道にですか。オンガクの奴隷サン、いったい、どこまで馬鹿なんですか。」

 央歌がぼくらの正面に寄って、その左手で、目立たぬよう、しかし確実に、ぼくの首を絞めた。こうでもしないとおまえは黙らない、そう言いたげだった。そっと右手を乗せることで、ぼくの肩にある章帆の手から、その力を解かせた。「どうせふたりとも譲らない。善悪なんて考えるだけ無駄じゃない。」自らの手を自らに戻して、央歌は、校門の向こう、校内を見やった。「幸い、私服の高校みたいだし、生徒数もそれなりにはいそう。春先から全生徒の顔を把握している人はいない。ここで派手に喧嘩を始めるよりも、しれっと潜り込んだほうが、よっぽど問題にならない。」促される気配は見せつつも、章帆は不服げに央歌を睨んだ。「結局、問題行動を推奨ってことじゃないですか。それ。」

 動ずることなど何らなく、かじを切り、央歌は笑む。「章帆ってかわいい顔立ちしてるね。目はくりくりしてて、肌もきれい。でも、髪はちょっと派手すぎるかな。」オレンジの髪、紺のメッシュ、章帆はため息を隠さない。「それは褒めてるんでなくて、現役高校生で通せるかを気にしてるわけですね。自分が恨めしい。TPOへの配慮でですね、いつも持ち歩いてるんですよ。ただの野球帽ですけど。」章帆がハンドバッグの奥から引っ張り出してみせた帽子は、確かに黒地で一見シックなデザインとなっているが、そこにあるのは阪神タイガーが合わさったマークなのであり、見る人が見れば、むしろ敵をつくりそうではある。

 似合わないことを認めないとならないのであるが、章帆も含め、こうして連れがいることで、どうにか息を継げる。嘔気おうきは変わらずぼくのうちちる。無駄話をする気はなくて、鮮烈な閃火ヒカリに向かって、厭悪えんおにも似た、怒りにも似た、濁った感情を懸けて――だとしても、ここで何か、せめてひと言なりと言わないでは、辻褄つじつまが合わないように思われて、集合バンドを望んだのはぼくなのであるから。

 どうして必要なのだろうか。

 今、ここに。

 神のそそぐ。

 音楽ではない、ただのことばを発するしかない、ぼく。

 なあ、

 音楽がないと生きられない人間なんて、

 本当は、

 この世のどこにもいないよ。わかってる。

 薄く脂汗あぶらあせすら自覚する中で、嘔吐えずきをどうにか手前でき止めて、表情は曖昧にしかできずとも。それでも、言うだけだ。「もし、章帆がぼくとデートをすることになっても、球場では別行動だ。ちなみに央歌も、そっちには行かない。」央歌はくすと笑った、おそらく、ぼくの馬鹿さ加減に。対して章帆は、もう怒る気も失せたとばかりに表情を失い、「絢人あやとクン? それ、絢人クンなりに場を和ませようとしたかもですが、私には追い打ちなんですよ。わかってます?」そろそろ瞳に涙が見えそうなのだ。


 幸運か、妥当な成り行きか、誰に見咎められるでなく、結局は央歌の言う通り目立たず、ぼくらは四階、熱源、その教室の前の廊下にまで辿り着いていた。校舎のつくりからすれば端のほうであるらしく、教室外に他の生徒は見当たらない。室内に入る引き戸には窓があるも、こちらが見つかっては事であるから、覗き込むのは控えていた。ゆえに、誰が弾いているともしれないギターだが、ここまで来てしまえば、央歌の耳にも章帆の耳にも、明白に、明確に、一線を画し、人の本来踏み入れるはずのない領域から鳴り響かせているものと、そのように聞こえているはずだった。鳴動オトが高鳴れば、章帆が息を呑む。央歌の目つきがにくもうというそれに近づく。

 本当にギターという楽器を弾いているのか、そこから疑わねばならないほど、そう、奏者の精神が、感性が、純然に全て、直接にその六つの弦からあふれていると、楽器と奏者が分かたれることなく、まるで同一にあるものと。新たな、未見の、ひとつの完全な、そして神聖な生命体として在るかのような。それが現実を認めないことであるとは承知でも、まるでちぐはぐな、教室へやの内側がぼくらの立つ世界と地続きであるとはとても、些末さまつにすら信じがたいじゃないか。

 聞いて苦しさを覚えるほどの生きようであれ、聴者の生命いのち形質かたちを変えるのであれば。

 薤露なみだ薤露なみだとしてしたたり落ちて、なお、濫觴うまれることを瑕瑾キズなしに芽吹かせようとする。

 憂心うれいのなしに、無垢イノセントとしての玲瓏うつくしさで、音鳴いきることを求め、ひとつきりのいのちの数を繰り返し数えさせる。ひとつ、数え直す、ひとつ、もう一度、ひとつ。ある、ある、ある、ここにある。数えられないではない。どうか数えてほしいと、指折り数えて、ひとつを折り、見つける。ある。鳴る。

 さあ、

 生きてよ。

 ただひとつきりの孤独で。

 さあ、鳴るよ。

 逃さないで掴んで。

 繰り返し始めて。

 なにがほしい?

 なにがたりない?

 なにをすてたくて、

 なにをまもりたくて、

 それは、今日という日だけではまるで足りなくて、明日なんて今、この世界のどこにもない。ひとつきりのいのち。今にだけある。ちっとも、あふれさせていくには、まるで足らないね。あふれさせていくには、まるで、今だけでは――

 今、

 ここで、

 いのちで、

 聞こえている?

 鳴る音がここにあるから、響かせていくから――

 いつまでもひとりきりであっても、始めることを続けて、生きてよ。

 寂しいいのちをなくさないで、怖がるたましいを認めて、この音符を、明日には忘れてしまったって、信じられなくなったって、それでも今がここにあるから、だから鳴る。

 たったひとつしか数えられなくても、

 そのひとつを数えられる。

 かぞえて。

 ひとつきりの孤独で。

 鳴らすよ。そのひとつで。

 きみのひとつに、響くように。

 ある。鳴る。

 ぼくは確かに聞いたのだ、と、その表現で適切であるのかどうか、まともに認められもしない、本当にそれが届いているのは鼓膜なのか、つるものを受けとめているのは、あるいは、内奥おくにある、血でも肉でも骨でもない何らかのものが、その音色にじかに呼応させられているのではと。それはまさしく今この瞬間に生きている者の、果てなくとよむ孤独でありながら、真清まさやかなまでに純粋そのものの、生命の響きで、そこにあるんだな、きみの神性は。深くのぞむ、何の力もなければ、命の全てを嫌いたくないとの世迷よまごとで済まされるものを、おまえは愚かにも。のぞむのか。あくまでも。なあ、それは人間のすることじゃないんだぜ、どこからそれを成そうというんだ。だから、。遠すぎて見えないだろう。降りたらどうだ。おまえがそうあってほしいと願ういのちは、もしかしたら、まさに今、汚泥おでいの底で嘔吐へどを撒き散らすぞ。

 ぼくは眩暈めまいすら覚え、うめくことを抑え、そして底の知れぬ深度の、そのゆるがせのない罪業で思った。絶え間なくある絢人ぼくのぞんだ。この生きている音をこそ、命を促す音をこそ、神域そこにあるべくしてある音をこそ、。なあ、ギターひとつで鳴らしたって、それで人をどれほどに生かしたところで、だよ。いっそ本当に神になってしまってはどうだ。今のままじゃ半分しか成しえていない。その高みにいながら、誅伐ちゅうばつをためらうな、かがようのなら逃げるな。

 擾乱じょうらん深戯ふかざれの中でしか生きることのない、迷い子の牢獄バンドがお膳立てしてやるから、溷濁こんだくのもとに築き上げ、誅戮ちゅうりくを奪い合うことを是とするサウンドの中でそいつを鳴らして、雷霆なるかみとなって、何もかもを殺し尽くし、命を数えられなくして、そしてその全てを思うがまま蘇らせることのできる、狂愚きょうぐの奇跡を実現できる舞台ステージを用意してやるよ。だから、なあ、神になれというんだ、オンガクの罪も奇跡も区別なく、全てを望んでくれないか。

 たとえぼくが成層圏より押し潰され、血屑ちくずになるとも。

 願うよ。きみが十全じゅうぜんな生命と化すことを。不幸なぼくをさらに追いやって、それは欠けるところのない荒神あらがみの音と成り果て、あるいはその高みから、ぼくをほふることには造作がなくとも、蘇らせることのいかに難しいかを思い知ったとしても。




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