十四
その子供が光って見えた。しっかり見れば通常の視界だが、少し視点と焦点を外すと、紫、青、緑のあわいグラデーションの光のもやのようなものがその子供の周囲を覆っている。人体が発光しているわけではない。
セックスしないと出られない親方は、この視覚的な異常を初めて体験したが、動揺はしなかった。
現役時代の最盛期には奇妙な感覚を多く経験していた。取組の最中に、土俵の真上から自分と対戦相手を見下ろしていたこともあった。あるいはカメラが7つほどあるような、自分自身を外側から見ているような、そしてその映像を同時に統合して3Dで眺めているような感覚も経験した。
立ち合い前の所作、仕切りでの相手のわずかな動きの違いで、その後の立ち合いからの相手の動きが完全に読めることもあった。全くその通りに相手が動くため、何かデジャヴュのように感じていた。
自身の研ぎ澄まされた感覚から得られる情報が、意識を経ずに統合・再構築され、非現実的な視覚的イメージとして「見える」ことは、さして不思議ではないとセックスしないと出られない親方は受け止めていた。
有力な子供がいると部屋のスタッフ瀬上氏に聞かされて地方の相撲クラブを訪ねた時だった。目的の子供は確かに将来性が見込まれるが、セックス部屋ではなく他の相撲部屋が相応しいと思えた。
目的の子供が力強く土俵上で相撲を取っている後ろで、その子供はまわしをつけて壁際に曖昧に立っていた。たまたま親に連れられて体験入部していただけだった。小学4年生。体は大きいが、筋肉がよくついているわけでも、体重がひときわ重いわけでもない。胸から腹にかけてふっくらして柔らかそうな子供っぽい体で、とりたてて特徴はなかった。
セックスしないと出られない親方は、王呂樂として初めて関取となり、化粧まわしを贈られた16歳の記憶を思い出していた。構造色の糸で刺繍されたオーロラの柄を、指先で何度もなぞった。角度を変えると色も変わる。美しい。飽きもせずいつまでも眺めていた。
宝ものを手元に置いて愛でるあの甘美な時間の記憶を、このオーロラのような光を帯びて見えたこの子供が、セックスしないと出られない親方に思い出させた。
親方は皆が帰った後でその子と二人きりで相撲を取りたいとクラブの指導者と保護者に頼んだ。指導者は自分が見込んで育ててきた子ではなく体験入部の子を指名されてやや不愉快そうな態度を見せ、保護者は極めて著名な大横綱が何でもないわが子に関心を抱いて戸惑うような態度を見せた。
人払いして稽古場で二人きりで向き合うと、その子供は恥ずかしそうにした。はじめて裸にまわしを付けると恥ずかしがる子は多いものだ。
セックスしないと出られない親方は無遠慮にその子供の体に視線を注いだ。美しい。どこがどう、と言うのではない。全てがあまりに官能的に美しかった。性的な魅力を感じたのではない。相撲という営みが肉体を得てこの世に顕現したのなら、これがそれだろうと思わせた。
「お相撲、やるの?」
「ああ。相撲を取ろう」
「うん。じゃあこれ、外してもいい?」
これ、とはまわしを指していた。
「おじさんも邪魔でしょ。なしでお相撲しよ……」
その子供は全裸で相撲を取ろうという。何か導かれるようにセックスしないと出られない親方は服を脱いで全裸になった。その子供もまわしを取ってしまった。
相撲の経験はないはずだ。すーっと膝を開いて腰を落とし、前方に倒れ込むように頭から踏み込んできた。頭からぶつかるのを怖がることもしない。よく脱力している。しかし強く、重い。筋力があるわけでも、体重があるわけでもないが、大地と一体化したような重さがあった。
ごく自然な流れで子供の両腕が親方の両脇に差し込まれて両差しになった。この身長差なら親方は子供の肩越しにまわしが取れるが、そこにまわしはない。
そのまま子供はゆっくりと親方を押し始めた。親方も抵抗することなく土俵際まで下がると、足が俵にかかって動きが止まった。子供はがぶるような動きを見せた。子供の柔らかい肉体が液体のように押し寄せては引き、引いては押し寄せてくる。互いの肌が擦れ合う。相撲を何も知らないはずの子供が、この地上で最も相撲を理解している親方に、相撲の、そのものを伝えようとしているようだった。
(しかしこの子は)
セックスしないと出られない親方は、ふいに哀しみに胸をつかれた。
(愛されてはいない。この世の何者よりも相撲を愛する肉体でありながら、相撲はこの子を愛していない)
親方は自身が相撲に愛されてしまった存在だと自覚していた。大相撲のあらゆる全てを手に入れたくなってしまった。技術も、地位も、伝統も、影響力も、全てを。見初められ、愛されてしまったから、そんな我儘を許された。
努力する才能とよく言われる。肉体や能力などの先天的な要素よりも、飽くことなく努力を続けられる才能の方が稀有で大成するのに必要だと言われる。さらにそれは、その対象に無際限に注がれる興味が支えて、好きで居続けられる才能が大きいのだとも言われる。普通はそれを、その人物が対象を愛していると捉えるのだろう。しかしセックスしないと出られない親方は、その人物が対象に愛されてしまったからだと捉えていた。そこにその人間の意思も選択の余地もない。
それは転倒した認識だが、関取が輩出したこともない国に生まれ、セックスしないと出られないなどというしこ名と年寄を許されるに至ったこの史上最高の大横綱にとっては、「相撲に愛されてしまったからだ」というその転倒は、より実感に即していたのだった。
この子の肉体は、過去に見たどんな人物よりも、それは大相撲の幕内力士を含めてさえ、相撲の理想そのものだった。10年後の未来にこの肉体が最高に至るのを一片の疑いもなく見通すことができた。後にも先にも二度と現れぬ。だがこの子は、石を玉には磨き上げまい。相撲に愛されておらぬ。
親方に比べれば小さな子供が、懐の中で鞠のように跳ねて跳ねて、知らないはずの動きで寄り切ろうとしている。掴むところもないままに、尻のあたりを外から包み込んで、あえなく吊り上げたら、本当に大切な宝ものを扱うようにそっと、土俵の外にその子供を下ろした。
5年が経ち、中学3年に上がったばかりのその少年の前に親方は再び姿を表した。今度は金髪縦ロール悪役女将と、番頭格のスタッフも連れていた。少年の両親に、少年を部屋に迎えたいと頭を下げた。両親は困惑した。この子は何のスポーツもしていない。他の子よりも大柄だったから色々な競技をやらせてみようとしたが、少しやってはすぐに辞めてしまう。勉強を頑張ることもしない。
両親はごく自然な願いとしてこの子が生涯に渡って健康で経済的な苦労もなく幸せに過ごしてほしいとだけ望んでいた。相撲部屋に所属しながら通信制高校を卒業することもでき、セカンドキャリアの支援制度などもあると女将やスタッフが説明するのを聞いた。しかし根本的に、どうしてこの子なのかが上手く理解できずにいた。
「お前はどうしたい? 相撲部屋に入りたい?」
最後の最後は本人の意思に任せようと聞くとその少年は、
「はあ~い」
と返事をして、セックスしないと出られない部屋に入った。
少年は、下の名を取りしこ名を「瑠希奈」とした。
国本は同い年で同期入門の瑠希奈と相撲を取ってみて、強い違和感を覚えた。ずっと相撲教室に通い続けていた自分と違い、相撲経験はないという。ふんわりと立って組んでみると、もっちりと吸い付くような、それでいてぽんと弾き飛ばされるような、相反する感覚があった。教室や大会で組んだ相手のどれとも違う。
まじまじと瑠希奈の体を見つめた。赤ちゃんみたいな体型だなと思った。稽古では実力の近い者同士で当たることが多い。何度も肌を重ねるうち、国本は瑠希奈の体に並々ならぬものを感じ取った。
嫉妬した。相撲が好きだ。相撲を面白いと思う。自分は努力もしている。どんな体格であろうと、それに合った戦略を考え、技術を身に着けていけば上がっていけると信じている。だがそんな思いの何もかもを無化するほどに、瑠希奈の体は素晴らしい。
師匠のセックスしないと出られない親方は、国本が「それ」に気付いたことに気付いた。
「瑠希奈をよく見てやってほしい」
兄弟子や関取に言うならわかる。同期入門に、良きライバルになれではなく、面倒を見ろとはおかしな話だ。
「わかりました」
心中の嫉妬の嵐とは裏腹に、ごく素直にただそう承諾していた。
その一言は約定として国本を縛った。「瑠希奈をよく見ろ」という言葉をむしろ待っていたような気さえした。
「ボク、『セックスしないと出られない』になりたいな」
大横綱のしこ名は、止め名とされ後代の誰も名乗ることを許されない。野球でいう永久欠番と同様だ。
瑠希奈はそんなことも知らない。相撲を何も知らない。
「なれるといいね」
国本は瑠希奈をじっと見つめた。
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