Track 005 WHAT SUNLIGHT IS THAT?



 行いを省みず、是非の有無を問わず、望む世界オンガクだけを必死に創りあげようとして、ぼくは満足しているのだろうか。いつか満足するべく、なのか、ぼくが矮星わいせいであるがゆえの、それでも光を持つことの、せめてもの肯定のため、はたまた逃げ筋か。結局ははどうでもよくなる。結実たるものが鳴ってくれさえすれば。

 ――『正直に感想を言わせるか、そうでなければ何も聞くな。俺には。』

 あきらかな重しとしてあるもの。もし愚かにも感想を求めるとして、それはぼくの弾くピアノでなく、満遍まんべんなく望み通りと成ったものに対してであってほしいのか。それが、今組み上げようとしているものであるというのか。聞かせると。まさか。どうあれ、嘘吐きであってくれと思ったことは一度もない。

 いつどこでなぜ、鳴らすだけで我慢できなくなったろうか。

 中学の半ば、長らく蒸発していた父親がふらりと戻ってきて、少なくともぼくは、小学生であった時分、一度も父を見ていないわけだが、父いわく、各地を転々として無名のピアニストとして武者修行をしていたということらしい――八〇年代エイティーズ九〇年代ナインティーズのピアノ・マンだな、流浪の、歌は披露しなかったがね、と、珍しく冗談めいたことを言ったので、おそらく本当なのだろう、問題は、父がいなかった期間の方だ、傑物けつぶつたる夫を失った形になった母は、せめて才能の分野だけでも、ぼくに代役を求めようとした。自らの夫たるものが、誰が何人たばになってかかってもろくな埋め草にならない天才であると誰より承知していたろうに、あるいは血を継いだ息子であることに一縷いちるを見出したのか。

 つまり母はぼくを父と並ぶ、あるいは上を行く音楽家に育てようとひたすらに努力を重ねたのだが、ぼくがどう応じたところで、少々の才能は発揮しても、音楽の神様からはなしのつぶて。そも、その期間のことを、ぼくは細かく覚えていないのだ。戻るなり母に離婚を突きつけた父が、いくら有能な弁護士を雇ったのだとしても、容易に親権が奪えたあたり、推して知るべしというところなのではあるが。

 ただ、ひとつ言い添えておくのならば、だ。

 ぼくはあの時、あの日々の中で、確かに願っていた。

 、と。

 みっつめ、硬貨と引き換えに、自販機の外へと落下を許された缶を手に取る。行儀良く一本ずつ取り出していたのだから、詰まるなどということはないが、それでも物言いはついた。「間違ってるぞ。」すぐ後ろのカウンター内からかけられた、馴染みのある厚い声は、なるほどぼくは考えごとをしていたのだとぼくに思い至らせた。

最上もがみサン、」

 自販機のコーナーは、申しわけ程度のテーブルと丸椅子スツールを挟んで、カウンターの正面だ。最上サンはカウンターのうちに立ち、肘をついてほのかににやけている。失態を笑われたのかといえば、この人は、見知った人と接している時はおおよそ機嫌がいい。後ろに整理されて置かれた機材が、背景として、ひどく似合って見えた。

 最上サンは遡れば少年野球の四番だそうなのだが、確かにその無骨な顔つきは、そうと言われたほうが納得できる。当時、捕手をしていたのは、体格に恵まれているからではなく、気配りに長けていたから。とはいえ有為転変ういてんぺんの果て、今では青く染めた刺々とげとげしい髪と、複数のピアス、気配りはなおも健在だが、初対面で親切な青年と見抜くのは難しいだろう。

 最上サンはぼくに向かって手のひらを広げた。「飲み物の買い出し、おおいにけっこう。ウカのやつ、四回に三回はグーを出すぞ。出したか、これ。」ウカというのは央歌おうかのことで、その話を事前に聞いていたら、そのようにしていたよ。「さて、ウカが飲むなら水だろうよ。あるいは、これも覚えとけ、よっぽど極めて例外的に機嫌がいい時はココアだぞ。俺ですら二回しか見たことねえけど。俺の目にはそれ、三本とも缶コーヒーに見えるけどよ、の悪い博打ばくちじゃねえかなあ。」

 言わずもがな。賭けならばきっと胴元の総取りだ。最上サン相手に警戒しようとは、たとえそう思っても難しく、ぼくとしては、おどけてみせるしかなかった。

「もしぼくが、殊勝で賢明な後輩とすると、このうちの一本は最上サンへの差し入れだという推理が成り立ちませんか。陪審ばいしんのみなさんにも、よく考えてほしい。央歌へ渡す飲み物は、今まさにこれから買うところだったんです。」

 どうせなら小芝居も入れてみたものだが、なにせこんな場所で、演奏プレイの音はいくらも漏れ聞こえるものの、ロビーに客はおらず、陪審になり得るのはテーブルの上の灰皿くらいか。最上サンはといえば、ゆるりとしたにやつきを変化させなかった。

「俺さ、コーヒーだめなんだわ。」

 一瞬、どきりとするのだが、それはあまりにも真面目に真っ直ぐ言われたからなのであって、こういうところが特に、人好きのする男というのだ。「偽証っていいの。出勤する前にさ、このビルの一階の喫茶店で、決まってコーヒー飲むんでしょ。」結局、何を言ったところで返ってくる言葉でこちらが柔らかくされると、思い知ってはいるのだが。「おいおい、裁判ごっこに正義の履行は要らねえぞ。余り物を押しつけることを差し入れっつーのも尊重しただろよ。ま、コーヒーは仕事前にもう飲んだぞ。賢明はたぶん死ぬまで無理だろうけどよ、殊勝ってほうは今後の成長に期待だな。」などという話にすり替わってしまうので、ぼくは小銭の確認をすることになる。面倒だ。ココアを二本買って片をつける。

 たまたま足りた小銭で買ったココアのうちの一本をカウンターに置いて、しかし今日、先程の合わせを経たうえで、都合のいい巡り合わせ、最上サンに聞きたいことができていて、すぐにスタジオには戻らず、立ち止まった。お互い、同じく知っていることは多い、前置きは抜いた。

「今さら尋ねるのも変だけど、最上サンさ、なんで央歌を部長に据えたの。根回しまでしたっていうじゃない。そりゃそうだ、あの性格、単なる人気投票なら、部長なんて絶対なれない。」

 ぼくが軽音部に入った時、つまりは高校一年の時、部長は最上サンだった。そして最上サンの引退に際して、新たに部長にいたのは央歌だった。実力は折り紙付き、まったく誰もが認めるところ、ただ、人間性を問う声はあった。その頃より、央歌は央歌でしかなかったので。もっとも、人当たりこそよくないにせよ、部長という役そのものについては、央歌は見事におおせたのだが。ちなみにぼくは逆の根回しをした。前例に則り、央歌がぼくを部長に推挙してしまわないように。

 最上サンは、カウンターのうちから手を伸ばし、いまだぼくの腕にあるココアの缶、つまりは央歌のそれに、自らの缶を当てた。間接的な乾杯のつもりなのか、「ずいぶん遅れたがよ、一年間、部長お疲れさん。」と言い添えて。ココアの缶と缶がぶつかった一点に注ぐ瞳で、遠くを見る目つき。春夏秋冬ひととせ、その一周だけ、三人は時を同じくして、ぼくは央歌の卒業後、独り暮らしを始めた央歌のところに転がり込んだが、その時にはすっかり、最上サンは道をたがえていたのだと、ふと思われた。

 脈絡なく、最上サンが口にしたこと。

「――LOOK FOR DIFFER SUN」

 違う太陽を探して。

「まさか忘れちゃいないだろうな。おい。今も昔も、俺は音楽バンドやってんだ。先輩不幸のお前らは、うちのライブ来ねえけど。ずっと思ってることがあるんだよ、矜持きょうじってわけでもねえけど、自分の中核コアな。つまりさ、とお一遍いっぺんのお天道様てんとうさまじゃなくてな。俺はじゃない、違う太陽を探してる。だから弾いてるし歌ってる、そんなふうに。ずっと、今だって。楽器のどこかに書いてある、LOOK FOR DIFFER SUN――」

 まさかここで茶々を入れるほど、愚昧ぐまいな後輩ではないつもりだ。

央歌あいつはそういうんじゃなかった。探してはいなかった。。あの時、とっくに違う太陽の光のもとで、照らされて、なおにくむように歌っていたよ。」



 スタジオの厚いドアをきしませ、抜けて、閉ざされる重い音を確認して後、買ってきた飲み物を央歌と章帆あきほに手渡した。練乳入りのコーヒー――できるだけ甘いコーヒーと望んでいた、章帆は申し分ないというふうで、ココアを手渡された央歌は、あからさまに渋面じゅうめんをつくったものの、文句は言わず、黙ってプルタブを開けた。自販機に出戻る必要はなさそうで、ぼくもまた、無糖の缶を開けた。

 飲み物を手にしてひとつ気が抜けたのか、行儀悪く、章帆は床に座り込んだ。たけの長くないスカートのはずが、わずかにもおかまいなし。気持ちはわかる。たった一曲を合わせただけとは、ぼくも思えない。深奥おくの消耗の度合いからして。口に入れた糖分で心を震わせたのかどうか、立ち上がることこそなかったが、章帆が口火を切った。疲れはあれ平静ではある、しかし、通奏低音つうそうていおんとしての憤懣ふんまんが、においやかに絶えぬものとして。

「このバンドはやるつもりです。というよりやります。そこはご心配なく。」

 もっとも大事なところ、どうしても得たいと切に願ったもの。もうぼくにとって、まるで刺激としての役を負うではないもの、いろのない事実の確認。さっきり終えた音のほうが、何もかもにとって、醒めやらぬものとして、ぼくを支配する。

 章帆の声音はいっそうに澄み、その声調からこぼれたものにこそ、心奥しんおうの匂いが漂った。

「組む相手を間違えたなというのは、もうわかりすぎるほどに、それはそうです。まったくもって、ですね。このイキモノ、ですから。」

 無論ながら真剣に応じる話であることは明白で、まして章帆はバンドへの加入をたった今、確言したのであるから、すでにして一員メンバーなのだ。章帆の言うところの、の。「おかしいとは?」ぼくは端的に問うた。章帆は何ら悩むことなく、明々白々なこととして言った。「根底からという意味です。だからイキモノ、それも奇怪な。確かに絢人あやとクンは、いっそ壮絶なほどに凄いドラムを叩きますよ。もっとも、十年以上ずっとドラムを叩き続けてきた、というような人の打音ドラムではないですね。でもそれは、これだけの腕前で、減点になんてなりようがない。だとして、ですよ、もともと、バンドの人じゃないんですよ。。」ここでも聞くことになるとは。苦笑をしたいところ、章帆のことを立てて、こらえた。

 大事な証言であることには違いなく、「バンドなんて無理と、糸原いとはらさんにも言われたな。」とは口を挟んだ。「糸原サン、誠実ですからね。そりゃあ、言うでしょう。ずっと譜面を見ていたらなおさら。それきっと、人間的な個性の部分だけじゃないですよ。譜面を見ておかしいなって、私も思いましたが、実際に合わせて聞いてみたら、何もおかしくない。おかしくないんですよね、理解のできないことに。」章帆は甘すぎるコーヒーをひと口飲み、合いの手を待たずに続けた。「まるでわからない。この曲はマイナーコードしか使っていない。だから当然、根暗な音になるはずなのに、全然ちっとも、そんなの欠片かけらもなくて、むしろポジティブにしか聞こえなくてですね、そんなの完全に作曲にやられてる人の発想だし、しかも実現できています。見事に。奏者プレイヤーには向いていないというか、いえ、むしろ――」

 これほど明確な死刑宣告というのも、なかったろう。

「絢人クン、あなたは作曲家クリエイターなんです。それも、誰にも到達できない高みにまで達しうるかもしれない、天性の。なぜ奏者プレイヤーにこだわる――いえ、呪われているんですか。」

 

 どうして。

 にんげんは神さまにはなれないよ。

 でも、

 弾きたいな。

 

 それを呪いというなら、きっとそうだ。

 ぼくから返る言葉は期待していなかったのか、章帆は矛先ほこさきを央歌へと転じた。「央歌ちゃんは央歌ちゃんで、やっぱり、。間違いなく最高の歌声のどを持っている。それは否定しません。でも、はっきり言っていいですか、バンドの中で響かせるのは、何に対してのものかは知れませんけどね、冒涜です。」そろそろ章帆は、合間にコーヒーを飲むことも忘れてきている様子だった。「誰かと融和できる歌じゃないんですよ。手を取る気もないのに、というより、取れないのに。央歌ちゃんってソロでやるしかない人なんです。本当は。バックを従えてサウンドに君臨するしかないって。わかりますか、。」央歌はココアをぐいと飲んだ。そこに渋い表情はなく、よっぽど、ココアを歓迎する心持ちになったようだった。「結論を言いますと、確かに曲は成立して、合わせはしましたが、根本から過ちなのであって、始める前から破綻してるんですよ、このバンドは。」

 章帆は緊張を解き、深くため息を吐いた。そんなこともわからないでバンドをやろうとしていたのか、そう言いたげだった。続く言葉はなく、弁明も求めない、もはや一員であるのであれば、追ってろくなことにならないととうに知るはずで、事実、ここで話を切ったとて、そうなった。

 座りこんだままの章帆のそば、アンプの上に広がった譜面の隣に、メモを書き入れるためのペンが転がっていることをちょうどいいと見てとったらしい央歌が、歩み寄り、そのペンで譜面の余白に何やら書き入れた。

「これ、あたしのPHSピッチの番号。本気で惚れたらかけてきて。デートくらいしてあげる。ホテルも可。バンドに繋ぎ止めておきたいから。」

 演奏というよりはその後の長広舌ちょうこうぜつに対して、章帆のことを気に入ったのだろう。元来、央歌は自らの音楽のためなら厭わない女ではあるが、ここまでゆるそうというのは、これまで、ぼくに対してそうするほかに知らない。すっくと立ち上がった章帆は声を荒げつつ、その番号を、さっそく自らの携帯に登録していた。「ああもう、人として最低だと思いませんか。まるで思わないんでしょうね。そういうの、嫌いじゃないわけですよ、ちっとも!」どうも、ずいぶんと難儀な好みをしているらしいとはわかった。

「弾くんだろ?」

 ぼく問う。やはり、ろくなことは導かない。で道理を尽くそうなどとすれば。

。奇怪なイキモノだから何。ぼくはぼくが求める音をステージでりたいのであって、天職に就きたいわけでも、呪いを解きたいわけでもないんだよ。今ぼくにとって大事なのは章帆のベースがどうしても必要だとわかったということであって、違うだろ、弾くんだろ、なら、他に何が要る。」

 あまりにもぼくらがぼくらであるためなのか、もはや、章帆は朗らかに笑うしかないというふうなのだ。きみもたいしたたまだよ。その身のこなしで、軽やかに、するりと入り込み、もうそこにいる。バンドではない何らかのもの、そんなのひとりに、まるで鮮やかに乗り入れる。

「すごく要ります。絢人クンとの本気マジデート。性交渉付き。」

 ぼくが何かを言うより先に、章帆の恋路には邪魔が入った。

「二股かけようってなら、見えないとこでやって。」

 央歌は残りのココアをあおった。やはり、すじとして甘みの色があごへ向けて伝う。やはりまた残りを呷り、こちらは景気づけとしてあるようで、飲み干してから、章帆は勢い込んで、ぼくと央歌に力強く宣言した。

「ふたりが何を言おうと思おうと、そんなの一切合切いっさいがっさい全部無視で、いいですか、このバンドのリーダーは私がやりますからね。問答無用とはこのことですよ。だって、このバンドの中で正気を保つって苦行ができるの、私だけじゃないですか。」




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