Track 006 SOUND WAVES FALL



 無二のピアニストと目されていたというのは、武者修行なるもので姿を消し、キャリアに空白期間ブランクを生じさせるより前からそうだった。無論それで満足しないというのが、そして、本質的に望むものに対してならば、自らした何らのものであれ、歩みのかせになるでなくつゆになるというのが、ぼくの父、一谷いちたに史真しまという男だ。

 貪欲の見本であるとするならば、真心まっしんを射ないまでも、まるで外すということもない。いくら栄誉を浴びたとて、常に不満と言いたげなのであり、腕前ピアノの対価の金銭ならば、それを対外からの評価の証とするなら、つまるところ、からの大海を清水しみずで見たそうとするかのごとくなのだ。

 その結果としての荒稼ぎ、父は都内に豪華な一軒家を立てた。おおよそのところ、完全防音を施した広いリビングが欲しかったのであるから、まして当時、ぼくと父のふたり暮らし、部屋は余るし、リビングに憩いはなく、惨況さんきょうのすさまじいばかりだが、リビングのソファに身を預け、そばで誰かが弾くのなら、ずいぶんと贅沢な空間ではあるかもしれない。鳴る音色を、自らの感性にれることができるのなら。

 いざなわれるという程でもなく、乞われたというよりは乞うために、ぼくののぞむ音楽が正しく形を伴い始めた中、あるいは自らの始点を確認したい心持ちがして、今、その実家へと足を運んだ。旧懐きゅうかいを育むということもなく、また誰に会うでもない。些末に過ぎる衝動を鎮めれば、何を得ずとも、それだけで終わるはずのこと。自分の部屋はすっかりと引き払ったために、弾くための、奏でるためのこの場所を選ぶよりなかった。まったく禁欲的なものだなと見做みなすしかなく、防音に甘えてレコードを聴こうというつもりすら、ここにはないのであるから。

 ぼくがこの空間から逃れてより二年弱、それでまだこのリビングのうちにドラムセットがあるという眼前の景色に、つまらぬ反抗心を覚えたところで。何らかの望ましいものには程遠かったとして、ぼくが心をませていったのだとして、事実、父はぼくの味方であったためししかなく、そも、ドラムセットは父の金で買ったのだ、言い訳のしようもない。いまだドラムセットの世話が行き届いていることで――一年の大半は海外にいる父であれば、家政婦なり何なりがしたことには違いないが、ぼくのはらわたおりに石が投げ込まれても、まさか、憎むことも叶わない。

 だからと、ドラムセットの中心に座さなかったわけではないのだが。

 グランドピアノの、奏者としての、鍵盤からの真正面に座している。全能の十指じっしを巡らせ、白鍵と黒鍵の支配者となることができる唯一の場所、あるいはぼくでなければ、神のに肉迫することすら不可能ではないと、いつかのどこかで、すでに、一谷史真が証明したその場所。

 鍵盤に触れてみて、うものしか感じない。

 おまえを鳴らすためらいなど、とうに擦り切れたよ。

 初恋になりようもなく、待てど暮らせど、もはや、いつまでも再会の風情ふぜいなど味わえそうにもない。少しひねくれてやろうという、即興のピアノ。夜想曲ノクターンであり、そうではない、ぼくの曲。裏側からつくれ、それでなお、夜を思うものであれ。

 月面で会おう。

 今さらおまえと手を取るなら、月の上。夜には違いない。地球ほしを月と見るだけだ。声をかけようにも、すっかり真空じゃないか。でも、わかるだろ。哀れに。しかし、あまりはなはだしくはなく。兎を狩るよりは月の砂をすくい、まさか、それをたった今の命のとしようなんて、まさか。たわむれるように。あたかも月光のように。甘く、そして柔らかく。できる限りに。委ねるのならずっと軽い月の重力の方へ。ることの薄明はくめいにただ寄り添うだけ。繊細に。感傷的センチメンタルに。ずっと。しかし、あまりはなはだしくはなく。あたかも月面に吹く風のように。さあ、ただそこにあれ。そして願わくば、月の上、遙か地上よりの、いずこかの祈りを受けとめるものとなれ。

 願わくば――

 次に拾い上げる情緒を見失う。月面のピアノはちゅうに静止した。音があったからだ。立派に造られた防音の外側、無論家中かちゅうに、ぼくであるから拾えた、ぼくであってもばくたると捉えるしかないもの、程なく堂々と、それはリビングに足を踏み入れた。それもそのはずで、この家のあるじなのであれば。

 一谷史真だ。

 スーツのままの帰宅ならば、まさか散歩に出ていたわけもなく。ダブルのベストを好んでしっかり着込むのは相変わらずで、とはいえ、フォーマルたるものに敬意を払うではない。父からして、仕事着はこれとしているのみなら、乱雑にネクタイをほどくとソファの上に放り、革の鞄は捨てるように床へ、そして考えなしにネクタイを投げたことを悔悟かいごせず、ソファに、ちょうどネクタイの上に腰を下ろした。

 どこかでぼくを一瞥いちべつしたにはしたのだろうが、ぼくの実感としては目を合わせることのないまま、それはぼくを拒むというのでなく、まるでこの瞬間が、さも当然の、昨日の続きとしてあるかのように。ならば言うのだ。何も抑揚を持たないでこそ正しい口振くちぶりで。あたかも、昨日も一昨日も、ぼくがやはりここにいたとでもいうような、父の揺らがなさにおいて。

「弾いていたんじゃないのか。泥棒が来たとでも思ったなら惜しかったな。俺だってたまには家に帰る。続けたらどうだ。」

 それが何か望ましいものをもたらすなんて、夢更ゆめさら

 わかるのは、父とて、一谷史真とて、つまり一谷史真というものが、何らかのものになろうとは、できようのないこと。

 ぼくは父に一谷史真を期待するしかなく――

 ――今、父の向かいにいるものというのは、一谷絢人でしかないのだと。

 だから、ぼくは――

 自己の中で絢人ぼくが募るほどに――

 その絢人オンガクが高鳴るほどに――

 父の神性ピアノから逃れるしかなかった。

 生きられない、こんな高度、こんなにも、酸素の薄い霊峰で、あまかぜを味方に、ためらいなく玲瓏ひびきに、耳を傾けることすら。背叛はいはんと意義づけられるはずもない、ただぼくは、

 ぼくはふたを閉じない。立ち上がらない。確認をした。

「もう、いい歳だろ。嘘は吐けるようになった? おべっかは。」

 望まない。そんなこと。

 これまで一度たりとも――

 ――そして、これから先、永劫において。

 父の答えは簡潔だった。

 なればこそ、ぼくは十指を巡らせるというのだ。なんとなれば、そこに父がいるから。愛でも情でも、つなぐものでもなく、ただただ、抗うことのできない、一谷史真という名をした無窮むきゅうの重力と、一谷史真の指に深くしるされた終極しゅうきょくの尊厳の、際限のない鋳塊ちゅうかい間断かんだんなくくだされて、嫌忌けんきを抱くのは否定できずとも、応えねばならぬのだと、ぼくであればこそなのだろうが、逃亡など、それをおのれに認めることの、まるであたわぬものと。

 会いたくなかったのが本音だよ。

 そうすれば、弾かずに済んだ。

 弾く。月面の物語の顛末てんまつであり、白と黒の、厳密そのものの、静謐せいひつにもっとも正しい、うつくしいせかい。そう、それは、一谷史真にこそふさわしく、一谷史真に辿り着くためにこそ、その命脈を続けてきたと、その原形としてでた頃より、ただただずっと、たったひとりを、神域しんいきに鳴るを奏でられる者を待ち続けていたのだと。幾多のよろこびを伴い、同時に、幾千幾億の奏者の挫折と落魄らくはく、怨嗟をもろともに、人生なるものを泥犂ならくの底まで沈めた、ざんこくなせかい。今、化けの皮を剥ごうというのではないというのに。おまえが許すのはたったひとりだけだよ。おまえは今まで、巧詐こうさを秘め、秘め続け、百年、もう百年、お前を弾く誰にも告げなかった、わたしが待っているのはあなたではない、と。ずっと、ついに待ち人が現れるまで。だとして、それでも――

 それでも、鳴る音はいつだってそ知らぬふりをする。

 ――わたしはみだらであり、にこやかでつつましく、きれい、そして、愛のゆくえ――

 終わらぬのかと疑うその時は、しかし須臾しゅゆに過ぎなくて。

 無音となったのはわずか。

 まず口を開くとしたら、ぼくではない。

「それで。おべっかは使えないがね。」

 婉曲えんきょくな確認で通ずるのは、結局、親子であることを否めないということなのだろう。

 一谷史真に嘘を吐かせるなど、仮にそれができたとて、そんなこと――

「一般に、正直は美徳だそうだよ。」

 求める。どうしてもそうなる。発されるとて、何らぼくを蔑視するではないのだ。いつだって。それはただ、親が子にかける言葉の枠から何ら出ないのであって、まして傷つけようとも。純然に、きっとあんたにとってもかなしい、あんたは逃れられない、一谷史真こそがピアノの終着であるという、たった今紡がれ続ける、歴史にも及ぶ領域に身を置くことから。音だけでなく、発する言葉のひとつさえ。

 ぼくもまた、逃れられない。ぼくであることから。

 あんたの苦笑いの表情は、あんたにとっても、やはりかなしいな。

「おまえはいつまで経っても、ピアノが下手だな。」



 無理を通そうという身で、一等地まで望むなら、さすがに品のないこととそしられるだろう。ライブハウスハコから最寄りの駅まで戻る道は、もはや役を負うかわからぬ商店の並びに住宅が紛れ込んだような中途半端な岐路えだみちで、小流しょうりゅうながら道につかず離れずで川が続く。平日の閑寂かんじゃくのうち、細水さざれみずしのぶ微風まで抜けるのだから、具合の良い日照のもと、季節はぼくたちを大切な生き物として扱った。ではあるが、章帆あきほにとっては、その全てが憤りを加速させるコントラストとしての役割しか果たさぬようで、不満たらたら、よくも、ここまで愚痴を言い募れるものだと、しかしながら、言われるだけのことはしているのだろうと、聞くに徹するのみなのだが。ぼくも、央歌おうかも。

 章帆は頭を抱えて、もう何度目か知れぬことを、再度、自らに言い聞かせるように唸った。「確認しなかった私も悪い、確認しなかった私も悪い、確認しなかった私も、悪いわけありますか。こちとら途中参加だっていうんですよ。私が責任もつことですか、これ。持つしかないんでしょうね。私が、イイ音が鳴っていればそれで満足する人種ではないばかりに。」残念ながら、ぼくも央歌も、鳴る音のほかは気に当たらぬと、その性根は壊滅的に徹底しているのであり。「ライヴの日程まで決まった段階だというのに、なんて、そりゃ向こうのスタッフさんも苦笑を禁じ得ないでしょうよ!」こうも言われて、聞くには聞いても謝罪で応じないのであるから、なにせ、謝罪しようにも、章帆の言うところの人種にとって、それがどれほどの悪事であるか見当がつかぬものなので。

「通じないと承知でく私の徒労に前人未踏の感謝を捧げて欲しいんですが、いいですか、バンド名を覚えて帰ってもらうってだけでも大変なことなんですよ。泡沫のごとくバンドのあふれる中、客の心を刺して、客に重力を及ぼす名刺を用意しなくちゃ、それは音だけじゃだめで、ちっとも成り立たないんです。バンドを具現するような名前があってこそ!」

 章帆はひどく肩を落とした。そのまま崩れ落ちやしないかと、心配になるほど。「何でこんなこと、言わなくちゃいけないんですか。そして、言っても通じないんですか。」そして、恨みがましく、なにやら哀れみまで含まれるようなめつけようで、ぼくを貶めることに余念がない。「糸原サン、絢人あやとクンのことをオンガクの奴隷って言ってましたけど、大嘘、奴隷だってもう少し頭を働かせます。生きるために必死に。」言われて仕方ないにせよ、いささか不満が残る。「なぜぼくだけ狙い打ち。央歌は。」章帆はぼくの顔を覗き込み、瞳をかち合わせた。怒りを持て余しても、その瞳が愛らしいことに変わりない。「絢人クンはもうひとつ、猛省してほしいからです。ライブに向けては、SO LONG, MAGGIEは決定として、残りは既存の曲を手直しするだけって話がついていたのに、いったいどういう錯乱で三日三晩ほとんどぶっ通し、新曲五曲も作詞作曲するわけですか。体調管理とかそういうものは。」ぼくとしては、素っ気なく言うしかなかった。「嫌いなやつに会ってしまったから、憂さ晴らしに書いた。」章帆はぼくを救えない者として見て、「普通、ごく一般的には、ドラマーの憂さ晴らしってドラムを叩くことなんです。絢人クン、さっさとドラムやめません?」として呆れ返り、ついには話を締め括ることにしたようだった。

「いいです。期待するだけ愚かなので、バンド名はリーダーたる私の裁量と責任できちんと考えるので、どうぞ存分に、大好きなオンガクに溺れていてください。あなたたちは。」

 都内ながら、好立地とは言い難い場所に〈Arthur's NYCアーサーのニューヨーク〉というライブハウスハコがあって、それは今、ぼくたちの初ライブの場所としてあった。相変わらずの人脈が金脈であるかのごとくの糸原がオーナーと懇意にしている背景もあり、すでに出演者の決まっていた夜に強引に割り込むことが許され、ぼくらはライブまでの日程を早め、逆にぼくたちは、〈Arthur's NYC〉を当面の本拠地ホームグラウンドとするというのが交渉の結果――章帆と糸原の手柄、だった。今は直接、デモ音源と共にA's NYCに赴き、最終的なOKを頂戴した帰りだ。

 春というものの渦中で、章帆はいっぱいに体を伸ばした。「ライヴも決まって、時間も全然ないし、練習三昧ざんまい極まれりですねえ。いやはや清々しい。」先の苦々しさは霧散して、章帆は心よりそれを歓迎している様子だった。新曲の譜面、ぼくは章帆の力量を承知のため、高い水準の、より正確に言えば要求をしたはずだが――打ち込みとは違う、譜面での曲の自由は、奏者の技術レベルに左右される、それで臆するなど微塵も、ただ弾ける楽しみを待っていた。根っからの奏者プレイヤーというのは章帆のような人間を指すのだろうか。

 ふと、が、

 ぼくの鼓膜に、ごく微量。

 沙塵埃ナノレベルの、

 どうして届く。

 確かな光彩を帯びて。

「聞こえる。」ぼくだけが足を止め、二三歩遅れて、央歌と章帆が立ち止まった。章帆がいぶかしむ。「小鳥の一羽も鳴いちゃいませんけど。」央歌はぼくの聴力をよく理解している。だから黙っている。「聞こえるんだ。」ぼくは繰り返すのみだった。

 

 ごえ

 遠くで奏でられる。距離がある。輪郭はぼうたるものとしてあっても、芯は捉えられる。切り裂いてひらくもの。だ。これはエレキギターの音色だ。

「おかしいだろう。」

 戦慄わななく。悪心おしんさえも湧く。鳴る、通途つうずの路上に、いずこか、聖庇せいひの場所を示すように、鳴る。認められるか、認めなければならなないか。そうだろうさ、こんな慮外りょがい、どんな悪夢でさえ思い描きはしない。ぬすみに差すアカツキ。ぼくは自己への背戻はいれいを求められるというのだ、なんとなれば、そうでなければ、至極しごく端的な事実さえ口にすることが適わない。

 同質おなじだ。

。あるものか。。どうして、なぜ、! 同質おなじに、神域そこから鳴らす。。」

 鳴るのなら、あるというのなら、ぼくはここに止まるか、違う、駆けろ、そこへ、神性の爆心ありかへ。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る