十
さほど大きくはないミュージックバーで王呂樂は安室奈美恵の「SO CRAZY」を完璧なフリで踊っていた。
羽織袴姿で頭にちょんまげを乗せた外国人が誰なのか、DJマリアは知らなかった。「あれは横綱、王呂樂関だよ」と教えられても「ヨコヅナ」が何かを知らなかった。力士と言われてようやく「お相撲さんですわね」と理解した。
試しに続けて安室奈美恵の「the SPEED STAR」「Mint」をかけると、これも王呂樂は踊り、フロアは盛り上がった。
「ヨコヅナスペシャルですわぁ~!」
その日は次々と安室奈美恵をかけていった。
「そこもとの名を伺おう」
「人にお尋ねになる前に、ご自分が名乗るのが礼儀ではなくって?」
「これは失礼した。それがしは横綱、王呂樂と申す」
「ワタクシは金髪縦ロール悪役令嬢DJ。DJマリアですわ~~!!」
横綱が射抜くように見つめ、マリアも臆せず鋭く見つめ返し、二人は結婚した。
金髪縦ロール悪役令夫人DJマリアは、婚姻前の氏名を権常寺マリアといった。学生時代はレスリングの選手でもあり、182cmの長身に体重も80kg超と体格に恵まれ、横綱の巨躯と並んでも引けを取らなかった。
レスリング引退後はクラブDJとしての活動に勤しみ、トラックメイカーとしてアーティストへの曲提供もしていた。しかし一般の知名度が高いわけではなかった。活動初期は出演もノーギャラであったり、客集めで呼んだ友人の酒代を肩替わりしたりすることも多々あったし、機材や音源の仕入にも金がかかり持ち出しの方が多かった。
アルバイトや会社勤めをしながらDJを続ける者も多い中で、マリアは権常寺家の資産で暮らしていた。
代々の資産家は、継いだ資産を如何に目減りさせないかに心血を注ぐ。静かに暮らし、吝嗇な人物も多い。マリアは浪費家ではなかったが、打ち込んだものに金惜しみをせず、身代を喰い潰すタイプではあった。
幸いにも権常寺家はマリアの弟が資産を適切に管理し、自身も働きに出て身を立てていた。運用益から無理のない範囲をマリアに渡して権常寺家の資産は維持された。弟は姉のDJ活動を応援していた。
週刊誌報道によってマリアの出自が明かされ、「金髪縦ロール悪役令嬢DJに、将来の相撲部屋の女将が務まるのか?」と余計なお世話でしかない疑問が投げかけられた。
王呂樂は結婚前にマリアへ、住居は荒田川部屋の近くでなければならないこと、一年の半分近くは地方場所や巡業などで家を空けること、引退後は将来的に自身の相撲部屋を持ち女将になってもらいたいこと等々を説明した。マリアは相撲や相撲界に関して全くの無知だった。レスリングの競技経験があったが他のスポーツに関しては一切何も知らなかった。王呂樂はひとつひとつ丁寧に説明していった。
「要するにこのワタクシに、力士の妻、そして相撲部屋の女将になれとおっしゃるのですわね」
「その通りだ」
王呂樂はいつもの素っ気ない口調に反して、ふいに親に叱られる前の少年のような不安を顔に浮かべた。
「よ く っ て よ ぉ~~~!!! オーホホホホホ!」
マリアの哄笑に、自分から頼んでおきながら王呂樂は唖然とした。
「ワタクシ、ワクワクして参りましたわ」
マリアは王呂樂の7歳年長だった。
マリアは荒田川部屋にほとんど毎日通うようになった。王呂樂とマリアは部屋から徒歩2分の距離でマンションを借りていた。
荒田川部屋の所属力士は、王呂樂の入門時には王呂樂を含め3名だったが、高齢の力士が引退した今は、親方の息子の幕下力士と王呂樂の2名のみだった。荒田川親方の妻は、部屋に同居はしていたものの、現在はほとんど部屋の仕事をしていなかった。かつて力士数が多かった時代はそれなりに女将業をしていたが、曖昧に離れていった。
部屋の雑事は弟子である息子が、経理や後援会との渉外などは娘が担っていた。女将の娘は会社員として外で働いていたが、部屋の手伝いを弟から要請され、実家を見捨てられずに部屋の業務に携わっていた。
マリアは荒田川親方の妻から女将業を学ぶことはできなかったし、女将はマリアを疎ましく見ている様子だったが、姉からは感謝された。姉は当初、体格の良いマリアから見下ろされ、ゆっさゆさと目の前で揺れる立派な金髪縦ロールに威圧感を、高圧的な悪役令嬢口調に恐怖を覚えた。
しかしマリアがとても素直に仕事を覚え、よく働く姿に接し、次第に心を開いていった。後援会もマリアを「横綱の妻」ではなく「荒田川部屋の若女将」と認識するようになっていた。
姉はようやく部屋の仕事をマリアに引継ぎ、実家から離れることができた。
マリアは一方で、トラックメイカーとしての活動も続けていた。
十両以上は紋付袴を許されるが、外国出身力士には家紋がないため親方から貰うことも多い。王呂樂は荒田川親方の変わり結綿紋を付けていたが、結婚を機に妻の権常寺家の丸に六葉紋に付け替えた。
部屋付きの親方や現役の力士が将来的に独立して自分の部屋を持つことを見越し、内弟子を持つことがある。
王呂樂は現役の横綱であったが、各地の後援会を通じて全国から有望な子供・学生の情報を得て足を運んだ。実物の横綱を目の前にし「お前は強くなる」と断言され、手や肩を握られて、感激しない方が難しかった。海外にも有望な人材がいると聞けば協会からの許可を得て渡航した。過去には外国出身力士は原則1部屋1名の制約があったが既に緩和されていた。
王呂樂が内弟子を徐々に獲得し、荒田川部屋の所属力士は増加していった。付け人も部屋でまかなえるようになった。マリアはレスリング経験を活かし、中卒の新弟子くらいなら倒すことができた。
「あなた横綱におなりあそばせ!」
「人生GO! GO! GO! ですわ~」
現実には横綱どころか、十両に上がれず角界を去る力士も大勢いる。女将としては無責任な発言ともいえた。しかしいつでもひたすらポジティブで強いマリアを見ると、弟子たちは元気を貰えるのも事実だった。
「ワタクシあなたに嫌われることなんて何でもないのですわ。あなたが人間として立派になれるのなら、そんなこと何でもないですわッ!!」
弟子が生活に手を抜けば叱る。弟子が勝てば大喜びし、負ければ本気で悔しがる。力士本人が「こんなもんか」と自身を諦めかけても、自分以上に悔しがるマリアを見れば発奮した。
稽古はほとんど王呂樂が自らつけていた。荒田川部屋の力士たちは王呂樂とマリアを、ほとんど師匠と女将として接していた。現役力士が内弟子を持つこと自体は必ずしも珍しくないが、20代前半で10名弱も持つのは異常だった。
荒田川親方の息子で、王呂樂の唯一の兄弟子だった力士は引退した。入門から引退まで本名である「瀬上」をしこ名としてきた。王呂樂が関取となって以来、ずっと付け人を勤め続けていた。
「瀬上殿。引き続き荒田川部屋を支えていただけぬであろうか」
王呂樂が頭を下げると、兄弟子は穏やかに思いを語った。
「私は、相撲部屋の子供だと思っています。父は36歳でこの部屋の師匠になりましたが、私は7歳でした。ずっとこの場所で、お相撲さんたちと暮らしてきました。賑やかでしたよ。自然と自分もいつか相撲取りになるんだと思っていました。しかしだんだん力士の数も減っていって、私が入門した時にはわずか4人でした。その後2人になり、このまま部屋は無くなるんだと諦めていました。
そんな時に君が来た。フィンランドから。僕はフィンランドなんて行ったことないよ。実はヨーロッパのどこにあるのかも、君が来るまであんまり知らなかったんだよ。僕が22歳の時だった。ちょうど大学卒業、世の中の人は会社に就職するような年齢で、年老いた引退間際の人と2人しか力士のいない部屋で、自分は何してるんだろうって思ってた。そんな時に、15歳の君が急に現れた。背は高かったけど痩せてて。『入門を平にお許し願いたい』なんて言って、あんなにびっくりしたことないよ。どうやって追い返すんだろうと父さんに引き渡したら入門を許すだとか言って。まあ、本当にびっくりした。むちゃくちゃだよ。でも君は本当に……信じられないような、相撲の神様の遣いなんじゃないかと本気で思うくらいに強かった。あっという間に駆け上がって、関取の世界を見せてもらった。どんどん弟子まで増やして、あの賑やかな部屋が戻ってきた。ああ、相撲を続けていて良かったなと心の底から思うよ。
横綱、私からもお願い申し上げます。引き続き部屋を、横綱を、支えさせて下さい」
瀬上は話すうちに、まだ関取になる前の子供だった15歳の王呂樂に、22歳の兄弟子として話す時の口調に途中で戻っていた。
瀬上は成績が規定を満たさないため親方にはならず協会を去ったが、部屋のスタッフとして残った。弟子たちの生活や稽古の面倒、スカウトなどを業務とした。
長年王呂樂と共に過ごしたことで、王呂樂の考えや価値観、審美眼をよく把握して内面化していた。スタッフというより番頭に近いような存在だった。
相撲部屋の師匠と女将がほとんど部屋に姿を見せず、弟子とその妻が実質的にその役目を果たす状況は異常だ。何か部屋に問題が起これば師匠の監督責任が問われ、横綱にも責任論が噴出するところだが、マリアや瀬上の目配りと、弟子たちの王呂樂への心酔のたまものか、正常にまわっていた。
荒田川部屋は、部屋建物を新築した。
敷地面積が500㎡弱あり都内の相撲部屋としてはかなりの大きさだった。RC造の地上4階建てで、王呂樂が後援会筋を通じて知り合ったデベロッパーが、設計、施工、土地購入まで手がけた物件だった。
相撲部屋の日常生活、稽古・風呂・ちゃんこの動線がよく考慮され、効率的なつくりになっていた。稽古場の土俵は多くの相撲部屋と同様1面のみだったが、土俵周辺のスペースはかなり広く取られ、また鉄砲柱は6本も設置され、基礎動作は存分に可能な設計になっていた。動きをチェックできるようにモニターや鏡が設置された。トレーニングルームも充実している。
最上階は師匠一家の住居となっていたが、荒田川親方と女将は入居せず以前の部屋建物で暮らし続けた。代わりに王呂樂とマリアがそこに住み込んだ。
これは荒田川親方と女将をパージしたわけではなく、親方と女将本人が住み慣れた元の部屋で暮らし続けたいと申し出たためだった。
荒田川親方は協会業務に勤しむ一方、新しい部屋にも週に数度は顔を出し、力士たちを指導していた。
師匠といえども自身の内弟子へ口出しされるのを好まない現役力士や部屋付き親方もいるが、王呂樂は親方が指導に来れば「ごっちゃんでございます」と感謝を口にした。
荒田川親方は王呂樂に対してさえ指導した。現役時代の実力差からしても、相撲という競技に対する理解からしても、王呂樂の方がはるかに上だったが、王呂樂は素直に受け入れていた。
親方は「自分が横綱を育てた」という歪んだ認知を抱いていたが、王呂樂はそれを壊さないようにしていた。
親方は、自身の荒田川部屋が大きく立派になったことに満足していた。
内弟子を増やし、部屋建物を新築し、部屋を支えるスタッフや女将代理を得て、確実に足元を強化していく一方で、王呂樂自身の横綱としての成績も他を圧倒した。
過去の朝青龍・白鵬の7場所連続優勝、朝青龍の4場所連続全勝優勝、双葉山の69連勝の記録を更新した。あまりに強く、連勝が続いていると、何か対戦者も相手が勝つことが当然のような感覚を抱いてしまい、そうして連勝が続いてしまう面もあった。
あえて相手の取り口に合わせた上で勝つ相撲を続けていた。それでも連勝した。
王呂樂は四つ相撲を得意としたが、本来の右四つに加えて左四つでも全く不自由なく取れたし、外四つでも長身を活かして十分に取れ、また両差しでも窮屈にならずに取れた。一方で組まずに離れても、強烈な喉輪や回転の良い突っ張りで相手を起こすこともできたし、押し切ることもできれば、引きのタイミングも抜群だった。
怪力を生かした強引な投げを打つこともできたし、相手の一瞬の重心の変化を見極めて無双を切るような器用さも見せた。時には地面すれすれまで上体を下げながら相手の足やまわしを掴んで落ちない、10代の初期の頃のような相撲を見せることもあった。
土俵際で俵の上を伝え歩きサーカスのような動きを見せて驚かせてみたかと思えば、軽く尻を振るだけでまわしを切ったり、下から絶妙な位置でおっつけで相手の差し手を封じたり、地味ながら基礎的な技術を極限まで高めた妙技を見せもした。
要するに万能だった。相撲の考え得るあらゆる技術を不自由なく繰り出すことができた。相手の得意な形にしても圧倒する。結果的に相手は、自分自身の得意の中にある弱点を見出すことになる。将棋や囲碁などの指導対局において、アマチュアが投了した盤面をそのまま手番の先後を交代し、プロ棋士がその不利な戦況からでも勝ってしまうことがある。何かそれに近いものがあった。ほとんど土俵の上で相手を指導しているようだった。
荒田川部屋での内弟子への指導も熱心だったが、出稽古も一門を超えて多くこなし、惜しげもなく自身の技術を注入した。その恩義で他の部屋からも荒田川部屋へ関取が出稽古に来てくれた。やがて内弟子の中から関取も誕生した。
自分自身のためのトレーニングとしては、四股やてっぽう、すり足といった基礎と、筋力トレーニングが中心で、実戦に準じた稽古はほとんどしなくなっていた。ただ型のような動きで自身の体の動作を日々確認することは怠らなかった。
圧倒的に強く、大きな怪我もせず、史上最高の横綱と呼ばれた王呂樂だったが、引退は早かった。
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