Track 003 MAYBE RIGHT MISTAKE



 店内の有線がヒットチャート常連のロックバンドの楽曲を吐き出し始めた。このご時世、国内売上トップテンの閾値しきいちを超えていくのなら、けるCDの枚数はすなわち少なくとも一〇万、あるいは一〇〇万ミリオン、すっかり世紀末1999年だとぼくは思う。泉井いずみい宇月うつきだっていくつかは一桁ひとけた順位に着地するのだから、ぼくもにわかによくしているわけだが、泡沫バブルだ。

 芦崎あしざき章帆あきほは約束の時間、十五時きっかりに現れた。ベースを入れているのであろう黒のソフトケースを背負い、いかにもそれに慣れきっていると、人の少なくはなく、ゆとりもさして与えられていない店内を、まるで軽やかに、Sサイズの爽健美茶を片手に。二階に上るまでの狭い階段をスキップしてきただろうか、そんなことさえ思わされた。

 こちらが使い慣れている場所スタジオへ呼ぶ関係で、待ち合わせは池袋、駅近くの混雑したマックとなった。芦崎章帆はぼくらの目の前まで来るなり、今ここで外こそ見なかったわけだが、恨めしく渋い表情を、しかし光のある精彩の顔つきで、こちらへ向けた。

「サンシャイン水族館を遠くに拝むだけってのは、なんとも寂しいものですけどねえ。こんにちは。好きなんですよ、あそこのいわしを見るのが。大変に地味じゃないですか。」

 三日前、ライヴの終わった後のわずかな時間ながら、すでに顔を合わせているのであれば、迷うことなく、芦崎章帆はぼくと央歌おうかの並んで座る向かいに着席した。今日は央歌もギターを抱えていたのだから、四人掛けの席は狭苦しく感じられた。今日の待ち合わせについて電話でやりとりをした際も、芦崎章帆は水族館のことを口にしていたのだが、ずいぶんいわしにご執心のようなのではあるが、出費の行き先は、安くマックで済ませたうえで、練習スタジオを借りる代金の割り勘だ。

 明るいオレンジに染められた芦崎章帆のミディアムの髪は、先日会った時はウェーブがかかっていたはずだが、今日は真っ直ぐな流れを成していた。巻かれたというのは、舞台ステージ上の洒落しゃれだったのだろう。前髪のみ、その左半分が、紺色のメッシュとしてった、悪びれない主張とともに。芦崎章帆は、化粧っ気の感じられないくちびるで、ストローをくわえた。

 央歌は少しばかり化粧をしたようではあるが、三者三様ながら、身なりに熱意は感じられなかった。というより、普段の装いにかけられる金のゆとりも気骨のゆとりもないとするべきか。なにがしか、以前の活動の流用なのであろう、芦崎章帆のいかにも安い生地である紺のジャケットと、涓内けんだい高校ギター部というロゴの入った白のTシャツ、央歌は、色取りを考慮した時に着られぬ服が生まれないようにと黒尽くろずくめなのであり、ぼくの履いている本革のズボンはそれなりの値がするのではあるが、上に着ている白のタートルネックは本来、央歌が仕事先に着ていくものだ。

 央歌はコーラを頼んでいて、何か珍妙なことが起きた心持ちでいたのだが、話をする段になって、Sサイズのそれを、ぼくの側に押しやった。なるほど、飲むつもりで買ったのではないらしい。ぼくは烏龍茶をMサイズで頼むべきではなかった。

「改めて、初めまして。あたし、末森すえもり央歌。こいつと組んでヴォーカルやってる。高校同じなの。二十歳のフリーター。よろしく。」ぼくは人と人とのつながりというものに不得手で、それは得意でないというより、興味を覚えないとするべきだが、とにかく折衝せっしょうになど向いておらず、央歌に役が回るのであり、であればこそ、目の前にふたつのドリンクが置かれている。とはいえ、口を開かないというわけにもいかない。「一谷いちたに絢人あやと。十九歳で、央歌の後輩。今は無職。」と、ならって続いたつもりが、央歌は良しとしなかった。「無職って何。違うでしょ。プロの音楽家ミュージシャンに楽曲を提供してる作曲家でしょ。ゴメンね、契約上の問題で詳しく言えないだけなの。」不本意な他己紹介ではあったが、嘘をついているとしたらぼくの言い分のほうなので、口をつぐんだ。得心いったという気配を滲ませつつ、若干、身を乗り出すようになったのが芦崎章帆だった。

「やっぱりすごぉい。糸原いとはらサンのいつにない猛烈プッシュいただいてたので、何かあるんだろうなとは思ってましたけど。つまりギョーカイの人ってことじゃないですかぁ。なるなる、了解です。」

「ちなみに糸原さん、何て。」

 尋ねるのも愚かではあるが、何を吹き込まれているか知れないというのも愉快ではない。

「あはっ、そのように聞かれたら、俺に直接聞け、と答えろと。」

 芦崎章帆の言うままに糸原に連絡を取れば、結局ははぐらかされるか、仮に答えが得られたとしても、どうあれぼくに対して何度も連絡をすることは避け、しかし仕事の話ができるわけだ。

 身をいくらか戻し、少しドリンクを飲んで舌を湿らせてから、芦崎章帆は話を戻した。「私の番ですね。芦崎章帆――これはもうご存じですね。二十二歳で大学生やってますけど、バイト三昧ざんまいバンド三昧で、大学は中退が予定調和な感じですねえ。」苦笑は浮かべるものの、そこに深刻さは感じ取れない。踏み入ったことを聞いても仕方ない。央歌は少々、ばつが悪そうにしていた。「年上なのにタメで話しちゃってたね。」まあ、高校ギター部のTシャツを着ていて、二十二であることを思えというのも無理がある。

「バンド、辞めたがってるって聞いたけど。」

 先を取って央歌の話を止めたのは、話を直通で済ませたかったからであり、取りも直さず、音楽の話をしたかったからだった。

 芦崎章帆は快活にひとつ笑った。鳴らす音色と人格が必ずしも一致しないところ。それでもどこか通ずる幼心ピュアネス

「それ厳密には正しくなくてですね、糸原サンも大概おしゃべりなわりに正確を期さないから困りますよね。今さら私に風聞ふうぶんがどうのこうの気を遣うことないの知ってるはずなんですが、とにかく絢人クンが大のお気に入りなんだなあってことはわかりますけどね。まあ私は助かりましたが。抜けた後のアテなんてなかったし。」ひとつ、芦崎章帆は息を継いだ。「私、問題児なので、バンドを転々としてまして、でも糸原サンが言うには、絢人クンはそんなの関係ないオンガクの奴隷だから、私のベースが鳴ってればそれで満足するよってことらしいですけど。」

「結局、問題児って?」

 話が要領を得なかったので、ぼくは端的に聞いた。演奏技術にけちをつけるところは始めからないのであるし。央歌は口を挟まないことで続きを促し、芦崎章帆は特にためらうふうでなく問いを受けた。

「私、恋愛体質なんですよ。かなりすごく。バンドやるにはかなり御法度ごはっとの部類じゃないですか、恋って。私、両性愛者バイセクシュアルなんで、男女関係なくかまわず懲りずにバンド内恋愛を繰り返して、それでいて飽きっぽいから、長続きもしなくて、捨てちゃって、つまり〈イノリの爪痕〉でも同じ過ちを繰り返してしまったわけで、バンド内、大変にぎすぎすしちゃってですね、当然ながら、批難を囂々ごうごうと受けるべきなのは私であるのは重々承知なんですけど、」何をどう思ったものか、咄嗟とっさに糖分が欲しくなったのか、芦崎章帆は飲まれぬと知れたコーラに手を伸ばし、ストローを爽健美茶のものから差し替え、口をつけた。「あの人たち、なんてものを本気で信じてるから、辞めさせられるというのが正解ですよ。私の後任探し、もうやってますし。」

 ぼくにとっては物怪もっけの幸いとでも思うほかなく、あれだけのベースが、本人の意向にかかわらず、脱退は確定的というのだ。行く宛てもないのだという。気のゆとりが、ぼくの口から軽口を出させた。

「それじゃあ、芦崎サンは、バンドの和なんてものは信じちゃいないわけだ。」

 糖分が欲しくなった。もともとはぼくに押しつけられていたはずのコーラを、無造作に向かいから奪い返した。ストローはそのまま、舌を湿らせ、安っぽい甘みが口内に滲みていくところ、芦崎章帆はどうやら居心地が悪くないふうだった。「章帆って呼んでいいですよ。」と、前置きのうえで言った。微笑みとともに。

「仲良しこよしでイイ音が鳴るなんて発想、サンタを信じてるコドモみたいじゃないですか。」

 言い切っていた。ぼくはその物言いをまさに、気に入るしかなかった。

「いいよ。」

 僕は央歌の意見も聞かずに決していた。気づけばぼくが先んじて話を進めているていで、珍しいものを引き出された心持ちでいた。何らの嘘ということはなく、つまりはぼくがままになりたいものは何かという話。「こちらは大歓迎、あとは章帆の気持ちひとつだ。問題なんてない。糸原さん、人選は正しいな。」ぼくの待遇が特別なのは確かなのだろうが、章帆とて糸原から殊更ことさらの期待と配慮を受けているのだろうと思われた。そうでなければこの引き合わせはないだろう。

 どうやら、ぼくの手元に戻ったコーラを奪い返される気配はない様子だった。コーラに差し替えてしまったまま、自分のストローを失った章帆は、特に文句を言うでなく、余っているストローを差すでなく、自分のドリンクからプラスチックのふたを外していた。

「あのですね、これ長年の恋愛体質の直感でもうわかるんですけど、かなりダイレクトに当たりと言いますか、絢人クンのことも央歌ちゃんのこともきっと好きですよ。いつ本気マジに惚れられるかわかんないですよ。そんな爆弾、喜んで抱えますか。」

 ぼくはといえば、章帆の話はもう半分も聞いていなかった。章帆のベースをいかにして打ち壊すのか、ただそのことを考え、むばかりでいた。限りない馳騁ちていを尽くす艶気つやけのある地殻を破り、その堅牢な不自由の低音を露塵つゆちりにしてしまい、どのように、これまで無傷にあったその頸動脈けいどうみゃくの奥深くに切っ先を突き立てるのか。らぬていでいたはずの大地に、千本ちもとに。

 やわたおれるなどない。

 そうだろう。

 ぼくもだ。

 ぼくのスネアを、タムを、バスドラムを、純乎じゅんこたる揺るぎない低音からの支配を穿ぐものとする試みを、その天性の軽やかさで掻い潜って、章帆のベースはサウンドの暴威の中、果たしてなかにに至るとも――ぼくのドラムを破壊することを思え。ただ無辜ひたすらのものとして。存在してはいけないものがそこにはある。叶えてはいけない恋のつまがある。軍場そこに立てばわかるさ、。刃に掛けることを臆して残れはしないと。るだろう。好きなだけ喰らえよ。全て望み通りだろう、壊れない玩具を貪れよ。

 結論が明らかなのであれば、もはやここで、不要な言葉ばかりだというのだ。

「サンタなんていないだろ。」

 ただそうと言うだけで、話は行き着いていた。




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