Track 006 SOUND WAVES FALL
無二のピアニストと目されていたというのは、武者修行なるもので姿を消し、キャリアに
貪欲の見本であるとするならば、
その結果としての荒稼ぎ、父は都内に豪華な一軒家を立てた。おおよそのところ、完全防音を施した広いリビングが欲しかったのであるから、まして当時、ぼくと父のふたり暮らし、部屋は余るし、リビングに憩いはなく、
ぼくがこの空間から逃れてより二年弱、それでまだこのリビングの
だからと、ドラムセットの中心に座さなかったわけではないのだが。
グランドピアノの、奏者としての、鍵盤からの真正面に座している。全能の
鍵盤に触れてみて、
おまえを鳴らすためらいなど、とうに擦り切れたよ。
初恋になりようもなく、待てど暮らせど、もはや、いつまでも再会の
月面で会おう。
今さらおまえと手を取るなら、月の上。夜には違いない。
願わくば――
次に拾い上げる情緒を見失う。月面のピアノは
一谷史真だ。
スーツのままの帰宅ならば、まさか散歩に出ていたわけもなく。ダブルのベストを好んでしっかり着込むのは相変わらずで、とはいえ、フォーマルたるものに敬意を払うではない。父からして、仕事着はこれとしているのみなら、乱雑にネクタイをほどくとソファの上に放り、革の鞄は捨てるように床へ、そして考えなしにネクタイを投げたことを
どこかでぼくを
「弾いていたんじゃないのか。泥棒が来たとでも思ったなら惜しかったな。俺だってたまには家に帰る。続けたらどうだ。」
それが何か望ましいものをもたらすなんて、
わかるのは、父とて、一谷史真とて、つまり一谷史真というものが、そうでない何らかのものになろうとは、できようのないこと。
ぼくは父に一谷史真を期待するしかなく――
――今、父の向かいにいるものというのは、一谷絢人でしかないのだと。
だから、ぼくは――
自己の中で
その
父の
生きられない、こんな高度、こんなにも、酸素の薄い霊峰で、
ぼくは
「もう、いい歳だろ。嘘は吐けるようになった? おべっかは。」
望まない。そんなこと。
これまで一度たりとも――
――そして、これから先、永劫において。
父の答えは簡潔だった。
「ちっとも」
なればこそ、ぼくは十指を巡らせるというのだ。なんとなれば、そこに父がいるから。愛でも情でも、
会いたくなかったのが本音だよ。
そうすれば、弾かずに済んだ。
弾く。月面の物語の
それでも、鳴る音はいつだってそ知らぬふりをする。
――わたしはみだらであり、にこやかでつつましく、きれい、そして、愛のゆくえ――
終わらぬのかと疑うその時は、しかし
無音となったのはわずか。
まず口を開くとしたら、ぼくではない。
「それで。おべっかは使えないがね。」
一谷史真に嘘を吐かせるなど、仮にそれができたとて、そんなこと――
「一般に、正直は美徳だそうだよ。」
求める。どうしてもそうなる。発されるとて、何らぼくを蔑視するではないのだ。いつだって。それはただ、親が子にかける言葉の枠から何ら出ないのであって、まして傷つけようとも。純然に、きっとあんたにとってもかなしい、あんたは逃れられない、一谷史真こそがピアノの終着であるという、たった今紡がれ続ける、歴史にも及ぶ領域に身を置くことから。音だけでなく、発する言葉のひとつさえ。
ぼくもまた、逃れられない。ぼくであることから。
あんたの苦笑いの表情は、あんたにとっても、やはりかなしいな。
「おまえはいつまで経っても、ピアノが下手だな。」
無理を通そうという身で、一等地まで望むなら、さすがに品のないことと
章帆は頭を抱えて、もう何度目か知れぬことを、再度、自らに言い聞かせるように唸った。「確認しなかった私も悪い、確認しなかった私も悪い、確認しなかった私も、悪いわけありますか。こちとら途中参加だっていうんですよ。私が責任もつことですか、これ。持つしかないんでしょうね。私が、イイ音が鳴っていればそれで満足する人種ではないばかりに。」残念ながら、ぼくも央歌も、鳴る音の
「通じないと承知で
章帆はひどく肩を落とした。そのまま崩れ落ちやしないかと、心配になるほど。「何でこんなこと、言わなくちゃいけないんですか。そして、言っても通じないんですか。」そして、恨みがましく、なにやら哀れみまで含まれるような
「いいです。期待するだけ愚かなので、バンド名はリーダーたる私の裁量と責任できちんと考えるので、どうぞ存分に、大好きなオンガクに溺れていてください。あなたたちは。」
都内ながら、好立地とは言い難い場所に〈
春というものの渦中で、章帆はいっぱいに体を伸ばした。「ライヴも決まって、時間も全然ないし、練習
ふと、それが、
ぼくの鼓膜に、ごく微量。
どうして届く。
確かな光彩を帯びて。
「聞こえる。」ぼくだけが足を止め、二三歩遅れて、央歌と章帆が立ち止まった。章帆が
自然に生じる音ではない。
遠くで奏でられる。距離がある。輪郭は
「おかしいだろう。」
「どうして鳴る。どうして聞こえる。こんなことがあってたまるか。あるものか。あるものかよ。どうして、なぜ、どうして! 父の弾くものと
鳴るのなら、あるというのなら、ぼくはここに止まるか、違う、駆けろ、そこへ、神性の
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