Track 002 RULER JUMPS OVER



 下北沢シモキタの雑多な街が性に合うか合わないかと言えば、そう、例えば池袋よりは、聞こえる音は興趣のうえで優る。夜はこれからのところ、その雑踏の中で、雨催あまもよいであった空は、ぽつりぽつりと雨滴を落としだした。傘を差すほどもないような降雨、雨音など聞こえはしないだろう、まして聞き分けることなどないだろう、この場においては、おそらく、ぼくを除く誰かであれば。

 音のカクテル、どこに意識を向ければ和音になるか、いずれであれば不協となるか、明かりのともった街の中、人待ち顔の仕草でいれば、やっと肩を叩かれた。「ごめん。お待たせ。」急ぎ足で来た者の吐息、それはもちろん央歌おうかだって、明白な遅刻となれば素直に謝罪の言葉が出るというものだが、生憎あいにく、ぼくは自分が遅れることは忌避しても、相手が遅れることには頓着しない。

 央歌は白のニットと黒のミニスカート、タイツ、革靴という装いで、少々のかかとさえあれば並みの身長であるぼくは央歌に越されるのだが、今日ここでは、ライブハウスハコの看板の前、互いの目線は同列にあった。糸原から電話を受けてすぐ翌日、〈イノリの爪痕〉のライヴがあるというので、ぼくは作曲バンドのほうを中途で切り上げ、央歌はスーパーでのレジ打ちの仕事を上がってのち、下北沢シモキタに直接来た。踵はともかく、白のニットなんぞは柄ではないのだろうが、央歌の十八番おはこは、、だ。

 地下に降りる階段のそば、コルクボード上に示された出演バンドのラインアップを見やる。今さらついでのように確認したが、やはり〈イノリの爪痕〉の出番は最後トリだ。実力と人気を認められた証は、額縁の中ではなくてタイムテーブルにある。なおさら、央歌が気に病むことはなかった。

「入ればわかる。ぼくにとってベストなタイミングだったか、あるいは、もう少し遅れてくれたほうがよかったのか。今夜はワンマンじゃない、他の下手なバンドに興味なんてあるものか。」

 使えるものは使えの精神で、〈イノリの爪痕〉の客としてのチケットは支払い済みの取り置き、地下まで降り、名前を告げるだけで入場を果たせた。糸原が目を付けているというのであれば、その人脈コネを使うまでのことだった。糸原は要らない世話のお返しだと、大層に吹聴したらしい、今の自分があるのは彼のおかげだとか何だとか、なるほど、不愉快だ。

 ライブハウスハコのキャパは立ち見スタンディングで一七〇で、それを埋め尽くす客入りの海ができているのではないにせよ、ただのアマチュアの領域で使える規模ではない。聞けば下北沢シモキタにあるインディーズのレーベルが主催するものであるという。〈イノリの爪痕〉は音源をリリースしていない。糸原によれば、唾を付けようとしているところはあるが、交渉は難航中と。主催イベントで最後トリを務めて、今後、まったくの無関係とは思われまいが。

「少なくとも、遅くなったことをぼくに詫びる必要はないらしい。」

 ぐなえだの重なりゆく投光。ライト。ステージは華美な色彩を浴びる。光と音、目と耳、生物の根源を叩く原始的な手法アプローチ。それが間違いのないものであったとしても、だ、央歌はあと三分、遅れてくるほうがよかった。

 フロアとの落差が思いのほか低いステージ、隔てる柵もないというので、熱を込められそうなつくりで、ぼくの琴線きんせんにはまるで触れないにせよ、二十名弱の聴衆オーディエンスは前線で大いに揺らされてはいたのだが、あるいは余計な三分に意味を見出すとするなら、むしろ後方、紺のリボンを服や髪などどこかしらに巻いた客が数十名、危なげないコード進行が耳殻を揺らす場所での異質として、冷ややかな瞳をステージに向けているのを確認できたことだろう。だとして――

 ――それが排他のつもりなら、きっとかわいいばかりなんだろう。

 何の殺戮も行われないショウに、街の雑踏に向く階段を戻りたくなるも、ドリンクチケットと引き換えに得た烏龍茶を喉に流し込んでごまかした。これも奢りだ。だれの財布が痛んだものかはしれないが。あまりに勢いよくいってしまったものだから、央歌が持て余していたチケットを奪った。どうせ、央歌が飲みたがるなら水だろう。

 三分余り、二杯目の、せめてもの烏龍茶カフェイン、結果から言えば上々の部類、最後の一曲を終えて賑やかしが退けば、ようやく今宵の主人公ヒロイン。フロアの最前列に陣取っていた客が譲ると、〈イノリの爪痕〉の客であると思しき、紺のリボンを付けた集団が、整然たる濁流として前へ、また前へと押し寄せた。紺のリボンは何らかの符号のようなものなのだろうが、それの意味するところが仲間意識や連帯感といったものなら、そうさ、ぼくはつまらない。

 生み出すつもりなのか?

 狂瀾きょうらんの舞台で?

 奪い合うのではなく?

 音楽は略奪行為にはならないか、なるとしたらそれをやらないのか。イノチを奪い合うことの罪は、ここであればこそみちを逸れないのではないか。その紺色のしるしは、それが示すのは仲間ではなく共犯者であるということで、罪の共有の作法ルールで、そしてまた、自らのイノチがられることを容認するものと、呆気あっけなく裏切られることを確信しながらも、僕は密かに、紺のリボンの面々に期待した。「絢人あやとは幼稚園のお遊戯会にでも行けば。そのほうが変な期待も持たず、無心に楽しめるだろうから。」ぼくの難しい気を悟られたのか、隣で央歌がそっけなく言った。間違いのない正解だな。ここにいるべきじゃないのはぼくだ。

 そでから〈イノリの爪痕〉のメンバーがそろって現れただけで、聴衆オーディエンスは素直に湧いた。五人編成のガールズロックバンド、メンバーそれぞれ紺のリボンを付けているのが見てとれる、ファンはそれに倣うようになったのだろうか、ヴォーカル、ギターがふたり、ベースとドラム、標準的オーソドックスな構成。きらめいていく、光に交錯して手が振られて、客の声が期待を預けて、予期される紅潮、裏切らないはずの、そして――

 ぼくはすっかり面倒だ。

 目を瞑る。

 ヴォーカルはMCを入れず、すぐにドラムがカウントを取った。それを撃鉄うちがねとして、ステージは、バンドは生命をともす。一夜限りの航海が始まる。嵐にこそ舟を委ねるというのだ。尽きぬと知るうしおに克とうとすればこそ、どこで溺れるかが問題になる。

 正確な機関銃としてのドラムは、ロックよりもメタルとしての存在感ニュアンスのほうが濃い、その大地の上でこそ、曲のアタマからためらわない、明眸めいぼうな鳴りのメインギターのソロは疾駆する。かけ違うな、ここに在るものが何であるのか、どうか間違わないでくれと。サイドのギターリフが陰で微笑む。生真面目に刻まれるところに、見え隠れる奏者プレイヤーの自尊の抑揚。生きるライヴ。これでいい、これだけがいい。そして、満ちた轟音の一歩先に踏み出す、矜持がある、自らこそが船首へさきであるのだと、今こそだ、航海の旗を振れ、ヴォーカルがガラス質の歌声こえで曲にイノチを吹き込む、この鳴動のうちに響けばこそ、何もかも十全なイキモノであれ。

 舟の内奥おくが燃える、確かな燃焼、熱エネルギー、進め。音の圧力が、イノチの奥の、きっと誰もわからない、正体を知らない何かを目覚めさせて、潰す轟きにこそそれを託して、鮮烈な彩りの中で、いつまでも届かないものに手を伸ばす。きっといつまでもかつえたままであることを知っている。満たされたらロックは死ぬ。

 けれど違うな。ぼくの眼瞼まぶたの奥は覚めない。ぼくは満足できないな。赫灼ヒカリを求める行為に、正当性も、行き着く先も、与えてやりたくない。どうして。なぜ今ここにいて、それを信じている。

 罪人でいい。どいつもこいつも。イノチの奥に、生を根付かせ、生じさせ、果てなくここにあるものとすればこそ、殺すことだってできるじゃないか。欲張れよ。ないものは死なない。あるから死ぬ。そこにあるならば――

 たった今の鏖殺おうさつだけを信ずるものとして、それをする。

 欲張れよ。

 ベースの胎動アシザキアキホがこの場の誰より、ぼくの心持ちに似ている。

 ひとり図抜けて弾けていると、それはそうだろう、正直者の糸原が凄腕と評価するほどなのだから。知れている。それは。だからと、多くにはわからないだろう、この場においてひとつたがえる力を余せばこそ、隠しおおせることができるのだとは。

 サウンドの重心にいながら、それを熱心に支配して、音を支える役目を守りながら、それでいて芦崎あしざき章帆あきほのベースは、自らの棲むべき岩盤の中から、その全てを懸けて逸脱したがっていた。どこに。決まっている。何もかもの崩落だ。誰よりも壊せる。きみはそんな場所にいる。だから、うねる。ひとつどころになどとどまれない、サウンドに融合したがらない、それでいて逃亡を選ばない、酷くひねくれたベース。悲しいな、わかっているから、ここをつつけば、、だからきみは。けれど後戻りも知らない、回れ右の必要はないから、そうだろう、誰の目にも明らかに崩れそうだと思えるが、。跳ぶだけのことだ、きみにとっては。

 ああ、不幸だな。

 大切な玩具を壊したがっていて、〈イノリの爪痕〉のサウンドの中で、かろうじて赦される範囲でそれを求めてしまっていて、そして、毫末わずかにも余すところなくそれを成し遂げてしまっていて、ああ、不幸だな、どれだけ壊してしまいたいのだろう、それが些末にできてしまえると、いいだけ思い知っているというのに、どれだけ、大切な玩具を守りたいのだろう、失うわけにはいかないのだろう。

 きみは誰よりも知っている、どこを守れば生命サウンドが生きゆくのか。すなわち、ひるがえせば、爪でさえける首級くび在処ありかを、全一ぜんいつあわに絶命に至らしめる、そしてきみを全能に至らしめる、踏み込めぬはずの聖域を、純に弾き続けていればこそ遮れなくなった童心の衝動が邪気なく馳せる終着点を、知っている。

 。もうふたつ跳ぶしかない、ならば、跳ぶんだ。壊れないところへ。

 守りたい。愛したい。ここにいたい。

 不自由にうねる。

 壮絶な音の荒波が、なぜ壊れないでいられるのか、わかられることもなく。

 違うだろう。

 大切な玩具だからこそ壊してしまいたいんだろう。

 観客が期待しているステージなんて粉々にしてしまいたいんだろう。

 その四本の弦で、めぐるものとなり、わかればこそに抱く冀求ねがいで。

 それでいて玩具が壊れたら泣くから、愛しいから、そこにあってほしいから、きみは迷うこともなく、踏まない。息の根を止める役なんて、きっと永遠にできない。だから不幸なのだと。先に跳ぶんじゃない。跳ぶから、こんな足りないベースしか弾けないんだろう。踏めよ。のぞむままに踏んでくれよ。それで壊れないとわかれば、

 やわには壊れないものが欲しいか。

 一度ならず、考えたことはないか。

 決して壊れない玩具が、自らの頭上うえにあることを。

 めぐりゆけばゆくほどに、あってはならないものを、叶えてはならないねがいを形づくる。芦崎章帆のベースの鳴動は、その音色タマシイは、罪深さに触れることができず、見つめることは忘れられず、。血みどろに、きっと手を伸ばしてしまうから。うだけにしたいから、そんな牢獄バンドなんて。




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